井本喬作品集

コロナと『ペスト』

 新型コロナウイルスが世界を襲っているこの時期に、カミユの『ペスト』(1947年)が再び読まれるようになったことは納得できるのだが、一方で、違和感もある。カミユについて詳しくは知らないのだが、彼の作品にはキリスト教に対する疑問が込められている。当時のキリスト教圏の読者にとっては深刻な問いだったろう。しかし、キリスト教に対してどのような態度をとるかは、当時も今も、私たち日本人にとっては切実なテーマではないのだ。そういう日本人に『ぺスト』がどの程度の切実さで受け止められるだろうか。

 そもそも『ペスト』は読みにくい小説だと思う。語り手の言葉が押し付けがましく、文章をたどっていくのに苦労する。いたるところで語られる「〇〇は、××である」という語り手の断定に辟易してしまう。表現が凝り過ぎていて、私の趣味ではない。

 さてそれは置き、『ペスト』の中では、パヌルー神父の説教という形で神議論が述べられている。語り手はあからさまに異議はとなえないものの、それが受け入れがたいことを読者に示そうとしている。神議論というのは、ごく簡単に言えば、神が全能であるなら、なぜ世の中に不幸が存在するのか、という疑問への答えである。神が全能であるならば、不幸の存在を許さないようにできるはずだ。だとすれば、神は全能ではない(不幸をなくせない)か、不幸を認めている(不幸を気にしない、あるいは、不幸を意図している)かの、どちらかでなければならない。この論理的帰結に反駁するのが神議論なのである。

 パヌルー神父の説教は二回あって、一回目ではペストは人間たちの罪に対する神の罰であるという趣旨のことが述べられる。しかし、この論理は弱いところがあって、全能の神ならば人間に罪を犯さないようにさせることができるはずだ、という反論を招くのである。この反論に対しては、神は人間に自由意思を持たせたので、人間は罪を犯すことができるようになっているのだ、という答えが用意されている。しかし、さらなる反論として、人間に自由意思を持たせつつ、罪を犯さないようにすることだってできるのではないか、と言うことができよう。そもそもなぜ人間に自由意思を持たせて、罪を犯す可能性を与えたりするのか。そしてそのことで人間に責任を問うのか。そこには神の悪意のようなものを感ぜざるを得ないではないか。

 さて、パヌルー神父と医師リウー(この物語の主人公格)は子供が苦しんで死んでいくのに立ち会うことがあった。そのときパヌルー神父は「子供に罪はあるのか」とリウーに問い詰められる。それが影響してか、パヌルー神父の二回目の説教では、ペストをもたらした神の意図は人間には理解できないが、それでも神を信じなければならない、というように変わってくる。これは語り手が指摘しているように、異端ぎりぎりの説である。さらに、神は人間にはその目的は理解できないが人間のためにペストをもたらしているか、あるいは、神は人間のことなど気にせずに神の目的(おそらく人間には理解できない)のためにペストをもたらすのか、そのどちらかは人間には分からないであろう。後者の神は人間にとっては無慈悲な神である。そういう神であっても存在することを信じるのは、信仰と言えるのだろうか。

 『ペスト』のメッセージ(の一つ)は、神はいない、あるいは、いたとしても私たちには関係ない、ということであろう。タルーがリウーに語った次の言葉は、静かではあるが強い決意が表明されている。

「これは、あなたのような人には理解できることではないかと思うのですがね、とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、恐らく神にとって、人々が自分を信じてくれない方がいいかも知れないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦った方がいいんです、神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」(宮崎嶺雄訳)

 ペストは災厄であり、そのことに人間が責任があろうがなかろうが、全力で立ち向かわなければならないのである。そして、ペストは、私たちがどういう態度を取ろうと関係なく、不意に襲ってくる。私たちは偶然性に左右される。それでも、私たちはそれにひれ伏してはならない。それが生きることなのだ。

 ところで、この小説におけるペストは比喩であり、フランスを占領したドイツ軍をなぞらえているという解釈がある。より一般的には、戦争を含めたあらゆる災厄をなぞらえていると言えよう。

 比喩と解釈されることの一因は、ペストの悲惨さがあまり具体的に描かれていないところにあるのではないだろうか。ペストによる惨状は、報告書のように、例えば死者数動向といった全体的な傾向として述べられているのだ。個別のケースも単に具体例としてあげられているような印象を受ける。

 もちろん、叙述が一観察者の手記という体裁になっていることにもよるのだろう。そして、観察者の立場が、医師リウーを中心とした治療者や援助者の側にあることにも。それが戦争を思わせるのだ。ペストという敵と戦う戦闘員の立場。

 リウー、タルー、グラン、ランベールなど、主要な登場人物は男性であり、彼らにはほとんど家族がいない。リウーには母親がおり、街の外で療養している妻がいるが、ほぼ独身生活である。ジャーナリストのランベールは隔離によって恋人と分断されている。タルー、グランは一人暮らしである。つまり、彼らは戦場における兵隊なのだ。

 非戦闘員としての女性や子供は、パヌルー神父への問いとなって死んでいったオトン判事の息子以外、背景としてでしか出てこないのである。ついでながら、戦闘員としての女性も出てこない。

 戦争の真の犠牲者は非戦闘員である。戦闘員は死ぬ確率が高いであろうが、彼らには明確な敵がいて、彼らの戦闘行為は英雄的な要素も持ちうるのだ。彼らは敗北するかもしれないが、戦うことができた故に、犠牲者ではない。真の犠牲者は戦いに巻き込まれた非戦闘員である。

 『ペスト』は戦う者の賛歌になりかかっている。勝敗は度外視しても、戦うこと自体に意味がある、と。まるで、神の無慈悲さの中にこそ信仰の意味があると言うパヌルー神父のように。

 ところで、パヌルー神父の一回目の説教の論理はそれほど受け入れがたいものではない。災害は私たちの恥ずべき行為を罰するものである、というような意見は阪神淡路大震災の際にもあった。今回のコロナ禍については、そういうことは言われていないようである。とりあえずはそれどころではないのかもしれないが、環境問題などの責任を問う形で言われてもおかしくない。

 日本でのコロナ禍はおさまりつつあるが、個人的には、以前のようなインバウンド観光客で浮かれる状態には戻ってほしくない。

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