カントを読む 1(『純粋理性批判』)
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遂に『純粋理性批判』(高峯一愚訳、河出書房新社、1965年)を読んだ。「遂に」と形容したくなるほど懸案だったのだ。この高名な著書を読まずにいることにずっと引け目を感じていた。カントの著作としては『道徳形而上学原論』は読んでいたが、三つの『批判』は大部でなかなか読む気がしなかったのだ。一方で、読まなくてもかまわないと思っていた。カントなんか分かっている、観念論者でも経験論者でもない折衷論者――こんな古臭い思想を無視してしまっても何の支障もない。とはいえ、怠慢ではある。特にきっかけはなかったのだが、義務として読み始めた。しかし、読んでみると面白い。そして、内容は現代的に受け止めることもできる。カントは、認識がその内容も方法も全て経験から得られるといういわゆる「タブラ・ラサ」仮説に反対して、先験的な要素がなければならないと主張した。その内容の詳細は別として、「先験的」を「生得的」と読み替えれば、遺伝的進化論と共通する主張である。
ただし、単に先験性=生得性を言うだけなら、悟性と理性の区別は必要なかった。カントは経験からは得ることができない理念というものを想定し、その担い手として理性を持ち出してくる。理性と悟性の役割分担により、経験に基づく認識と経験には捕らわれない認識を両立させることができるとカントは考えた。
ところが、世の中には誤った(とカントが思う)言説に満ちている。それらがなぜ生じてしまうのか、そして、なぜそれらが誤りなのかをカントは説明せねばならないと思っていた。
悟性は感性が表象した対象を概念として把握する。したがって、悟性は経験から離れることはない。経験とは別のものに関わることはできないから、悟性には誤り(現象との相違)はない。一方、理性はもともと経験に基礎を求めないのであるから、自己矛盾を犯す以外には誤ることはない。だとしたら、認識の誤りというのはどこから生じるのであろう。カントは悟性に対する理性の関わり合いから誤りが生まれるとした。
悟性は経験に適用できる悟性概念を扱い、理性は経験とは関わらない理念(理性概念)を扱う。両者には明確な役割分担がある。しかし、本来別々の分野で機能しなければならない理性と悟性であるが、カントは両者の間に奇妙な架橋をするのである。理性は悟性に関して統制的原理を持つ。悟性は構成的原理によって概念をまとめているのだが、理性は悟性の機能をコントロールしようとするのである。さらに、理性は統制的原理と構成的原理を取り違えること(「超越論的すり替え」)によって、理念と概念をごっちゃにさせてしまい、超越論的仮象というものを生ぜしめてしまう。概念という経験に適用すべきものを、経験を越えて適用できると思い込んでしまうのである。これは概念の理念化、逆に言えば理念の概念化ということになる。
さらにややこしいのは、理性は正当な機能として概念を利用するともされていることである。もちろん、悟性とは違ったやり方ではあるが、それでも感性 → 悟性 → 理性という認識ルートによって、経験の内容が理性にも届くようになっているのである。
カントが感性・悟性と理性を完全に遮断しなかったのは、理性と経験との通路を保っておきたかったからであろう。どのような使い方をされるにせよ、概念は感性による表象と結びついている。理性はからくも経験とつながりを持つことで、地表につなぎ留められている。カントが理性に自由な飛翔をさせないのは、そうしてしまえば理性が好き放題に理念をもてあそび、真偽の客観的基準が見出せなくなるからであろう。
それでもなお、カントは理性の暴走を戒める。理性が概念を理念の分野に引きずり込み、理念の背後に物自体を勝手に想定して仮象を作りだしてしまうことの危険性を言う。それはそのような言説が現実に行われているとカントが信じていたからである。ただし、カント自身の言説はそうではないということを誰が保証するのだろうか。
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ところで、理性は統制的でなければならないのに、(誤ってではあるとはいえ)構成的にもなりうるというのであれば、なぜ悟性の構成的機能を代替できないのであろうか。もっと言えば、カントは感性(直観)、悟性(概念)、理性(理念)の三層構造(機能分化)を仮定しているが、それが妥当なのか。
悟性という媒介者がいなければ、理性は現実の写像ともいえる感性データを受けとる一方、現実とは距離を置く思考(推論)をも行うという過重な任務を負わされ、混乱するとカントは考えたのであろうか。しかし、現に理性は混乱することがあることを認めているのだから、悟性という媒介者を作った効果は失われてしまっているのだ。しかも、感性のもたらす表象を概念化する以外の機能をもたないはずの悟性が誤りをおかすとすれば、悟性もまたその役割を忠実に果たしているとは言えなくなる。つまり、錯覚の問題である。カントもそのことに少しだけ触れている。
