パスカルの論理
モンテーニュの『随想録』を読んだ勢いをかって、パスカルの『パンセ』(松浪信三郎訳、河出書房新社、1965年)も読んでみた。パスカルも『随想録』を愛読したようだが、『パンセ』は『随想録』ほど面白くなかった。モンテーニュと比べてパスカルは狭量すぎる。なぜ『パンセ』がもてはやされたのかよくわからないが、キリスト教にこだわったこの狭量さがかえって尊重されたのだろうか。どこを引用してもいいのだが、たとえば次の文章はモンテーニュの寛容さとは程遠い。
それゆえ、われわれをうながして被造物に執着させるようなものは、すべて悪である。というのも、それは、われわれが神を知っている場合にも、神に仕えることをさまたげ、われわれが神を知らない場合には、神を求めることをさまたげるからである。ところで、われわれは、邪欲にみちたものであり、したがってまた悪にみちたものである。それゆえ、われわれは、われわれ自身を、またわれわれをそそのかして一人の神以外のものに執着させるあらゆるものを、憎むべきである。(第七篇)
パスカルがなぜキリスト教を信じるようになったかは憶測するしかないが(後述する)、キリスト教をめぐる論争における彼の位置は分かるような気がする。ちょうど、現今における「科学者である原理主義者」に相当するのだろう(むろん、ついている側の勢力の大きさは違ってしまっているが)。パスカルの時代においても知識層は宗教に疑問を投げかけていた。知識層の一人である(しかも有力な)パスカルがキリスト教を擁護したことは、知識層の異議に悩ませられていた人々にとっては大きな助けとなったはずだ。当然、パスカルの役目も知識層を対象とする説得ないし反論であった。ただし、知識人であるならば宗教に疑問を抱かざるを得ないことはパスカルも承知していた。
『パンセ』の第三篇には、賭けによる信仰選択というパスカルの提案がある。天国の存在の確率がいかに低かろうと、そこで約束される「無限に幸福な無限の生命」に比べれば、信仰によって失うかもしれないどのような現世の有限な快楽も、その確率(天国などなくてあるのは現世だけという可能性)がいかに高くても、その価値は劣る。したがって、理性的に考えても信仰する方に賭けることが正しいはずだというのである。これはナシーム・ニコラス・タレブが勧める対ブラック・スワン戦略としては妥当なのかもしれないが、天国の存在を信じていない(それがある確率はゼロと思っている)人には当てはまらないだろう。問題はやはり(たとえわずかでも)信じるか否かなのである。さらに、「無限に幸福な無限の生命」という餌で信仰を釣るというのは、パスカルがイスラム教を非難したのと同じ難点がある。
だから、パスカルは理性による信仰という方法にこだわらなかった。逆に、理性をもってしては信じられないということにこそ、キリスト教の真理があるとパスカルは主張する。この説得の仕方は巧妙な論理を使っていて、論争において論理的であろうとする人々を陥れようとする。つまり、理性を通じて理性の限界の外へ導こうとする。神が現前しないこと、キリストが救世主として現世的な力を持っていなかったこと、聖書の内容が信じ難いことなど、キリスト教の弱点は明白である。にもかかわらず、この宗教を信じることができるのはなぜか。それはその弱点こそが神の意思を示すものであり、キリスト教を他の宗教とは異ならしめているからである、というようにパスカルの論理は展開される。しかし、キリスト教を素朴に信じようとする人々にとっては、パスカルの方法は屁理屈としか受け止められず、かえってキリスト教を危うくするもののように思えるのではないだろうか(そういう人々はパスカルの本など読めなかったし、読まなかっただろうが)。
パスカルがキリスト教を信じようとしたことの要因としては、その宗教が現に連綿として維持され大きな影響力を保持し続けているという事実もあげられよう。旧約聖書のような弱い基盤の上に、しかも迫害され殺害されてしまった教主という出発点から、これだけの興隆を実現したということが、逆にキリスト教の真理を証明しているように思えたのだろう。しかし、キリストは他に多くの競合者を持っていたはずだ。その中から成功する者が選ばれたのは、偶然にすぎなかったのではないか。後から振り返れば、その成功は必然に見える。何しろ、成功したのだから。だが、企業が競争に勝ち抜いてきたのと同じように、勝つ要素は確かに見いだせるが、敗者にだってもし勝ったらその理由とされる別の要素は備わっていただろう。その成功を必然とみなせば、とうてい成功に寄与するはずもない要素があるにもかかわらず成功したという事実が、逆にその要素こそが成功の秘訣だとみなす解釈を可能にしてしまうこともある。キリスト教の成功が偶然だと思えば、そういう要素は素直に弱点とみなしうるのだ。
パスカル自身の信仰については、以下の部分がその心情をよく現しているように思える。
人間の盲目と悲惨を見、沈黙した宇宙を見つめるとき、人間が何の光ももたずただ独り放置され、いわば宇宙のこの一隅に迷い込んだように、誰が自分をそこに置いたのか、自分は何をしにそこへ来たのか、死ぬとどうなるかをも知らず、あらゆる認識を不可能にされているのを見るとき、私は眠っているあいだに荒れはてた恐ろしい島に連れてこられて、目覚めてみると、[そこがどこなのか]わからず、そこから脱出する手段もない人のような、恐怖におそわれる。そう思うと、私は、かくも悲惨な状態にありながらどうして人が絶望におちいらないでいられるのか不思議でならない。(第十一篇)
彼を信仰に導いたのはこの恐怖だろう。無限の宇宙の中の有限な存在としての自己。いずれ無とならねばならないのなら、たとえ天才とたたえられてもその存在にどんな意味があるのか。稀有な存在という自覚があるだけいっそう、それが何の証も残さずに消えてしまうことに不条理を感じただろう。神による永遠の霊魂の保証という考えのみがこの恐怖から免れさせてくれる。
パスカルは迷える人だったのだろう。そして、最後まで確信を得られなかったのではないか。だから、常に疑問をもたげようとする彼自身の理性を、やはり理性をもって(なぜなら、他のものでは真正の解決にはならないから)抑えようとした。『パンセ』はその苦闘の記録のように思われる。