社会生物学への接近
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『ミトコンドリアが進化を決めた』(ニック・レーン、斉藤隆央訳、みすず書房、2007年)という本を読んだ。この本の内容は興味深いというか、衝撃的な知識に満ちており、ただただ驚き感心したばかりで、言うべきことは何もない。その本の終わりのページにはその出版社の他の本が宣伝として載せてあり、そこに『社会生物学論争史』(ウリカ・セーゲルストローレ、垂水雄二訳、みすず書房、2005年)があった。その本も読んでみたので、ここではそれに関連したことを書こう。
社会生物学論争というものがあったということは、ずっと以前に風聞というか何かのチャンネルで私に届いていたが、私は社会生物学への反感の気持ちを何となく「共有」していたので(誰との共有だったのか!)、あえて詳しく知る必要はないと思っていた。知能の差異、性別役割、人種差別などを遺伝によって正当化できるなどという主張を真面目に検討するのはおろか、そういう言葉を聞くのも汚らわしいではないか。その後、遺伝子に対する世間の受け取り方が変化していったこともあって、私も遺伝子と進化に関する知識を得ようという気になった。『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス、日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳、紀伊國屋書店、1991年)を古本屋で買って読んだのは2006年になってからだが、そのときには反発は起こらなくなっていた。それどころか、支持者の側に変わってしまっていたのだ。
そのような変化の過程で、社会生物学論争についても、積極的にではないが触発されたような形で知ろうとして、『進化 連続か断絶か』(スティーブン・M・スタンレー、養老孟司訳、岩波書店、1992年)、『ドーキンスvs.グールド』(キム・ステレルニー、狩野秀之訳、筑摩書房、2004年)などを読んでみたが、どうも全体像がつかめなかった。この本(『社会生物学論争史』)はE・O・ウィルソンをいわば主人公(軸)として、この論争の複雑な経緯をパノラマのように(著者はオペラに擬しているが)展開してみせてくれる。
ところで、同じ訳者の似たような題の『社会生物学論争』(ゲオルグ・ブロイラー、垂水雄二訳、どうぶつ社、1988年)という本を私は読んでいた。この本の原題は『いわゆる人間:われわれは動物と何を共有し何を共有しないか』であり、日本語訳の底本になった英訳本の題は『社会生物学と人間の次元』というらしい。つまり、この本は社会生物学の検討的(批判的という言葉は強すぎるであろう)解説書であって、訳本の題名には「論争」という言葉を(不適切に)掲げてはいるけれど、レウォティンやグールドなどの批判者側の意見との対比をしているのではない。私は社会生物学がどのように批判されているかが知りたかったのだが、この本はむしろ(批判の前提として当然持つべき知識としての)社会生物学の概要を教えてくれたのである。
私はこの本を読んだ後で、ウィルソンやドーキンスの著書を読んでみたいとは思わなかった。むしろ、読みたくないと思った。社会生物学の批判者の言うように、彼らの主張は、自然であるからということを根拠に、現にある差別や悲惨さを肯定するように思えた。確かに、社会生物学の擁護者の言うように、「自然であること」は「正しいこと」を意味しない。しかし、だとすれば、なぜ社会生物学がこれほど自らを誇るのか。自然だけれども正しくないなどという気の抜けたことを主張することが彼らの本意だとは思えない。
