井本喬作品集

『菊と刀』の今さらな読み方

 ある社会・文化の理解が、別の社会・文化に属している人間にとっていかに困難であるかは、よく言われることである。その困難性の原因の一つは、諸社会・諸文化の共通性(普遍性)を見損なうことにあるように思われる。例として、『菊と刀―日本文化の型―』(ルース・ベネディクト、1946、長谷川松治訳)を引用してみよう。この本は、戦後の思潮を考えるうえで無視できない影響力、ある意味で日本人像の典型を形成したともいえるほどの影響力があったのではないかと、私は思っている。

 ベネディクトは「人類学者が世界の文化のうちに見いだす、あらゆる風変わりな道徳的義務の範疇の中でも、最も珍しいものの一つ」として「義理」をあげる。「それは特に日本的なものである」。

  借りた金の返済に関するアメリカの掟との比較が、日本人の態度を理解する上に最も役立つのは、この「義理」の世界においてである。われわれアメリカ人は、人から手紙を貰ったとか、贈物を贈られたとか、時宜に適した言葉をかけられたとかいって、利息の支払いや、銀行からの借入金の返済の場合に必要な厳格さをもって、その恩義を返さなければならないとは考えない。こういう金銭上の取引においては、破産が支払不能に対する刑罰である。それは大変きびしい刑罰である。ところで、日本人はある人が「義理」を返すことができない場合には、その人は破産したとみなす。しかも、人生におけるあらゆる接触が、必ず何らかの「義理」を招来する。このことは、アメリカ人が義務を招来するなどということは毛頭考えずに気軽に振りまき歩く、些細な言葉や行いを、いちいち帳面につけておくことを意味する。それは複雑な世の中を、たえず油断なく心をくばりながら歩いてゆくことを意味する。

  しかしアメリカ人は、たまたま氷屋でおごってもらうとか(『坊ちゃん』を例にあげている――引用者注)、母親を失った子供に対する父親のなが年の献身とか、“ハチ”のような忠実な犬の献身などに、金銭貸借の尺度を当てがうことになれていない。ところが日本人はそうする。愛や、親切や、気前良さは、アメリカでは何も付属物がくっついていなければいないだけ、いっそう尊重されるのであるが、日本では必ず付属物がつきまとう。そしてそのような行為を受けた人は債務者となる。

 この説が日本人に受け入れられたのは、真理を、しかも意外な真理を述べていたからである。日本人の倫理が計算高さ(利己心といってもいい)によって裏打ちされているということは二重の逆説であった。本来倫理は非利己的であり無償の行為をもたらすはずであった。そして、日本人は倫理性において、西洋人に勝っているはずだった。それが二つとも引っくり返された。そして、その指摘は事実として実感されていたものであった。「日本人における利己性の優位=近代的自我の欠如」ということが一般的な知識となったのには、この本の役割が大きかったのではなかろうか。

 しかし、今日ではベネディクトが彼女自身の社会を見損なっていたことは明らかである。自分自身の属する社会に関しては対象化し得ない場合でも、他の社会において人間行動の普遍性を把握することができるという点で、文化の違いという偏見がいかに強いかを『菊と刀』は示している。何でもいいのだが、たとえば次の文章を引用してみよう。

  こんなふうに考えたらどうだろう。互恵主義は、ダモクレスの剣のように、すべての人間の上にぶらさがっていると。あの作家がわたしをパーティに招くのは、わたしに好意的な書評を書いてほしいからだ。こちらは二度も彼らをディナーに招いたのに、彼らはわたしを一度も招待しない。あいつのためにいろいろとしてやったのに、こんな仕打ちをされるなんて。これをやってくだされば、そのお返しはいたしますよ。こんな目にあうなんて、いったいわたしがなにをしたというの?きみはわたしに借りがあるんだ。義務、借り、好意、取引、交換、約束など、われわれの言語や生活には互恵主義の概念が行き渡っている。(マット・リドレー『徳の起源』、1996、岸由二監修・古川奈々子訳、翔泳社、2000年)

 リドレーの見解は特殊なものではない。社会学、政治学、文化人類学、進化論などの分野では、利他性の標題の裏側にある利己性に敏感になってきている。遺伝的進化論者たちが『菊と刀』を読んでいたら、互恵的利他主義の先駆的主張として驚いたのではないか。もっとも、鋭い観察眼と少ない偏見の持ち主であれば、とっくに承知していたことではあるが。

