北海道の鉄道
私が学生だったころ、夏休みなどに北海道旅行することが流行っていた。ユースホステルなどの安い宿を使って、時には野宿のようなことをして、長期に滞在する。キスリングを担ぐ若者はカニ族と呼ばれたりした。その頃は、当然のように、鉄道やバスを乗り継いで移動した。
私自身は学生時代には北海道には行かなかった。後年になって一度、そして今回が二度目の北海道旅行だった。旅行のあと、『北の無人駅から』(渡辺一史、北海道新聞社、2011年)という本を読んだ。
この本には、室蘭本線小幌駅、釧網本線茅沼駅、札沼線新十津川駅、釧網本線北浜駅、留萌本線増毛駅、石北本線奥白滝信号場の6つの駅が取り上げられている。その駅周辺に住む人たちの過去と現在を聞き取ることにより、「農業、漁業、自然保護、観光、過疎、限界集落、市町村合併、地方自治」などのテーマで、北海道だけでなく日本社会の断面とでもいうべきものを浮かび上がらせている。
この本を読んでいろいろ考えさせられた。旅行したときのことを思い返して、観光向けの上辺の姿だけしか見ていなかった自分に気づかされた。見逃していたものの一つに、鉄道の衰退がある。
先日も根室本線の富良野~新得間、函館本線の長万部~余市間の廃止を地元自治体が受け入れたという報道があった。この本で取り上げられた駅についても、留萌本線の増毛~留萌間が2016年に、札沼線の新十津川~北海道医療大学間が2020年に廃線となっている。
増毛駅は高倉健主演の映画『駅・STATION』(1981年)の舞台になり、同じく高倉健主演の映画『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年)は根室本線の幾寅駅で撮影された(映画の中では幌舞駅)。私は今度の旅行のとき、レンタカーで富良野から帯広に向かう途中、幾寅駅を通りかかった。駅は撮影用に改造されたまま、観光客にも開放されていた。オープンセットとして駅前に作られた商店や食堂の建物も観光用に残されていた。しかし、根室本線の東鹿越~新得間は2016年の台風10号の被害で運休中であったため、幾寅には列車は来ておらず、駅にいた地元の人は代替バスを待っていた。
そして、上述のように、富良野~新得間は廃線となることが決まった。根室本線(1921年開通、滝川~根室)はこの区間で分断されることになる。ただし、札幌方面から帯広、釧路、根室へは、新得で根室本線に接続する石勝線(1981年開通、南千歳~新得)がすでにメインルートになっている。
幾寅から狩勝峠を越えて帯広へ向かった。その日は帯広に泊まった。
帯広からは南北に士幌線(帯広~十勝三股、1939年開通)と広尾線(帯広~広尾、1932年開通)が走っていたが、いずれも1987年に廃線となっている。士幌線にはタウシュベツ川橋梁というアーチの連続する橋があった。糠平ダムの建設に伴う線路付け替えによって放棄され、いまは湖に沈んでいるが、水位が下がると姿を現すので一部に人気になっている。広尾線には愛国と幸福という駅があり、「愛国から幸福ゆき」の切符がブームになったことがある。
翌日、帯広から網走を目指した。帯広の東に根室本線の池田駅がある。池田~網走間にはかつて網走線(1912年開通)が走っていた。網走線は1961年に網走~北見間が石北本線に組み込まれ、北見~池田間が池北線に名が変わった。池北線は1989年に北海道ちほく高原鉄道に転換、「ふるさと銀河線」として運営されたが、結局2006年に廃線になった。
足寄からは網走線のルートとは別れて阿寒湖を経由して網走へ行った。阿寒湖の北の相生から北見までは相生線があった(1925年開通、1985年廃線)。
網走からサロマ湖へ足を延ばしたが、ここにもかつて湧網線が走っていた。
『常紋トンネル』(小池喜孝、朝日新聞社、1977年)によれば、明治後期にオホーツク環状線という構想があった。池田、北見、湧別、興部、名寄を鉄道で結ぼうとするもので、十勝線、宗谷本線と接続すれば環状になる。
網走から湧別へは、サロマ湖南岸を通る海岸回りと、北見、遠軽経由の山手回りの二つのルートが競合し、政争となったが、結局山手回りの湧別線(北見~湧別)が1917年に開通した。湧別線は難工事で、特に常紋トンネル工事では多くのタコ部屋労働者が死亡した。
競争に敗れた海岸回りのルートは、遅れて1953年に開通して湧網線(中湧別~網走)となった。しかし、湧網線は1987年に廃線。
中湧別で湧別線に接続していた名寄本線(1921年開通)は1989年に廃線。既述のように池北線も最終的に2006年に廃線となったので、池田~名寄ルートで残ったのは網走線の一部(網走~北見)と湧別線の一部(北見~遠軽)のみであり、石北線(遠軽~旭川、1923年開通)とともに石北本線に組み込まれた。
網走に泊まって、翌日釧路へ向かった。釧網本線(1931年開通、東釧路~網走)はまだ健在である。ただし、斜里から越川へ延びた根北線(1957年開通)は1970年に廃線になった。
『北の無人駅から』では北浜、茅沼という釧網本線の二つの駅が取り上げられている。北浜駅は小清水原生花園に行く途中で見かけたが寄りそこなった。茅沼駅は道路から離れているので気がつかなかった。
釧路では駅前のホテルに泊まった。釧路駅の巨大なビルは荒廃を感じさせられる外観だった。街自体も活気がなさそうである。釧路湿原だけでは観光客はなかなか来ないのかもしれない。啄木ゆかりの港文館にも行ってみたが、訪れていたのは他に一人だけだった。
北海道観光が人気であるとしても、地域的には限られているのではないか。しかも、観光だけでは都市の衰退を防げない。小樽でさえそうだ。北のウォール街と言われた繁栄は、残された古い建物にうかがえるだけだ。
北海道の鉄道の衰退はモータリゼーションだけのせいだけではない。資源に頼った産業の衰退でもあるのだろう。そして、北海道の港が北に対して閉ざされてしまったことも、グローバリゼーションの恩恵を受けにくくしてしまっている。北海道はロシアの脅威に対抗するために開発された一面があるが、戦後の防衛的な位置づけが発展を押しとどめてしまったのは皮肉である。北海道は日本の北のどん詰まりに戻ってしまい、やがては自然が勢力を盛り返すのではないか。原生林を斧で切り開いてきた先人たちはどう思うだろうか。