いま、この本を読み返してみるといろいろ教えられることが多いのだが、当時の私は予備知識がなさすぎた。社会生物学は動物の行動から得られた知見を強引に人間に当てはめているとしか思えなかった。そういう私の反応は、この本が血縁選択と性選択を中心にした解説になっていて、トリヴァースの互恵的利他主義については付け足しのように言及しているにすぎないことも原因しているようだ。社会生物学の衝撃力の大きな部分は利他性を自然選択の文脈の中で説明してみせたことにあるだろう。しかし、血縁選択だけでは、「われわれ」の中での利他性を説明できるが、「われわれ」と「われわれ以外」の溝を埋めることができない。(しかも、家族から集団、そして民族などへの「われわれ」の拡大というものも安易に認めることもできないはずである。平均5%の遺伝子を共有している親族20人を助けるよりも、50%の遺伝子を共有しているきょうだい二人を助ける方がはるかに負担が軽いのは明白であり、「われわれ」を拡大する費用を補うほどの利益は簡単には見つからないだろう。また、「われわれ」の拡大が行動主体の誤解のようなものを原因としているのであれば、そういう間抜けを自然選択が見逃すはずはない。)その溝を埋めるものとしてこの本の著者が頼ろうとするのは、「すべての他の人間の中に自分自身の姿を見る」能力、「すべての同胞にたいして知的のみならず情緒的にも自らを同一視する」能力である。ここから同情や思いやりの心が生じて利他性が導かれるというのである。しかし、このような同一視の能力は、むしろ相手の意図や感情を察知して他人を利用しようとする行動の方を発達させるのではないだろうか。そういう利己的な行動の方がはるかに適応度が高く、利他的な行動を圧倒してしまうはずだ。
利他性の基礎を同情に求めることはずっと以前から人々がやっていたことである。そのことの重要さを再認識させられるだけにすぎないなら、わざわざ社会生物学とその批判を学ぶ必要などない、そう思ってしまったのかもしれない。
『社会生物学論争』と『社会生物学論争史』との間に、私は奇妙なルートを通って社会生物学に接近していった。全体的な布置においてそれが持つ意味が分からないままに、『つきあい方の科学』(ロバート・アクセルロッド、松田裕之訳、HBJ出版局、1987年)、『仲直り戦術』(フランス・ドゥ・ヴァール、西田利貞・榎本知郎訳、どうぶつ社、1993年)、『オデッセウスの鎖』(ロバート・H・フランク、山岸俊男監訳、サイエンス社、1995年)、『徳の起源』(マッド・リドレー、岸由二監訳、古川奈々子訳、翔泳社、2000年)などを読んでいた。つまり、利己性と利他性の関係を何とか自分なりに解明したいと努力していたのである。最終的にピンカーの著作で進化心理学を知ることで、社会生物学に対する疎遠な気持ちは、ほぼ(完全にではないが)払拭された。
自分自身の「転向」の過程を思うと、社会生物学が一般にどのように反発され、最終的には受け入れられたのかを知りたかった。『社会生物学論争史』は、現場近くにいた者としての強みと、社会学者としての姿勢によって、論争参加者の様々な動機(科学的、政治的、感情的)を推察しながら、その流れを示してくれる。『社会生物学』以降のウィルソンや、チョムスキーの沈黙なども興味深い。
社会生物学論争について、セーゲルストローレは次のように評価している。
メイナード・スミスは最近私に、社会生物学論争は全体としては健全なものだったと考えていると語った。彼が言わんとしたのは、長い時間をかけて、不必要な政治的内容は徐々に発言から解消されていき、最終的に「真の」科学論争が始まるようになったということであった(一九九八年のインタヴユー)。この本で私は、それとはかなり異なった主張をおこなった。私は、道徳的/政治的懸念が、解消されるべき障害というにはほど遠く、実際には、この分野における科学的主張の創出と批判の両方における原動力であり、そのゆえにこの分野はよりいいものになったということを、主張しているのである。
2
ジョージ・プライスという人物を知ったのは、マット・リドレーの『徳の起源』のなかの以下の記述によってであった。
