井本喬作品集

ファーブルの成功

 『ファーブルの庭』(マルティン・アウアー、1995年、渡辺広佐訳、日本放送出版協会、2000年)という本を読んで、『昆虫記』に関することを思い出した。私が『昆虫記』を読んだのは、岩波少年文庫の『ファーブルの昆虫記』(山田義彦訳、1953年)という、ほんの一部の抄訳であり、しかも上下二巻のうちの上巻だけである。どういういきさつかは忘れたが、父が上巻だけ買ってきてくれたのだ。面白かったから下巻も読みたかったので父に頼んだら、追加してくれたのはやはり岩波少年文庫ではあったのだが『昆虫と暮らして』(林達夫編訳、1956年)という自伝的な本だった。装丁も同じだったので私は疑うことなく読み始めたが、どうも内容が違うので不審に思って解説を読むと、下巻は別にあるらしい。そのあと、改めて父に下巻を頼んだのかどうかはっきりしないが、結局そのままになり、『昆虫と暮らして』は読むことを途中で放棄してしまった。小学生の私にとって、人間の生態は昆虫のそれほど面白くなかったのである。

 私は昆虫には当時も今も興味はない。ファーブルの本はその傾向を変えることはなかった。夏休みの作品として一度だけ何匹かの虫をピン止めした標本箱を作ったことはあるが、それきり彼らとは積極的に関わったことはない。

 岩波少年文庫の二冊の本は今でも持っている。この機会に完読できなかった『昆虫と暮らして』を読み直してみると、『ファーブルの庭』とそっくりな部分がある。それぞれの解説を読むと当然のことだった。『昆虫と暮らして』は『昆虫記』の中からファーブルが自分について述べた部分を抜粋したものであり、『ファーブルの庭』は『昆虫記』と二つの伝記を元にしている。

 幼い私には面白くなかった『昆虫と暮らして』は、高齢の私には面白かった。今の私には、人間の生態も昆虫のそれと同じように興味深い。過ごしてきた年月が、それが平凡極まりない経験であっても、他人の人生に共感することだけは可能にしたのだろうか。

 ファーブルは苦労した。貧困が彼を苦しめた。彼の努力と才能が道を切り拓いていったが、目論見は挫折させられ方向転換もさせられた。好きだった数学の専門家になることはあきらめた。大学教授になるために必要だった財産を与えてくれそうな事業(あかねから染料のアリザリンを取り出す効率的な方法)は、ドイツの石油化学によって無効にされてしまった。ファーブルは独力で昆虫の生態の記述に専念する。結局、『昆虫記』がファーブルを有名にした。

 ファーブルの苦労は実ったのだろうか。たぶん、そうなのだろう。彼の本は読まれ続けているし、彼の方法は今や全ての生物(人間も含めた)に適用されている。ファーブルは進化論にあれほど敵対することもなかったのだ。進化論は彼の教えによって謙虚さを学び、自分自身を進化させているのだから。

 ところで、誰だったか忘れたが、生きたままの虫を幼虫に食べさせるために狩りをする蜂のようなものをもし神が作ったのなら、そんな神は信じられないと書いていた。ファーブルにはそんなデリケートな心情はなく、狩人の技の見事さに感嘆するばかりである。進化論を信じていなかったのなら、彼はその技も神の仕事と受けとったのだろうか。そして、彼自身の運命も神によって定められているのだから、文句を言わずに受け入れたのだろうか。昆虫たちの世界の巧妙さは同じように人間の世界にも見出されるはずだと信じて。

 困難な状況を克服して成功した人々のことを知ると、私たちは成功に至るまでの道筋の必然性があるように思う。しかし、同じような状況で同じような能力がありながら成功しなかった人がはるかに多くいるのだ。誰が成功するかは事前には全く分からないだろう。それでも、何人かは成功し、その少数の成功者によって文化・文明が発展してきた。つまり、誰が成功するかは、人類全体からはどうでもいいことで、ある確率で成功者が出るということだけが必要なだけなのだ。これは個人にとっては辛いことである。

 ファーブル自身にとってはどうだったのだろう。『昆虫記』に結実して行った文章を、彼はどんな思いで書いていたのだろう。それが彼を有名にした後でも、何か思いがけないような気持ちが残っていたのではないか。彼にとって昆虫たちを観察することはあくまで余技でしかなく、本業とは違ったものと感じていたのではないか。偶然と神意をめぐる疑問に悩むことがなかったとしても。

 本筋ではないことで成功してしまうということはある。そして、本筋が世間の通念であるならば、そこから外れたところでの成果は新しい道筋を作りだすことになる。ファーブルの成功は彼の思いもよらなかったことだったのかもしれない。だからこそ、私たちはファーブルが有名になったことを喜ぶべきなのだ。彼が無名のままで、『昆虫記』が世に出なかった可能性はあるのだから。

[ 一覧に戻る ]