井本喬作品集

機械は間違わない

 必ずしも旧弊というわけでもないが、自動販売機(以下自販機と略す)の普及を嘆く人がいまだにある。人間的な触れ合いが失われるというのだ。販売の窓口でしか得られない人間的触れ合いに期待するというのは悲しいことだ。あんな単純な作業から解放されることの方がよっぽど人間的だと思うのだが。今では無愛想な人間に腹を立てるより、正確迅速な機械を相手にするのを好む人が多いだろう。スーパーマーケットやコンビニはむろんのこと、百貨店やレストランのレジだってできれば機械化してくれた方があり難い。とにかく機械は間違わない。故障するだけだ。

 操作が複雑になると機械に使われているような気がすることもある。しかしそれは機械だけのことではない。原初の人間がこん棒を手にしたときから、道は定まっていたのである。人間と道具の腐れ縁において、一方が他方を利用したわけではなく、使われているのはお互いさまなのだ。人間と道具は一緒になって進歩し、停滞する。昨日使いにくかった道具も、今日は自分の一部のようになる。自分の一部のような道具は、それよりも便利な道具の使用に困難さをもたらす。

 自販機も進化している。基本的には札やコインを入れれば商品とおつりを出すシステムであるが、そのやり方にいろいろ改良が加えられている。機械の進化は昨日の物語を今日は妥当させなくしてしまう。この物語に出てくる自販機は、システム進化の過程のある一時期のものとして受け取ってほしい。

 僕のお祖父さんはケチだった。どれくらいケチかというと、一緒に住んでいるのに僕は小遣いを貰ったことが一度もない。自分ではケチであることに独特の考えを持っているつもりだったようだが、どんな考えを持とうがケチはケチでしかない。それでケチであることがゆるされるはずもない。理屈っぽいケチなんて余計にやっかいではないか。僕に小遣いをくれないのも、子供に対する両親の権威を守るためという理由を持ち出す。親がせっかく節制を教えようとしているのに、祖父が甘い顔をして子供を堕落させ、両親を貧乏たらしく見せてしまうようなことはすべきではない。それなら僕には内緒で両親に僕の小遣い分を託してくれてもよさそうなものだが、親たちの繰り言を聞いていると、自分の子供(つまり、僕の親)にさえ援助をしぶっているらしい。

 お祖父さんの考えでは、ケチは所有することを好まない。所有すれば、それを維持するのにカネがかかる。破損や消耗することを心配しなければならない。盗まれたり勝手に使われないように気をつけなければならない。そんな苦労を背負い込むくらいなら、持たない方がいい。第一、モノというのはただ持っているだけで価値を減じるのだ。かといってどんどん使えば痛んだり壊れたりする。どっちにしろ持たないに越したことはない。それがお祖父さんの意見だった。僕はお祖父さんに言ったことがある。

「モノというのはそれを使って楽しむために持つのでしょう。楽しんだ分だけ価値が減っていくのは仕方がないじゃないかな」

「ケチと享楽家の違いはそこだろうな。得るものと失うもののどちらが大きいかの感じ方が違っているのだ」

 だからお祖父さんは必要最小限のモノしか持たなかったし、いったん所有したものは使える間は使って、壊れてからでないと便利な新型に買い替えることはなかった。所有するというより、(モノは何かの役に立つべく作り出されたのだから)その使命を全うさせるためこき使うという感じだった。

 お祖父さんのケチぶりが一番発揮されるのはもちろんおカネに関してである。特におカネを貸し借りすることはお祖父さんにとって恐怖であった。貸すだけでなく借りるのも嫌っていたが、借りる方は自分のことだから借りなければすむ。あるとき電車賃もなくなってしまったが、わずか二、三百円のことなのに友達から借りるのがいやさに三時間かけて歩いて帰ったこともあるそうだ。ところが、貸す方となると、相手の借りようとする気持ちを自分の意思ではどうしようもないので、逃げ場所に入り損ねたか弱い小動物のようにただ攻撃されるのを待つしかない。本来ならおカネを貸す方が強い立場なのだが、追加融資をしてくれないと潰れると脅かす企業に銀行が弱いように、ケチは弱いのである。それは、相手が貸借を全然気にしていないのに、ケチにとってはそれがとても重大なことなので、精算されるまではそれ以外のことに集中できないからである。かといって、借金を断ったり、なかなかしてくれない返済を請求するのは、いかにも相手を信用していない心の狭い奴とみなされてしまいそうで、思いきってできない。僕はサキの「ラプロシュカの霊魂」という小説をお祖父さんに読ませたことがある。それはラプロシュカというケチがわずか二フランの貸したカネのことを苦にして死んでしまい、死んでからもそのカネのことが気になって幽霊になって現れてくるという話である。僕はお祖父さんを揶揄したつもりだったが、お祖父さんはケチの気持ちがよく書けていると感心していた。

