井本喬作品集

進化論と植民地支配

 我が家の本棚にダーウィンの『ビーグル号航海記』(内山賢次訳、新潮社、1956年)がある。家族の誰かが買ったのであろう。以前から気にはなっていたこの本を今度こそちゃんと読もうと思ったのは、エレナ・クローニンの『性選択と利他行動 クジャクとアリの進化論』(長谷川真理子訳、工作舎、1994年)を読んだからである。クローニンの本は、グールドなどがこき下ろしていたらしいので、読むのをためらっていたのだが、読んでみて、ダーウィンとウォレスの見解の違いなど、教えられることが多かった。そこで、『ダーウィンに消された男』(アーノルド・C・ブラックマン、羽田節子・新妻昭夫訳、朝日新聞社、1984年)を再読してみた。この本はダーウィンを貶めるために思わせぶりな状況証拠を強調する口調が鼻につくが(訳書の題名もおどろおどろしい)、ウォレスを知るのには役に立つ。

 『ビーグル号航海記』とウォレスの『マレー諸島』(宮田彬訳、思索社、1991年)を読み比べてみると、後者の方がはるかに面白い。本を書いた時の両者の状況の差が影響しているのだろう。その頃のダーウィンはまだ進化論のアイデアを持っておらず、また、世界周航では焦点が定まりにくいので、漫然とした叙述になっている。一方、ウォレスは生物進化の観点から、ある明確な主張を伝えようとする。ガラパゴスの貧弱な見本と違って、マレー諸島は豊富な証拠を与えてくれたのだ。両者の性格やそれを反映した文体の差もある。ダーウィンの用心深く慎重な言い回しは翻訳を通してでも伝わってくる。ウォレスは自信を持って断定する。

 ダーウィンがビーグル号乗組員という団体、もしくは政府の出先機関に属していた(正式には船長の私的な取り計らいで乗船していたのではあるが)のに対し、ウォレスは一採集者でしかなく、もっぱら地元の有力者の好意に頼らざるを得なかった。もちろんダーウィンもビーグル号を離れた小旅行のときはウォレスと同じような状況だったが、ウォレスのようにそれが常であったのではなく、エピソードで済んでいた。ウォレスの記述から、彼の活動が植民地体制に支えられているのが読み取れる。彼が目指すのはいわゆる「未開の原住民」がいる辺鄙なところなのだが、どこへ行こうとも彼らは既にヨーロッパ人の支配を受けているのだ。ウォレスが先住民の協力を得られるのも、そういう体制が背後にあるからなのである。したがって、ウォレスが植民地の為政者や商人たちの立場に同情的であり、先住民については使用人ないし被支配者という側面に目を向けがちだったのは仕方のなかったことかもしれない。

 ダーウィンの見た南米がスペインとポルトガルの統治にあったのに対し、ウォレスはマレー諸島においてオランダの統治を見聞した。ダーウィンはスペインやポルトガルのやり方には反発した(ニュージーランドやオーストラリアでのイギリスの植民に対しては、期待と幻滅の両方を示している)。ウォレスもチモールに関してはポルトガルやオランダのやり方を批判しているが、ジャワや北セレベスについては、オランダの統治の方法を推奨し、イギリスもそれにならうべきだと主張している。

 ウォレスはオランダの植民地統治のパターナリズム的手法を肯定的に捕え、イギリスの自由主義が「未開」な地域では有効でないと主張する。イギリスが植民地経営において被統治者に自由主義を認めようとしたかははなはだ疑問ではあるが、少なくとも建前では先行者(スペイン、ポルトガル、オランダ)とは違ったやり方を適用しようとはしていたのであろう。ウォレスにしてみれば、植民地行政にたずさわる者たちのそういう言動の矛盾が目に付いたのかもしれない。植民地経営においてはやりようによって専制が効果をあげるので、イギリスはそれを嫌うべきではないとウォレスは言うのである。ウォレスがイギリスの植民地統治のどの側面を捕えてそのような主張をしたのかは分からない(ウォレスが「マレー諸島」に滞在したのは、1854年から1862年まで、『マレー諸島』を出版したのは1869年、ちなみにインド大反乱が起こったのは1857年)。おそらく、イギリスは自分たちのやり方を現地人に押し付けようとし(善意からであっても)、結果として現地人を不適格者として差別するか、全く排除してしまうことになると、ウォレスは考えていたのだろう。

