井本喬作品集

意識と「神の声」

 本屋でデネットの『解明される神 進化論的アプローチ』(2006年、阿部文彦訳、青土社、2010年)という本を見かけたので読んでみた。ドーキンスにも『神は妄想である 宗教との決別』(2006年、垂水雄二訳、早川書房、2007年)という攻撃的な著書があるが、デネットの方はもっと穏やかで説得口調である。二つを比べて感想を書いてみようかとも思ったのだが、デネットの本の中にジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』(1976年、1990年、柴田裕之訳、紀伊国屋書店、2005年)への言及があり、読んでみてそっちの方に興味をひかれたので取り上げてみる。

 ジェインズの主張は、意識というものが発生したのは歴史的にはごく最近のことで、それ以前は人間は意識の介在なしに行動していたというものである。もし意思決定が必要なときは、「神の声」を聞いてそれに従った。社会が複雑になって「神の声」では対応できなくなって初めて、意識が発生した。こういう風にまとめてしまうと荒唐無稽に聞こえるが、その出発点となる論拠には妥当性がある。

 ジェインズは意識の関与なしでも行動は可能だと言う。それに関する他の論者による証拠も多くあるし、私も同調する。そのことによって、意識の発生が歴史的に遅いのではないかと推測するのも妥当と思われる。意識をまだ発達させていない行動主体が、意思決定の困難な状況を経験することで、そのストレス回避のために新たな機能を発生させるというジェインズの主張もほぼ賛成できる。その機能が意識であるすれば、すっきりとした理論体系になる。しかし、ジェインズは、まず発生したのが「神の声」だと言うのである。

 ジェインズの主張の根本には、脳の左右の半球の対立(優位の争い)という想定がある。意識は言語と密接な関係があるため左脳の機能とされ、「神の声」は右脳の機能とされる。歴史的にまず右脳優位の「神の声」が意思決定を支配し、後になって意識がそれに取って代わることにより左脳が優位になる、というのがジェインズの考える意識の発生である。脳の左右の半球の分離と競合(「二分心」と訳されている)というのが基礎にあり、これによってジェインズの理論が特異なものになっているのだ。この考えを取り去ってしまえば、精神の歴史的発達についての変わり映えのしない仮説になってしまうだろう。

 ジェインズの推論の根拠はどのようなものだろうか。第一に、統合失調症患者は幻覚を経験するという事実。ジェインズは、幻覚はストレスによって生じ、ストレスは意思決定の困難さによって生じると考える(もっともらしいけれど、この考えが常に妥当かは疑問である)。したがって、ストレス閾値の低い人は、意思決定のストレス下で幻覚を生じるだろうと推論される。第二に、てんかん治療の過程において、患者の右脳のある部位(左脳では言語野に当たる部分)を刺激すると幻聴が聞こえるという事実。このことからジェインズは、幻聴は右脳の作用であると推論する。第三に、脳梁離断術(左右の脳の神経の連絡を部分的に断つ手術)を受けた患者をテストすると、二つの半球が独立して機能することが見られる。例えば、右脳のしていることを左脳が知ることができないということが起きる。このことからジェインズは通常の脳においても左右の半球がお互いに依存せずに機能しうると推論する。以上の三つの推論を組み合わせて、歴史的に初期の行動主体は、右脳の発する幻聴を「神の声」として聞き、それに従うことで意思決定のストレスを回避していたと、ジェインズは主張する。

 しかしながら、統合失調症患者の幻聴が右脳から発しているかどうか、彼らが左右の脳を独立に機能させているかどうかは検討されていない。またてんかん患者や脳梁離断術を受けた患者(重度のてんかん患者)がストレスで幻聴を発生させるかどうかも検討されていない。また脳梁離断術を受けていないてんかん患者が左右の脳を独立に機能させているかどうかは検討されていない。つまり、一人の行動主体が三つの現象を現している例はないのだ。別々の行動主体の症例を恣意的に組み合わせて、架空の行動主体を作り上げているに過ぎない。

 もし、意思決定のストレスを回避することを右脳が可能にするならば、(右脳と左脳を統合している)行動主体は幻聴などという回り道を介せずに意思決定ができるはずである。それができないとされるのは、右脳と左脳が主導権を争っていて、どちらかの脳の機能を行動主体の自由な選択によって採用するということができないとジェインズが想定しているからだ。幻聴=「神の声」という行動主体にとっては自分の外部にあると思われる権威によって、右脳が左脳を支配(説得?)するというわけだ。