 ケチな人によくあることで、お祖父さんはきちんとしていなければ済まない人だった。平行であるべきものが斜になっていたら、それが自分のものでなくとも直さずにはいられない人だった。そういう人は大きな企てにおいては多少の細部の乱れはやむを得ないということが理解できないことが多い。理解できないばかりではなく、それを正そうと口をはさむ。周りから見れば融通がきかない人である。言ってることは正しくても、実際の役には立たない。そういう人は敬して遠ざけられる。野球の敬遠とは違って脅威だから打たせないのではなく、人望がないから四球しか与えられない。失敗はないが、業績はあげられない。そうやって朽ちていく。お祖父さんはそういう人だった。

 お祖父さんは定年退職後誰も拾ってくれる人がなく、むしろ人の世話になるのをいさぎよしとしない人だったから、自分で見つけてきたささやかなパート仕事に行っていた。週三回通って、何か書類を作っているらしい。詳しい仕事の内容は親たちも僕も興味はなかったから聞いていない。週三回だから定期券を買うと損になる。お祖父さんはいつも切符を買っていた。それを聞いたとき僕はお祖父さんに言った。

「プリペイドカードを買えば便利なのに」

「あれは落としたりしたら損だ」

「そんなこと言ったら、おカネだって落とすことはあるよ」

「それはそうだが。あのカードは使わなくなることがあるだろう」

「どうして。いつだって使えるじゃないか」

「たとえば、今の仕事をしなくなったら」

「どっちにしろ、出かけるなら使うだろ」

「私が死んでしまったら使えない」

「そしたら僕が使ってあげる」

 お祖父さんは考え込んだ。こしゃくな孫をやっつけてやろうとしたのだ。

「電鉄会社が潰れたらどうだ」

「債権みたいなものだから払い戻してくれると思うよ。それに、電鉄会社は潰すわけにはいかないから、破産しても再建されるはず」

「そんな保証はないだろう」

「ハイパーインフレだって、起こらない保証はないよ」

 これは僕の勝ちだった。お祖父さんの一番恐いのはハイパーインフレだった。多少のインフレなら利子率の上昇でカバーできる。しかし、ハイパーインフレによる貨幣価値の暴落にはモノを持つ以外に対処のしようがない。しかし、お祖父さんは相変わらず切符を買っていた。ケチと言うのは未来が不確実ということがとても不安なのだろう。その不安をやわらげてくれるのがおカネなのだ。ただし、ハイパーインフレが起こらないという限定つきで。

 ケチで整頓好きのお祖父さんの財布の中も、もちろんきちんと片付いていた。紙幣やコインは分かりやすいように枚数を少なくすることを心掛けていた。金額を少なくするのではなく、小額なものをできるだけ高額ものに変えていたのだ。10円玉5つを50円玉1つに、千円札5枚を5千円札1枚に。買い物でおつりをもらうときのことも考えていた。お祖父さんは1円玉をいくつか用意していて、出かけるときは必ず4円だけ持っていく。端数が4円までならこれで払える。なぜ9円持っていかないかって。4円だけなら、端数が6円のときでも10円玉で払うおつりの4円とあわせて8円持つだけですむ。端数が7円以上ならもっと少なくてすむ。端数が5円のときは9円になってしまうが、それ以外では9円より少なくすることができるわけだ。もちろんおつりに5円玉がまじれば(わざわざ1円玉を用意しなくても)10円玉で払うおつりのコインの数は5以下である。しかし、おつりには5円玉が入らないことが多いし、また5円玉は1円玉より重い。そういう細かいことにも気を配っている。お祖父さんは10円玉が5つ以上あると、何かの自動販売機に入れて取り消しボタンを押す。すると50円玉が返ってくることがある。そんな風にして両替えをしている。もっとも10円玉がないと公衆電話がかけられない。(もちろん、お祖父さんはケイタイなど持たない。)だからテレホンカードは持っている。それもプリペイドカードだよと僕が指摘したら、お祖父さんは何も言わなかった。生きていくことの難しさを感じていたに違いない。

 さて、やっと自販機の話になる。もちろんお祖父さんは自販機の使い方も工夫している。自販機は投入金額と商品価格の差をおつりとして出してくれる。170円の商品を買うのに100円玉2つ入れれば、10円玉3つのおつりが出る。しかし、もしそのとき10円玉を2つ持っていれば、100円玉2つに10円玉2つを足して入れるとおつりは50円玉1つになる。普通の人はそんな面倒臭いことをしているひまはないだろうな。お祖父さんは自分の財布の中の貨幣の種類と数はきちんと把握していたから、即座にそういう計算ができた。