実際、この利己的な遺伝子という概念は、ハミルトンの説を読んだ一人の学者、ジョージ・プライスに悲劇的なインパクトを与えたのである。彼はハミルトンの殺伐とした結論──利他行為は実は遺伝子の利己性から生じているにすぎないという説──の誤りを証明するために生物学を勉強した。だが逆に、この説が反論の余地のないほど正しいことを証明してしまった。それどころか、彼は計算値を改善したうえにこの学説を固める重要な貢献までしてしまったのである。プライスはハミルトンと共同研究を始めたが、精神不安定の徴候を徐々にみせ始めたプライスは、慰めを宗教に求め、すべての財産を貧困者に与え、家具一つ無い寒々としたロンドンのアパートで自殺した。遺品のなかにはハミルトンからの手紙が何通か含まれていた。
『社会生物学論争史』において、セーゲルストローレは少し違った記述をしている。
プライスは独学の天才で、集団遺伝学をこなす自らの才能を奇蹟だと思っていた。彼は自分の科学的関心と道徳的関心を結びつけることを義務とするようなタイプの科学者の典型だった。この傾向は後年になるほど強くなり、宗教的な信念と融合するようになった。プライスは、絶対に妥協することなく、科学的な信念も宗教的な信念もどちらも極端なほど真面目に受け止める人物だったように思われる。彼にとって、科学的な理論も聖書の記述もどちらも比喩的なものではなかった。どちらも文字通りの真理であり、現実世界にその結果が現れるものだった。科学に関していえば、進化論が社会的な意味を持ち、それがキリスト教信仰に及ぶとき、キリスト教的な愛もそれに従わねばならなかった。これがプライスを、一方では卓抜な新しい理論の考案、他方においてはロンドンの貧困者やホームレスの救済へと駆りたてることになった。
プライスの理論的貢献は、ハミルトンの血縁淘汰モデルに対して別の数式(共分散の式)を提示したことである。この式は群淘汰にも適用できた。「ハミルトンはのちに、淘汰のレベルを入れ子式に分析するというこのアプローチを用いて、自らの包括適応度という概念を導き直した」。また、プライスの動物の闘争に関するアイデアはメイナード・スミスの興味を引き、進化的に安定な戦略(ESS)という概念を導き出すことになった。
プライスの最後については次のように記されている。
現実には、彼はますます混沌の度を深める状況下で生活していた。救済を試みたホームレスたちがさまざまな形で彼を裏切った。彼は家主に立ち退きを迫られ、ゴルトン研究室の自分の部屋に住む許可をもらった(ハミルトンの指導教官セドリック・スミスが彼にこの部屋を与えていた)。しかし、この新しい寝場所にも常連の一人が追いかけてきて、わめき立て、ひっかきまわしたので、プライスは退去を命じられた。そうこうするうちにプライスは、真にキリスト教的なやり方で人々を助けるのに成功していないことを目の当たりにするにつれ、しだいに落ち込んでいった。(彼が救護した人間の何人かは、彼の親切を露骨に悪用した。)彼は神を相手にしても危険な遊技をしていた。低血糖症用のチロキシン錠剤に依存していながら、彼は時々それを飲むのを止め、神が奇蹟を通じてこの化学物質をどうにかして与えてくださるかどうかを待った。もしそれが起きれば、社会活動をつづけるべきだという証しになるだろう。二度にわたって、プライスは思いがけない形で薬を実際に与えられた。しかし三度目は神も干渉しなかった。プライスは、一九七四年のクリスマスのすぐあとに自殺したのである。彼のノートによれば、彼は憂鬱な気分に落ち込んでいて、友人たちの重荷にはなりたくないと記されていた。
社会生物学の知見がプライスの死にどの程度関連していたのだろうか。ハミルトンはプライスについて次のように記している(『社会生物学論争史』からの孫引き)。