 実際は、イギリスの植民地統治のあり方は多様であったようだ。統治に当たる人物によっても違っていたらしい。たとえば、東アフリカにおけるフレデリック・ルガードについてジャン・モリスは次のように述べている。

 ルガードの発想のもと、ナイジェリアでは、間接統治方式が他に類をみない精緻なものにまで発展した。帝国の傭兵として出発したルガードはいまや、帝国の信託統治に邁進する伝道者の様相を呈しはじめた。先住民が独自のペースで、とまではいかないが、せめて独自の文化を守りつつ発展できるように手助けし、同時に、その地域が持つ資源を世界全体の恩恵のために開発する、という父親的温情を芯にした帝国主義である。(『パックス・ブリタニカ』椋田直子訳、講談社、2006年)

 これはウォレスの推奨する統治形態そのものではなかったろうか。ウォレスの懸念はイギリス植民地政策の一つの側面を照射するものではあったかもしれないが、全体像を把握したものではなかった。もっとも、イギリスの植民地統治の多様さ、複雑さを一つの傾向にまとめ上げるのは困難であり、モリスも次のように指摘している。「しかし、帝国の多様さには真の秩序などは存在しなかった。論理もなければ明確な目的も定式もなかった」「帝国の目指したところは数多く、しばしば矛盾した。もっとも透徹した観察者でさえ、この現象を一貫した理論に還元するのは困難で、誰かがすっきりした定理を見出しそうになるやいなや原則が揺らぎ、まったく種類の異なる領土が獲得されて、定理が早くも通用しなくなるとわかるのだった」(『パックス・ブリタニカ』)。

 文明国と「非」文明国との商業に関するウォレスの見解も独特である。文明国の商品は安すぎるので、先住民は短時間の労働でその対価を賄うことができ、一生懸命働くことはしない。一方で、文明国の労働者は低賃金で長時間労働を課せられている。文明国の商品の価格を上げれば、文明国の労働者の労働条件が改善されるし、先住民はそれを得ようとして勤勉に働くようになるだろう。文明国の商品は先住民にとって必需品ではなくぜいたく品であるから、価格上昇の弊害は大きいものではない。ウォレスはそう主張するのである。後年社会主義者となったウォレスが市場を管理すべきだと考えたのは当然であるが、彼の提案は、図らずも植民地交易の実態を表している。文明国は「非」文明国の産品を望むが、「非」文明国に売りつけるものがあまりないのである。したがって、自由貿易においては文明国の交易条件が悪いのは当然なのだ。交易に限定することを超えて植民地支配になる必然性がそこにある。

 ところで、病気や、危険や、不快で不便な生活や、人々とのわずらわしい交渉など、さまざまな困難にもかかわらず、ダーウィンやウォレスが追求したもの、あるいはその追求に駆り立てたものは何であったのだろうか。世界を知りたいという情熱だったのだろうか。それが何であれ、その背景には、拡大を続ける大英帝国があったのは確かであろう。ビーグル号の航海も、ウォレスの採集旅行も、非ヨーロッパ世界がヨーロッパ世界に取り込まれていく過程の一断面を示している。

 『マレー諸島』の記述であきれてしまうのは、昆虫はまだいいとして、標本にするため(一部は食用のため)鳥や獣を盛んに撃ち殺していることである(オランウータンや極楽鳥も)。今の感覚では許し難いことだけれど、もちろん当時は正当な商売にもなっていたのであり、科学目的であればむしろましだったのだろう。『ビーグル号航海記』にも警戒心のない鳥獣がヨーロッパ人に大量に殺戮されている記述がある。むろん、多くの生物を絶滅にまで追いやったのは、ヨーロッパ人が最初であったわけではなく、移民としての先行者であった先住民もまた生物絶滅の実績があったようだ。人口が増え、居住地域が拡大し、生活の質が変化することは、必然的に他の種の生物を圧迫することになる。種の保全が唱えられるようになったのはほんの最近に過ぎない。それにしても、ヨーロッパ人の進出は多くの生物(人間を含めて)に壊滅的な影響をもたらしたのは間違いない。種の多様性に触発されて形成された進化論は、人間による多くの種の絶滅をもたらす過程の中で生まれたのである。進化論自体も、適者生存という、滅ぼされるものにとっては優しくない論拠を提供することになった。そのことにウォレスやダーウィンに責任があるわけではないが、進化論は誕生のときから暗い影をひいているような気もする。

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