井本喬作品集

意識とアーモンド

 『エモーショナルブレイン』(ジョセフ・ルドゥー、1996年、松本元・川村光毅ほか訳、東京大学出版会、2003年)という本の中に「意識は精神という氷山の一角であると述べたフロイトは正しかったのだ」という記述があったのに意外な気がした。以前に『フロイト先生のウソ』(ロルフ・デーゲン、2000年、赤根洋子訳、文春文庫、2003年)というフロイト全否定の本を読んだが、そこには「無意識というものが存在することは、専門家にとっても一般人にとっても、とうの昔に議論無用のドグマと化している」とあったからだ。しかし、後者を読み直してみて、著者が否定しているのはフロイトの意味での無意識であり、無意識一般ではないことを確認した。「われわれを動かしている真の動機(たとえば、人に見られていると人助けが億劫になるといったこと)は、フロイト的な意味で抑圧されているわけではない。われわれは本当にそれを知らないのである」とか、「人間には自由意志があるなどと考えるのは、どうやら、巨大な官僚機構の『ちっぽけな歯車』が決定権は自分が握っていると思い上がっている(本当は、上級機関でとうの昔に決まったことをなぞっているだけなのに)のと同じことらしいのである」とちゃんと指摘しているのだ。にもかかわらず、著者の反フロイト的主張の激しさに惑わされたせいか、その重要性に気がつかなかった。

 ルドゥーが情動についても無意識的過程があることを示してくれたことによって、ようやく私にも意識の限界が分かり始めた(ただし、彼のフロイト評価は、無意識の重要性の指摘についてであり、その理論内容ではない)。ルドゥーも言及しているが、ウイリアム・ジェームスは「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」と言った。ジェームスの本を読んでいなくとも、この文章が引用されているのにはあちこちで出会う。逆説としては面白いけれど、まともに取ろうとするとその意味が私には分からなかった。涙が出たからといって、意識が状況を認識しなければ、うれしいのか悲しいのか、あるいは単にゴミや煙が目に入ったからなのか、区別できるのだろうか。体の状態を媒介として情動を感じるのであれば、体(意識抜きの)が状況を認識していなければならない。意識抜きの認識ということがどういうことなのかイメージできなかったのだ。

 ルドゥーは「フィードバック理論の父」としてジェームスを評価するけれども、フィードバック理論だけでは情動を説明できないと言っている。ジェームスの主張の意義は、情動が意識以外のところで起こっていることを強調したことだろう。ということは、意識以外にも認識(認知)の機構があるということだ。もちろん、それは脳の中にある。ルドゥーは、情動に関しては扁桃体をあげる。

  扁桃体は車輪の中心にあるようなものである。扁桃体は視床の感覚特異的な領域から低位の入力を、感覚特異的な皮質から高位の入力を、それから、海馬から一般的な状況に関するより(感覚とは独立した)高位の情報を受ける。これらの結合を通して、扁桃体は、複雑な状況と共に個々の刺激の情動の意義をも処理することができる。扁桃体は、情動の意義を評価することに本質的に関わっている。すなわち扁桃体は、まさに引き金となる刺激がその引き金を弾く場所なのである。

 扁桃とはアーモンドのことであり、海馬とはシーホース、つまりタツノオトシゴのことである。海馬も扁桃体も形が似ていることによって名づけられた。海馬は記憶に関わっているけれども、その記憶は外示的記憶(あるいは宣言的記憶)であり、内示的記憶(あるいは手続的記憶)は別の場所、恐怖という情動でいうならば扁桃体が担当しているらしい。外示的記憶は「情動体験の記憶」であり、内示的記憶は「情動による記憶」である。外示的記憶は意識を経由するが、内示的記憶は必ずしもそうではない。内示的記憶が意識を経由しなければ、私たちはそれを知る(意識する)ことができない。

 ところで、意識とはワーキングメモリーというものの作用らしい。ワーキングメモリーは感覚刺激などの短期記憶と長期記憶(外示的記憶・内示的記憶)を使って意識的な情報処理を行っている。しかし、ワーキングメモリーは脳内の全ての情報にアクセスしているのではない。ワーキングメモリーの関与しない、少なくとも詳しくは関与していない部分や機能ははるかに多い。第一、ワーキングメモリーは自分がどのように機能しているかさえ知らない(意識していない)。そういうワーキングメモリーの作用でしかない意識が、個体の主体であると思い込んでいるのは僭越であり、滑稽でもある。

 ルドゥーは意識的情動的感情の形成にはワーキングメモリーは不可欠であるとみとめるが、恐怖という情動そのものにおける意識の役割は中心的なものではないと言う。

 扁桃体の活性化なしには完全な恐怖の感情は起こりえない。恐怖が引き起こす刺激が目の前にあっても、(扁桃体が損傷を受けた場合のように)扁桃体の活性化が起こらないときには、認知能力を使って、このようなときにはふつう恐怖を感じるものだとの結論を引き出してしまうかもしれない。しかし、そこではフィードバックを引き起こすワーキングメモリーへの扁桃体からの入力、扁桃体によって引き起こされる覚醒や、扁桃体を介した身体反応のような重要な要素が欠けているため、恐怖の感情は生じないであろう。

 情動を誘発する刺激を意識しなくても、すなわち、情動を誘発する刺激が短期記憶の大脳皮質バッファー装置に表象され、ワーキングメモリー中に保持されるようなことがなくても情動的感情は起こりうる。‥‥もし情動が無意識のうちに処理される刺激によって引き起こされるならば、そのような経験をのちになって思いかえすことはできず、なぜそのような経験が起こったかをきちんと説明できないであろう。

 恐怖という情動は個体の生存に欠かせないものであったから、意識というものの発生以前から個体に備わっていた機能である。意識はそれに付加的に関わったけれども、支配的に操作しているわけではない。恐怖だけではなく、その他の情動も含めた私たちの活動全般において、意識はさほどの機能を果たしていない。

 では、意識は何のためにあるのだろうか。様々な状況で瞬時の決断をしなければならないとき、意識の判断は遅すぎる。そういう場合脳と身体は意識なしで決定することができる(その決定が必ずしも正しいとは限らないが)。しかし、状況が複雑すぎたり、長期的な展望が必要であったりして、選択に迷う場面が多くなると、意識による判断が求められるようになる。私たちは判断をせまられる度に、自分の判断力(つまり意識)の能力不足に不満を感じるが、そもそも意識というものは判断の困難な(迷う)状況に対処するために発生したものなのだろう。それゆえ、意識がそれほど有効に機能できないのは当然なのである。

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