井本喬作品集

映像としてのミステリ

 ミステリ小説を映像化しようとするとき、原作に忠実であろうとするのは無理なのかもしれない。第一に、ボリュームが違いすぎる。映画では原作を省略しないと収めきれない。テレビドラマなら連続ものにすることで対応可能だが、視聴者にそれだけの忍耐を要求できるか疑問である。第二に、表現形式が違いすぎる。言葉による叙述と映像による描写では解釈の仕方が異なる。第三に、物語の進行に対する受け手の自由度が違う。本ならば読み進めるのを中断して読み返すことができる。ところが、映画やテレビでは映像は流れ行き、既に見た場面の詳細を覚えておくのは至難のわざだ。後に分かるその場面の意味をつかみ損ねてしまうのは当然なのである(だから、映像提供者が過去の映像を繰り返すことで理解を助けようとすることが多い)。同じ映像を二度、三度と見ることで何を描写せんとしたかが理解できるのだが、そんな手間ひまをかけるのはマニアックな鑑賞者だけだろう。

 最近見た二つの映像がそういう思いを強くさせた。一つはNHKが放映したBBC製作ドラマ『蒼ざめた馬』(2020年)、もう一つは映像配信で見た映画『湿地』(2006年)である。どちらも映像だけではよく分からなかった。ミステリだから論理展開が納得できなければ分かったとは言えない。そこで原作を読んでみた。アガサ・クリスティー『蒼ざめた馬』(1961年、高橋恭美子訳、早川書房、2004年)とアーナデュル・インドリダソン『湿地』(2000年、柳沢由美子訳、東京創元社、2012年)である。

 テレビドラマの『蒼ざめた馬』は原作を大きく改変している。探偵役の主人公の状況が正反対と言えるほどなのだ。事件のプロットは何とか保たれているのだが、ストーリーは全く違ってしまっている。

 だが、どちらが面白いかというと、テレビドラマの方に惹かれる。小説では謎が合理的に解かれていくのだが、テレビドラマは主人公マークの秘密がもやのように漂い、事件の真相は判明しても解決ということにはならない。論理のつながりがたどれなくとも、事件の奇怪さが物語を支えることになる。オカルトというよりも、誤解から生じた陥穽にはまり込んだ男が追い詰められていく様が不気味なのである。明るい合理性では満足できないのが現代なのかもしれない。

 次に『湿地』について。こちらは小説の不備を補うように改変されている。悪役三人組の一人グレータルがなぜ殺されたのかが小説ではあいまいなのである(彼の撮った少女の墓の写真が何かを暗示しているのだが)。この犯罪がなくても物語は成立しそうであるが、床下に埋められた死体というのはこの物語の雰囲気を醸成するのに不可欠である。そこで、映画では仲間割れということをはっきりさせるために、元警察官ルナールをからませて四人によるユスリを設定している。しかし、その結果、「強姦による出生の悲劇」というこの小説の柱が損なわれてしまった。犯人の動機が薄れてしまうのである。むろん、犯人が誤解したという解釈も成り立つが、それでは弱い。

 ところで、この映画では、犯罪の経過(過去)が捜査の進行(現在)の合間に、時制が区別されることなく何回か挟み込まれていて、原作を知らない人は混乱する。観客に原作の知識があることを前提にしているようである。捜査の進行の映像と犯罪の経過の映像をお互いに補完させることで、最後の種明かし的な説明をできるだけ省こうとしたのだろう。言葉による説明ではなく映像による描写に重きを置こうとしたためかもしれない。

 原作(本)を読むことによって、映像が提供しようとしたことが分かるようになった。映像は原作を改変しているのだが、原作を知っていればその意図と意味が理解できる。問題は映像単独ではそれが難しいということだ。

 ミステリというのは、当初警察や探偵(そして、読者や鑑賞者)が得ることができる事実は限られていて、知られていなかった、あるいは隠されていた事実を探求するという体験が追加されていき、やがて事件の全体像が明らかになる過程を描くというものだろう。単に事件の詳細が明らかになるというだけでなく、当初知らされていた事実から予想される事件の経過が、不足していた事実を補完することで覆されてしまうというのがミステリの醍醐味である。断片的に知らされていた事実には二重の意味があったことに読者や鑑賞者は気づかせられるのだ。

 しかし、映像(と音声)での描写では、見逃し(や聞き逃し)があって、映像制作者の意図が伝わらないことがある。本ならばしっくりと読み、ときには読み返すことも可能だが、流れる映像は意のままにはならない。かといって、鑑賞者の理解を助けるために、事件解決の鍵になる映像や言葉をことさらゆっくりと、あるいは、はっきりと際立たせて描写することは物語の興味を損なってしまう。

 ところで、『カメラを止めるな』(2017年)という日本映画のフランス版リメイク作品が今年(2022年)公開されるそうだ。唐突かもしれないが、この作品は言葉による説明なしに過去の再解釈を映像化している。

 『カメラを止めるな』は前半に陳腐なゾンビ・ストーリーが描かれているのだが、その進行に奇妙なチグハグ感があり、後半でそのストーリーの映像化過程が描写されることにより、そのチグハグ感の原因が明らかにされるのである。前半部は特殊な視点の設定により事実が恣意的に切り取られているのだが、鑑賞者にはそのことが分からず、後半になってその事実に別の解釈があることを知らされるのだ。つまり、作られた現実(知らされていた事実のみで構成される過去像)と、その現実が作られた過程の暴露(新たに明らかになった事実がつけ加わって再構成された過去像)という二つの現実解釈の比較という構造となっている。これはミステリの原型、典型とみなされよう。

 この作品を小説として表現するのは難しそうだ。文字ならば意図性があからさまになってしまうが、映像や音声ならば同じものに別の意味をもたせることが容易である。現実解釈の多義性を利用できるのだ。映像ならではのミステリ作品である。

 しかし、このような作品は特殊な状況設定においてのみ可能である。なぜなら、多義的であるということは解釈の妥当性を見出しがたいということでもあるのだから。しかも、ミステリは解釈の意外性が評価される。どの解釈が正しいかは解釈の合理性や解釈の内容の実現性だけでは判断できない。ミステリにおける現実解釈の多義性は特殊なものだ。

 多義性は疑いから生じる。何か隠されたことがあるのではないか、自分に知らされていないことがあるのではないか、という疑いを生じさせるのは違和感であろう。何かが変だと気づく。ただ、その多くは謎のままだ。隠されたものが知られることはほとんどない。知られることがなければ隠されていたかどうかも分からない。まれに探求の努力が実り、疑念が解消されることがある。その認識がもたらすのは幸福とは限らないが、知ること自体は一つの達成だ。

 そのまれなことを疑似体験させてくれるのがミステリなのだ。何かおかしいことが起こっており、その解釈がつかない。理由をさぐるうちに疑念が解消される。ミステリが現実と違うのは、作品の提供者があらかじめ設定した解釈(正解)がすでに存在しているということだ。作品鑑賞というのも一つの体験なのだが、私たちは多義的な現実を見ようとするわけではない。同じ現実の二つの解釈を見ようとするのである。誤ったものと正しいものという別物として。

 映像が製作者の意図に沿うように表現されるためには、映像そのものの多義性は制御されねばならない。しかし、それは難しい。映像は製作者の意図に反して様々な意味を含んでしまい、解釈の方向性を多様にしてしまう。それゆえ映像としてのミステリは分かりにくくなってしまうのかもしれない。

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