井本喬作品集

労務管理という「業」

 2022年2月22日のNHK報道によれば、JR西日本は運行中以外の人為的ミスについて3月から懲戒の対象にしないことになった。これだけではどういうことか分からないのだが、記事によれば次のような事情によるものである。17年前の福知山線脱線事故の背景に会社による懲罰的な指導があったと指摘されたことから、速度超過や信号機の見落としといった運行上のミスについては、原因究明を優先し、ミスを報告しやすくするため、懲戒の対象から外していた。しかし、運行に関わる社員が出勤後、仮眠室で寝過ごしたり、整備士が作業開始の時間を間違えたりするなどの人為的なミスについては、懲戒の対象とすることが続いていたが、ようやくそれを見直すことになったのである。

 これだけのことに17年もかかったのである。国鉄時代から引き継いでいるJRの企業体質をうかがわせるのではないか。そう私が感じたのは、ちょうど橋本克彦著『線路工手の唄が聞えた』(文春文庫、1986年)を読み直していたからだ。同書の中に「線路検査」についての記述がある。「線路検査」とは全国の線路の整備状況を年に一度検査して、優良区間を表彰する制度である。大正十五年(1926年)に「優良丁場表彰規定」が制定され、戦争戦後の混乱を経て昭和三十一年(1956年)に事実上廃止された。

  すでに興浜北線や天北線で見てきたように、どんな整備をしても、すぐに凍上にやられる線路なのである。それに向かい、汗みずくになりながら一ミリで五点減点という整備を競いあうのは奇妙な光景であった。あえていえば壮大な徒労であろう。

  この事態は北海道以外の他の線路でも同じだった。古市の言葉にもあるように、整備し終わった線路は、列車通過のたびに動いて、数時間後は気になって見に行くほどなのである。

  線路工手たちは残業代のつかない自主延長作業でこの仕事をこなした。そうやってよく整備され輝くばかりになった線路は、庭園のように鑑賞され、秋の稲田のように線路検査が終わると同時に冬枯れていき、荒れ、翌年、夏から秋ヘ向けてまた再び化粧をこらすのである。(同書)

 線路工手たちは「優良線路班」という金看板を競って熱心に整備に励んだ。無理やりやらされたのではない。私は一時流行した企業のQC活動を連想した。本来の機能がなおざりにされて自己目的化していく活動。それは旧国鉄だけではなく、日本の企業の特質なのかもしれない。

 労働者同士を競わせるというのは労務管理の重要な手段のようだ。後述する吉村昭の『赤い人』(1977年)や『高熱隧道』(1967年)にも、囚人や労働者をチームに分けて競わせて成果をあげることが描かれている。

 ところで、『線路工夫の唄が聞えた』を再読したのは、『北の無人駅から』(渡辺一史、北海道新聞社、2011年)という本を読んだからだ。その中には、『線路工夫の唄が聞えた』の他に、『赤い人』、『常紋トンネル』(小池喜孝、朝日新聞社、1977年)などが言及されている。それらの本の記述をつなぎ合わせると、まず、北海道の道路や鉄道の建設が国家事業として過酷な囚人労働によって開始され、次に資本によってタコ部屋という半ば強制的な労働によって引き継がれる。そのようにして形成された鉄道網が線路工夫の重労働によって支えられてきた。

 黒部川第三発電所建設を描いた『高熱隧道』にもあるように、かつての土木工事は殉職というのが避けられないとみなされていたほどの過酷な労働環境だった。ましてや、囚人労働やタコ部屋労働では、労働環境だけでなく、衣料や食べ物や居住なども劣悪で、医療は無きに等しく、労働災害というより使い捨てされていたのが実態だった。公的な規制外にあったとみなせるタコ部屋においては、衰弱すれば虐待され放置されて死に至らせしめられ、逃げ出せば殺される可能性が高かった。タコ部屋労働で死亡した労働者は適当に処分されて闇に葬られることも多かった。労働災害や病気だけでなく、リンチによる場合もあり、時には生きたまま埋められたこともあったようである。

 ただし、タコ部屋という制度は主として北海道と樺太の土木工事に限られるようで、他の地域や他の職種に見られる家族的温情主義が排せられるような状況があったらしい。

 『常紋トンネル』によれば、「常紋・厚岸のように死体が遺棄されず、許可証をもらって埋葬するようになったのは、一九一九(大正八年)の『労役者使用取締規則』によって警察の取り締まりが強化され、それが現場に及んだ」後である。同書には、瀬棚線(国縫~瀬棚)の第三・四区工事(地崎組請負)の殉職者の埋葬許可書による13名の氏名が記載されている。死亡したのはいずれも1928年(昭和3年)、年齢は20歳代が8名、30~33歳が4名、38歳が1名と若い。死因は脚気が10人、他は気管支炎、圧死、腎臓炎が各1名である。

 脚気の死者が多いことは日清(1894~5年)・日露(1904~5年)の戦争を連想させる。坂内正著『鷗外最大の悲劇』(新潮社、2001年)によれば、当時は脚気の原因がビタミンB1不足であることが分かっておらず、白米偏食が患者を増加させていた。日清戦争では陸軍における脚気患者は全入院患者の4分の1に当たる41,431名、戦死者977人に対して脚気による死者は4,064人であった。日露戦争では戦病死者37,200余名中脚気によるもの27,800余名(約75%)、患者数は25~30万人と推定されている。(ついでながら、当時陸軍軍医であった森鴎外は病原菌説にこだわり、パン・麦・玄米食などによる改善策を取り上げようとしなかった。)つまり、タコ部屋における重労働と陸軍における戦闘は、日本が近代国家を目指す過程で生じた同質の現象であったわけだ。

 ところで、夏目漱石は『坑夫』(1908年)という奇妙な作品を書いている。これはある青年が「ポン引き」に誘われて鉱山労働者にさせられた体験を基にしている。漱石は主人公の心理描写にこだわりすぎ、文体と記述内容の齟齬がこの作品を読みにくくさせているが、作中で起こっていることはほぼ事実に忠実であるようだ。描かれている労働環境はタコ部屋とあまり変わらないが、労務管理はタコ部屋に比べてそれほど過酷ではない。この違いは本州という場所的なものと、鉱山という職種にあるのかもしれない。『常紋トンネル』には「タコ部屋生活十三年」という労働者の次のような述懐がある(時期としては1920年から1935年にかけて)。「冬になって飯場が終わると、炭鉱や工場へ行って暮らしたことがある。あったかだったな。夕張や赤平の炭鉱にも行ったが、穴の中へ入るとぬくくて、一日中寝て暮らした」。『坑夫』にも坑内でサイコロ博打をしている描写がある。タコ部屋労働では監視が厳しくてそんなことはとてもできない。タコ部屋労働は、土木工事に特有の請負と下請けという制度的背景もあって、賃金を労働意欲の誘因として使うことができないほどの搾取労働であったのである。

 時代は移り、労働環境は各段によくなっている。だから、そういう労務管理(と言うのが適切かどうか)の流れが今に続いているとは言えないけれど、原理そのものは変わっていないのではないか。非正規労働者の増加や技能実習生というタコ部屋的制度のことなどから、そう思えてしまうのである。

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