 ベネディクトが日本に見てアメリカに見ようとしなかったのは、「お返しを期待する」心性である。しかし、日本だろうがアメリカだろうが、お返しを期待する行為は好意とはみなされない。好意を与える方はお返しを期待してはならない。しかし、好意を受ける方はお返しをしなければならず、好意を受ける方がそう思うことを、好意を与える方も期待する。「ありがとう」の言葉がその債務の引受を表明したものでなければ、好意を与えた方は物足りなさを感じるであろう。好意を受ける方が受けるのが当然であるという態度を取ったとしたら、与えることの喜びは失われる。

 ベネディクトが真の善行ではないと見たものは、私たち日本人にとっても真の善行とは見えないのである。人間関係における計算高さはどの文化でも嫌われる。しかし、この計算を無視する人間は、やはり嫌われるのである。つまり、ベネディクトが見たものは「特に日本的なものである」のではなく、世界中どこにでも見られる行為にすぎない。だからこそ、私たちは私たち自身の中にそれを見出すのである。

 『菊と刀』を読むと、ベネディクトのお人好しさと、彼女が育った環境の自足的な鈍感さを思ってしまう。日本社会における互恵的利他主義についての明確な認識を彼女が把握し得たのは驚きである。意地悪く考えれば、自分の属している社会・文化にもある否定的要素を、比較されている社会・文化に固有なものとしてなすりつけることによって、自らの社会・文化を浄化させるという作用が働いたように思える。

 ベネディクトは互恵性に利己的な動機を感じて批判している。善行の報いは行為そのものの喜びだけであるべきではないか、と。しかし、善行に喜びを求めるべきではないという意見もある。でないと、喜びのないところには善行がなくなり、善行はえこひいきの一種になってしまう。あいつは嫌いだから助けてやらない。では、カントの言うように当為として、義務として、いやいやでも道徳的行為をなすべきか。そんなことは無理な相談だ。だとすれば、お返しを期待して助力をする方がましである。あいつは嫌いでも、借りを返すことは知っているから、いつかこっちが困ったときにはお返しをしてくれるだろう、だから援助する、というように。

 社会学者や文化人類学者は社会的交換が人間関係の成立と維持に大きな役割を果たしていることを理解している。贈与は多くの場合見返りが期待されており、時間をずらした交換とみなすことが出来る。交換が即座に行われないことで、関係の持続が含意されている。贈与を拒否することは、単に交換の拒否の表明なのではなく、関係を成立・維持したくない意思の表明になってしまい、怒りを引き起こすのである(俺の酒が飲めないのか!)。したがって、親交を目的とする交換においては、同じようなものが交換されるという、一見意味のない行為であることもある。贈与を受けたまま返礼をしないことは、怒りを引き起こす(これが贈与が交換であることの証明になる)。お返しが出来るのにしないのは貪欲を意味し、嫌われる。一方で、お返しは、返礼への期待をあからさまにしてしまうので、贈与者に嫌われることもある。あるいは、贈与(援助)の気持ちを拒否することになるのを恐れて、被贈与者がお返しを避けることもある。お返しがないこと、つまりお返しができないのは、贈与が真に必要であったことを意味するから贈与者には喜ばれる。つまり、わけがわからない。

  真の利他主義者なら、贈り物はしない。なぜなら、真の利他主義者は自分が贈り物をする動機は、善行によって虚栄心を満たそうとしているか、あるいはお返しを期待しているかのどちらかであることに気づくからだ。そして後者の場合、不親切にも贈る相手に借りをつくらせてしまうことになる。また、真の利他主義者なら、返礼をすることによって贈り主を侮辱するようなことはしない。そんなことをすれば、借りを返すことによって、あなたの動機は利己的であることは分かっていますよと、暗に示すようなものだからだ。(『徳の起源』)

 ベネディクトの言うように、返礼を気にしない(贈る人も、贈られる人も)のが当然であるような関係とはどのようなものであろうか。『交換と権力』(1964)の中でブラウは、多く与える者が上位に、多く受け取るものが劣位になるメカニズムを示している。(ブラウが『菊と刀』の叙述に含まれる交換論的視点に気がついていれば、『交換と権力』に最適の引用ができたであろう。)与える方がお返しを求めないのは、与えられる方にその能力が欠如していることが明確なときである。その場合は、与えられる方が能力の差を承認することが求められる。日本人が「恩」を受けることを避けようとし、受けた「恩」を返すことに腐心するのは、劣位の立場に身を置くことを嫌うからと解釈される。『菊と刀』の描く日本は非常に平等主義的な社会であるという解釈も可能であろう。

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