戦後の一つの帰結
戦後(といっても半世紀以上もの歴史的経過を一つの期間として扱うことは適当ではないが)の社会と人々の意識の変化は、他の時代と比較してもとりわけ深く大きいことは一般に認識されている。明らかにその変化の基礎には物質的豊かさがある。これをどう評価するかについては意見が分かれるが、私は、このような変化が自我形成における文化的相違論の有効性への信頼を減じたと考える。人間行動の普遍性を重視する見方の方がよりよい理解に導く。具体的に言えば、生きて行くに必要なモノやサービスを、共同体に頼らずとも、市場において手に入れることができるということが、個人の自立の基礎に思える。このような単純化された経済要因決定論は共感を得にくいかも知れないが、多くの人々がそれとなく感じているのではないか。諏訪哲二は『〈平等主義〉が学校を殺した』(洋泉社、1997年)において次のように言う。
共同社会のモラルや常識、高校生や未成年であることの立場性、そして親とのしがらみとも切れてあっけらかんと個人の欲望に従っている彼女たちはとても「さわやか」ある。彼女たちはまわりの世間から切れて、M・M氏と同様ゲゼルシャフト的に独立している。地域や学校や家庭にあるさまざまな道徳性や観念から自立し、もっぱら己れ一個の意志と欲望とで自分を律している。日本的な共同性や集団性の桎梏から完全に逃れた、「真の自己」が確立したといってよい。日本はヨーロッパに遅れて後進的であり、前近代的なものがたくさん残っている、集団主義的で個人が自立していないと思ってきた人たちは、日本でも個人は自立したと乾杯でもすべきであろう。
「彼女たち」とは売春をする女子高校生であり、「M・M氏」とは『お役所の掟』(講談社、1993年)の著者、宮本政於である。むろん諏訪は皮肉として「日本でも個人は自立した」と言っているのであるが、もう一歩踏み出せば皮肉ではなく新しい認識となる地点にまで来ている。明らかに変化はしているのである。より豊かに、より自由に、より個人志向に。
共同体がその成員を拘束しようとしても、共同体に頼らずに生きていく手段が他にあるならば、その力は弱まらざるを得ないということなのだ。村八分にされても、生活する場所や手段が他にあるならば、脅威にはならない。都市の空気は自由なのである。人間関係の希薄さを嘆くのは滑稽である。求められているのはその希薄さなのだ。都会の無関心さの中で孤立している一人暮らしの老人を憐れむことはない。彼らはそれを喜んでいるかもしれないのだ。
しかし、このことに対する諏訪の評価は、彼のユニークさを損ねるほど定型的である。
なぜなら、この国は市民革命を成しえなかったせいかどうか、ついに「個が全体のことを考える」という民主主義の真髄が定着しなかったからである。全体は「お上」であり個を支配するものだという確信が横溢しており、逆に、個の求めるものはいつも正しいという退嬰的な気分が蔓延している。
このような嘆きを何度聞かされてきただろう。封建社会が崩壊した後、それに代わる自由意思に基づく共同体を成立させることができない日本人への、繰り返される慨嘆なのである。明治以来この方続いているぼやきでもあろうか。
「近頃の若い者は」的な嘆きとは区別しようと努力する人々においても、社会と個人の関係について、次のような共通の認識が成立しているようである。若い世代は個を重視することにおいて、決定的に古い世代と異なっている。それは本来方向としては好ましく、知識人の見果てぬ夢であった近代的自我の実現を期待させたのではあるが、彼等は社会性を著しく欠如させていて、とうてい市民と呼べる代物ではない。彼等に欠けている公共性あるいは倫理をいかに涵養するかが緊急の課題である。
共同体的覊絆が失われたのは、豊かで自由になったからだろうか。だとすれば、あるものを得るためには、他のものを失うのは仕方のないことではないか。それとも、私たちのやり方がまずいのだろうか。もっとうまくやる方法があり、そういうふうにしている集団が他にあり、われわれはそうなるべく努力すべきなのだろうか。「個が全体のことを考える」ことをしない、端折って言い換えれば、利己的であることが日本社会の痼疾であろうか。
市民社会は利己的であることがより許容される社会ではないのかという疑問に対しては、個人主義と利己主義は違うということが私たちに教えられてきた。利己主義は自分のことだけを考えるが、個人主義は他者も個人として尊重するというのだ。他者というのは自分以外の全ての人々であるから、結局は全体ということになる(他者同士の利害の調節のためには、そういうものを介在させないと仕方がないであろう)。しかし、全体と個人の調和を考えるのが個人主義というのはおかしな言い方である。全体は個人を含むのだから、全体にとってよいことは個人にとってもよいことであるはずだ。しかし、「全体」がその個人を含みえないとき、「全体」とは他人であり、他人との利害調整において自己の利益を尊重するのは、個人主義においても同様であろう。個人は、共同体を通じて利益追求をする場合にはその規範に従うが、共同体を経由しないで直接市場において利益追求が出来るのであれば、その規範=羈絆から逃れようとするだろう。
利己的な個人の形成する社会が無秩序であるということにはならない(もしそうであるなら、そして日本人がより利己的であるというなら、日本社会は混乱していたはずだ)。利己的な個人が自らの利益を追及することが、同時に社会の利益となるシステムは安定的であろう。アダム・スミスの描いた資本主義社会や、社会契約説が捕らえた市民社会のように。社会秩序は個人を越えた社会のことを考える個人がいなければ成立しないものではない。むしろそのような個人の存在はかえって社会を危うくするかもしれない。そもそも個人を非利己的にすることで社会に利益をもたらそうとするのはおかしなことである。個人の利益以外に、どこに社会の利益を求めようというのか。