ジョージは自分が進化論においてなしとげた発見は本当の奇蹟であると信じていた。得られるとは期待すべくもない場所で神が彼に洞察を与えてくれたのだ。……それは過去六〇年間にわたって世界中の最高の集団遺伝学者たちによって見逃されてきた数式なのだから、進化についての真実を、なぜかちょうど今それを受け入れる用意が整ったと思われる世界に伝えるために、なぜか自分が選ばれたのだということは、彼にとって明らかだった。どのようにして彼がそうすることになったのか。彼はどこまで、どのように語ることを期待されているのだろう。彼は、……新約聖書で扱われている神の真理──すなわち、……使徒たちによってごくゆっくりと理解されていった──とまったく同じやり方で事態に対処するのが正しいと決断した。……そのような最初の解釈者を通じて、そのようなガラスを通して、非常にぼんやりと、進化的な真実が、宗教的な真理とともに、外に向かって知れわたっていくと考えられた。この過程において、私は彼の秘伝を教わる最初の人間として選ばれたのだと思う。
これだけの文章からでははっきり読み取れないのだが、あえて解釈するとすれば、プライスは彼の得た知識をキリスト教の理念の中にうまく組み入れる必要があると思った。神の示した真実は、そのままではあまりにも残酷であり、かえって信仰を失わせかねないものであった。一般の人々には、その真実の意味が理解できるまでは、知らせるべきではなかった。プライスに課せられたのは、その真実の意味を理解することだった。彼が死を選んだのは、神の期待に応えることができなかったからだろうか。
プライスのおそれた(と思われる)社会生物学のメッセージの一面をはっきりと表明しているのはドーキンスだ。セーゲルストローレはドーキンスについて次のように言う。
最近の本で、彼は断固として、神なしの宇宙、目的なしの進化、そして人間のことなど気にもかけず、あるいはいかなる導きの材料をも与えてくれない自然といったものを提示する。自然は善と悪との闘いと見るべきではない。自然はいっさいの目的を欠いている。それはDNAの生存を最大化しているだけである。長く持ちこたえればそれだけでいいというわけだ。しかし、同時に、慰めの材料として利用できるあらゆるものの資格を取り上げる。神話、伝説、宗教といったものは、すべて心のウィルスなのだ。非常に強い精神の持ち主を除けば、そのような世界に生きることができる人間はそういない。ドーキンスは、読者が神話の代わりにダーウィン主義を信じることを期待するが、彼のダーウィン主義は、世界は意味を欠いているという暗号化されたメッセージをたずさえている。もし真面目に受け止めるなら、ドーキンスは、一種の意味の真空を積極的につくりだそうとしているように思えるだろう。もしそうなら、彼の読者はその真空をどのようにして満たすのだろう。
このようなドーキンスの考えと対極の位置にいるのがウィルソンであると、セーゲルストローレは教えてくれる。
ドーキンスとウィルソンは、科学としての進化生物学を劇的に異なるやり方で提示する。ドーキンスと違ってウィルソンは、科学(進化生物学)は私たちのすべての欲求、すなわち、知識、美的知識、深い情動的・形而上的満足への欲求、といったものを満足させることができるだろう(そしてそうあるべきである)と信じている。(中略)したがって、ウィルソンは一九七八年にすでに、進化的叙事詩は一つの神話でしかない可能性はあるが、ほかの神話よりはずっとましなもので、「おそらくは、およそ私たちがもちうるもののなかで、最良の神話ではないか」と、指摘していたのである。(中略)ウィルソンによれば、私たちの脳は神話形成機械ということになる。もし脳にそれを与えることができないと、他の何かがその欲求を満たすことができ、いずれにせよ脳は占有されるだろう──より適応的価値の低い神話によって!しかし、ウィルソンは、進化が神話として機能するためには、創造神話の全責任を引き受けなければならなくなるだろうということにも気づいていた。そしてこれこそが、進化的叙事詩を単なる世界についての客観的説明に還元することにしない理由なのである。
社会生物学(最近あまりはやらない名称なので、進化生物学と言った方がいいかもしれないが)はこれほど危険と可能性をはらんだ知識であるのに、一般的な解説書でときおり人を驚かすだけで、世間の大勢には影響を与えていないように思える。プライスの望んだように、「ごくゆっくりと理解」されているのだろうか。