 この「二分心」のミクロ理論を補強するために、マクロ理論が持ちだされる。幻聴=「神の声」の権威付けの根拠となるのが、群れを形成していた初期の人類が、ボスの発する声に反応したであろうという推定である。ボスの支配にメンバーが服従することが、群れを安全有利にし、結果的にメンバーの生存の可能性を高めるからである。ジェインズはここで集団選択理論を使っているのである。

 そういう幸福な時代から、個人的な意思決定のストレス状況へ移行してしまうのはなぜか。ジェインズは、集団が対面集団を越えて拡大することにその原因を求める。メンバーの数が増加して一人のボスでは全てのメンバーを把握しきれなくなると、ボスの不在においても彼の声が届くようなシステムが要請されるであろう。そこで、ボスの声が幻聴に変じて「神の声」となり、社会統合の手段となるとされる。「神の声」はフロイトの超自我に似ている。優越な他人の存在を自己に取り込んで、自己をコントロールするものに仕立て上げるのだ。ただし、超自我が道徳的であるのに対して、「神の声」は実務的なものである。

 しかし、直接の指示の声がないところで命じられたことをすることからくるストレスは(それによって「神の声」が生じるのだが)、集団的労働に従事することで発生するものである。そもそも集団に参加してボスの声に従うことで、個としての行動主体の意思決定のストレスを回避しようとしたのではなかったか。それが、集団に参加したことで生じるストレス回避のために「神の声」が必要になる、と変わってしまっているのである。

 集団が拡大した場合に、ボスの命令を徹底させる方法としては、組織という手段もある。中間管理職を使って、ボスの命令を伝達し、執行状況を監視させるのである。「神の声」は幻聴ではなく、ボスから委任された管理職の肉声として聞こえるはずだ。ジェインズはメンバーの管理を「神の声」が担当していると考えているので、組織の役割を無視しているようである。

 以上のようにジェインズの論理展開は説得的ではない。それというのも、脳の半球の相互独立性と、意識の発生の歴史的遅さというセンセーションルなテーマを、なんとかものにしようと無理をしているからなのだ。その骨組みを、様々な証拠とみなされる事実や思いつきでつぎはぎにおおってはいるが、隙間だらけなのである。

 ところで、ジェインズは人間がボスや「神の声」に従っていたとき、つまりは意識の発生以前は、利己的な行動というのはなかったと考えているようである。サルに(自己)意識というものがあるという確かな証拠はまだ見つかっていないようだ。しかし、意識のあるなしにかかわらず、サルにおいても利己的な行動は確認されている。利己的な遺伝子をかかえている個体が利己的行動をするのに何の不思議もない。

 対面集団において、ボスの指示は集団全体の適応に有利であったとしても、個々のメンバーはそのことを理解したのであろうか。たとえ理解できても納得しただろうか。集団に有利であることが、即(少なくともあまり時間をおかずに)個人に有利であるのでなければ、メンバーはボスの指示に自発的に従おうとはしないであろう。また、ボスの指示は総体的であろうから、個々のメンバーの特殊な状況にいちいち対応できず、あるメンバーにとってはそれに従わない方が有利な場面も生じたであろう。その際、ボスの指示が守られるためには、ボスによる監視と制裁が必要となってくる。しかし、ボスの監視の目をくぐって、あるいはボスの制裁に対抗して、利己的な行動は起こる。そもそもボスの地位自体に個体の利益が伴わなければ、誰もボスにはなろうとしないだろう。ジェインズは人間の知性を(あるいは意識というものがないかもしれないサルの知性でさえも)見くびっているのではないか。

 私は意思決定の困難さに対処する機能として意識が発生したという仮説に賛成する。ただし、ジェインズの言うような歴史的に新しいことではなく、はるかに古い時代のことだろう。しかし、ジェインズも言っているが、意思決定において意識が無力に近いことが多いのは事実である。意思決定のためにあるはずの意識がその役を果たしていないのはなぜだろうか。それは、意思決定が困難な状況において意識が作用するからであろう。意思決定が難しい状況であるからこそ、意識も意思決定ができにくいのである。それでも、意識が意思決定に関与する方が生存には有利であったからこそ、進化によって意識は発生したのではないか。

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