マキャベリ的知性とニーチェ
ニーチェは次のように言っている(と引用したいのだが、適当な文章を部分的に区切って見つけ出すのは困難で、引用するなら全ての文章を引用しなければならないだろう。とはいえそうもできないから、かの有名な金色の獣が出て来る辺りから引用する)。
「人間」という猛獣を飼い馴らして温順な開化した動物、すなわち家畜にすることこそあらゆる文化の意義であるとは、今日ともかくも「真理」として信じられている事柄であるが、もしそうだとすれば、貴族的種族をその理想とともに終局において汚辱し圧服するのに与かって力のあったすべてのあの反動と≪反感≫(ルサンチマン)の本能は、疑いもなく真の文化の道具とみなされなくてはならないであろう。(『道徳の系譜』)
ニーチェのことを連想させたのは、『マキャベリ的知性と心の理論の進化論Ⅱ 新たなる展開』(アンドリュー・ホワイトゥン、リチャード・バーン編、友永雅己、小田亮、平田聡、藤田和生監訳、ナカニシヤ出版、2004年)の中のクリストファー・ベーム「平等主義者の行動と政治的知性の進化」という論文である。その主張が典型的に表れている部分を引用してみる。
おそらく、ヒトの集団を道徳的コミュニティとして結託するように導いた社会問題のうち本当に最初のものは、じつは第一位の男性による支配に関するものであった。そして、平の地位の者たちが一致して、過剰な支配をしているトップの者に対して、社会的に好ましくない者という烙印を押した時、集団の道徳性(Durkheim,1933にならって私が定義したものにほぼ近い)がつくりだされたのである。
ベームは、大型類人猿に見られる「社会的優劣階層」が、なぜヒトの狩猟採集民や部族民に見られないかという疑問に対し、「ヒトは優劣行動に対する大型類人猿の性向を失って」いるのではなく、「支配の方向は向きを変え、集団が全体としてアルファ・タイプの人々を断固として支配」するようになったのだと解釈する。ただし、集団が拡大すると派閥争いが起きてこのメカニズムが働かなくなり首長制社会のような階層性が現れてくる。それでも、「潜在的には、劣位者による対支配はすべてのヒトのその社会で役割を果たしているのである」。ニーチェは「劣位者による対支配」を嫌ったが、ベームは違う評価をしている。
しかし、民主主義社会において、われわれは、効力のある対支配の方が「完全な対等性」よりもむしろ現実的な焦点であるという妥協に甘んじている。そして、われわれはそのような独特の政治的妥協をどちらかと言えばうまく維持している。
ニーチェの新解釈がここの目的ではない。ただ、ニーチェのとらえ方を進化論的観点から再構築することで、かえって明確に見えてくるものがある。「力への意志」について、ニーチェはあらゆる人に潜在するものと認めていた。それを遺伝子の利己性と読み替えてみると、ニーチェの主張は驚くほど理解しやすくなる。ニーチェは「力への意志」がひねくれた使い方をされるのを嫌った。強者を貶めて強者であることを望ませないようにする文化的操作にそれが潜んでいると見抜き、その狡猾さを憎んだ。そのような操作の主体をマキャベリ的知性と呼ぶことが、ニーチェの気に入るかどうかは分からない。しかし、ニーチェがそれを評価し損なっていたのは確かだろう。
ところで、ベームの論文は、「マキャベリ的知性」と呼ばれるものの精緻化というこの論文集が目指すところからやや外れていて、それは集団選択を再評価しようとする試みにも現れている。ただし、この本(Mach Ⅱと略されるらしい)は前著(MachⅠ)とは若干異なり、どちらかというと「マキャベリ的知性」への疑問や修正といった内容の論文が多い。
「マキャベリ的知性」とは何か。大きな脳に支えられたヒトの知性は、生態学的(簡単に言えば食われないようにして食うこと)環境に対応するには能力が余分ではないかという疑問がある。大きな脳を維持するにはコストがかかるから、自然選択はそういうぜいたくを許さないはずだ。では、何のためかというと、社会的環境がそれを必要としたのではないかというのが社会的知性(マキャベリ的知性)説だ。ヒト(およびその近縁であるサル)は集団生活において、同類である他者を利用することで生存と繁殖に成功してきた。そういう意味で集団つまり社会的環境は、自然つまり生態学的環境より複雑であるので、大きな脳=複雑な知性を発達させたというのである。
しかし、複雑とは何を意味するか、脳の大きさとは何を計るべきかなど、疑問点も多い。また、そもそも「マキャベリ的知性」が問題となったのは、系統的にヒトに近いサルの行動の研究からだったから、原猿類、真猿類、類人猿、ヒトの間の共通性と差異も問題になる。「マキャベリ的」という形容に見られるように、他個体を欺くという行動がとりわけ注目されるのであるが、それが知性とってどのような意味を持つのかもはっきりしない。
それはともかく、この本が興味深いのは間違いない。MachⅠが研究成果の厳密さにこだわるあまり思い切った飛躍が控えられているのに対し、MachⅡでは、疑わしいと感じられるところもあるような大胆な提案もあって面白い。少なくとも、社会的知性と呼ぶのが妥当であるような脳の機能があるということは確からしい。