 お祖父さんは週三回、そういう風にして切符を買って職場に出かけていた。お祖父さんの職場へ行くのには、一度ターミナルで乗り換えなければならない。そこでもう一度切符を買う。(電鉄会社共通のプリペイドカードを使えばこんな手間ひまはかからないのに。)そこはラッシュのときは混んでいたが、定期券を使う人が多く、切符売り場は並ぶほどではない。お祖父さんの下りる駅までは160円だった。あるときお祖父さんは切符を買おうとして100円玉がなかったので、500円玉と10円玉を自販機に入れた。おつりがでてきたが100円玉と50円玉がそれぞれ2つ、合計300円しかなかった。お祖父さんは呼び出しボタンを押し、自販機の間の小窓から顔を出した駅員におつりの不足を訴えた。何かうるさいことを言うかもしれないと思っていたら、駅員はあっさりと不足の50円を渡した。お祖父さんは50円玉が3つになってしまったので不満だったがそれ以上は何も言わずに改札口に向かった。

 それだけならその駅の自販機がお祖父さんの注意を引くことはなかった。そのことからだいぶたったとき、お祖父さんが仕事場へ出勤し、缶ジュースを買おうと思って小銭入れを見ると50円足りない。そんなはずはないとあれこれ思い起こしてみると、どうやら切符を買ったときが怪しい。細かいのがなかったので千円札を入れたのだが、おつりが足りなかったようなのだ。おつりは840円、500円玉1つ、100円玉3つ、10円玉4つ、合計コイン8つである。お祖父さんは受け口に落ちてきたのをざっと見てまとめて拾い上げ、小銭入れに入れた。お祖父さんだって忙しげに人の行き交う中でいちいちコインを調べたりはしない。あのおつりの100円玉と思ったうちの一つが50円玉ではなかったか。そう思うと、ずっと前におつりが50円不足したことがあったのを思い出した。

 お祖父さんは50円の不足をまた駅員に言おうと思ったが、今度は時間が過ぎているし、確かに自販機の間違いであると証明できない。お祖父さんの金銭管理からすれば確かなのだが、それで他人を納得させるのは難しいのはお祖父さんも承知だ。お祖父さんはあきらめようと思った。しかし、たかが50円でも騙されて取られてしまったようで悔しい。お祖父さんは正当でないおカネの喪失は我慢がならないのだ。いろいろ考えているうち、二度もそういうことが起こるのはおかしいことに気づいた。お祖父さんのようにおカネに注意深い人間が見逃すのだから、急いでいるサラリーマンならおつりなど数えもせずに、たとえ数えたとしてもおかしいなと思うだけで改札口へ行ってしまうだろう。100円と50円の間違いは頻繁に起こっているのに、気がつく人がいないのだ。それなら駅員に知らせてやる必要がある。

 退勤までは時間があったので、仕事をしながらお祖父さんはさらに考えた。(考え事をしながらできるのだから、大した仕事じゃないのだろう。)機械が間違えることはあるだろうか。お祖父さんも仕事をしてきた経験から、機械についての知見は得ている。パソコンだって使ったことがあるそうだ。機械は決して間違わない。間違うのは機械を作り、機械に指示し、機械を動かす人間なのだ。

 お祖父さんはその電鉄会社の株を少し持っていた。お祖父さんはあくる日電鉄会社に行って話をした。株主というのがきいたらしい。最近は日本の企業でも株主を尊重するようになっているようだ。それから一週間ほどして、電鉄会社の人がお祖父さんのところへお礼に来た。お祖父さんのおかげで自販機を担当していた駅員の不正をあばくことができたそうだ。お祖父さんが示した日時によって駅員が特定できたので、不意の検査で証拠をおさえた。その駅員はおつりの100円玉の中に50円玉をいくつか入れておく手口を使った。自販機のおつりはコインの種別ごとに枠にいれておき、金額によって枠から落とされる。100円玉の枠に50円玉を混ぜておけば、差額の50円をかすめとることができる。ラッシュアワーに限っておけば、みな急いでいるからおつりを確かめたりしない。気がつく人間がいても、不足を渡せば不審に思ったりしない。切符を買うのは定期券の切れてしまったサラリーマンか学生、あるいはたまたま出かける用事のある人間だから、二度も当たる確率はほとんどない。こんなセコイことでも、あの場所に設置してある十台の自販機で、月に五万円にはなったということだ。電鉄会社ではお祖父さんに感謝して謝礼を渡そうとしたらしいが、お祖父さんは固辞した。そういう押し付けがましいおカネはお祖父さんは嫌うのである。ちゃんと稼いだおカネこそ所有するのにふさわしいというのがお祖父さんの信念なのだ。

 お父さんにこの話をすると、お父さんはむしろ捕まった駅員に同情しているような口ぶりで言った。

「お父さん(つまり、僕のお祖父さん)のような人がいると、我々みたいな小物は悪事を働くこともできないんだな」

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