ところでわれわれは悟性と感官という二つの認識源泉以外に他の認識源泉を持たないから、誤謬の惹きおこされるのはもっぱら感性が悟性に対して知らず識らず影響することとなり、これがため判断の主観的根拠が客観的根拠と一緒にされ、客観的根拠が自己の規定から逸脱せしめられるにいたるのである。(238ページ、訳書、以下同じ)
この場合、誤謬が誤謬として判断できるのはなぜなのだろうか。カントはこのように合成された誤謬を「悟性と感性との単一な作用へ分解」(239ページ)することによって是正できると簡単に言うが、そんな分解が可能であるなら、そもそも感性を唯一の窓口として対象を認識するという悟性の機能を設定する必要はなくなってしまうであろう。カントは別のところでこう言っているのだから。「悟性と感性とはわれわれにあっては結合してのみ対象を規定することができる。もしわれわれがこれを分離するならば、われわれの持つのは概念なき直観か直観なき概念かであるが、いずれの場合においてもそれは、何ら明確な対象に関係することのできない表象である」(220ページ)。
私たちは錯覚が積極的な知覚機能の副作用であることを知っている。知覚とは単に与えられたものを受けとるだけというのではなく、データを積極的に加工しているのである。既にそこには判断が働いている。その作用を感性のものであるというなら悟性は不要となり、悟性のものというなら悟性は誤謬について潔白ではないのである。
カントが悟性に与えた忠義者という役割は当てにはならない。とすれば、感性と理性が協力して悟性をお役御免にしたとしても、何の不都合が生じるであろうか。であるから、むしろ私たちは、現象の次元から離れないという悟性の機能が単一では成り立たないこと、現象と仮象の一人二役こそが「理性」(カントの悟性+理性)の機能であることを示せばいいであろう。
カントがそれと知らずにそのヒントもらしている個所がある(先験的原理論第二部第二部門第二章第六節 宇宙的弁証論解決の鍵としての先験的観念論)。ここでカントは認識を経験の次元に留めようとして、記憶や予測や想像などについても経験の延長的解釈をしようとしている。しかし明らかに、記憶や予測や想像は経験(感性によって表象され、悟性の対象となっているもの)とは様相を異にするものである。この作用は構成的であるから理性にとっては仮象の次元に属することになってしまう。かといって、悟性は現実から離陸できないからこのような作用をなせるはずがない。
このことは「先験的方法論第一章 純粋理性の訓練」においてさらに明確になる。「想像」「臆測」「空想」「誤想された認識力」「怪しい判断」「臆見」「想定」「幻想」「連想という傾向性」「常識」などという言葉が氾濫するのだが、そのような作用をするのは一体何なのだろうか。正しく機能するのならば、理性であるはずがない。なぜなら「理性の判断は決して臆見ではなく、一切の判断の中止であるか、さもなくば必当然的確実性であるかである」(492ページ)からである。理性がなしうるのは推論的な判断であり、概念を扱う場合には「可能的経験」の範囲内に限られるのである。にもかかわらず、理性以外にはないだろう。
ただし、カントが言う理性という言葉には、悟性と対比せられたときの理性と、感性、悟性をも含んだ人間存在を代表するものとしての理性の二通りの使われ方があるので、理解を一層難しくしている。
カントは「理性を空想と幻想のうちに溺れしめないよう、細心の注意をもってこれを防がねばならない」(496ページ)と言う。「細心の注意をもってこれを防」ぐのは理性自身なのか、それとも理性とは別のなにものかの役割なのか。そもそも「臆見」と「必当然的確実性」の差を、いわば酔っぱらった理性と冴えた理性の違いを理性自身が識別できるのだろうか。
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カントの時代以降に得られた多くの知識を使ってカントを批判するのはたやすいことだ。かといって、カントの権威を維持しようとして現代的意義を無理矢理見出そうとする必要もないだろう。だが、そういう視点からはカントの問題点がよく分かる。
カントは感性というものをあくまで受動的なものとみなし、しかも直観という認識機能に限っている。感情がなぜ生じるのかについても興味がないようである。(非実践的な)純粋理性は認識にのみ関わるものと考えるカントにすれば当然のことかもしれないが。
面白いことに、後にカントは、実践(行為)の理由は現象として認識できないという議論をしている(『実践理性批判』)。これは行為(認知や感情も含めた)には意識が関与しない部分があるという現代的な知見を思わせる。認識が意識的なものであるならば、無意識である行為のメカニズムは感性や悟性や理性のあずかり知らないものであるだろう。ただ、知らないからといって、それが存在しないことにはならないのだ。
カントに経験的な議論を仕掛けても拒否されてしまうかもしれない。しかし、意識を中心に組み立てられている彼の論が人間存在の全部を捕えきれていないことは、経験的に判断しうるのである。意識の関与しない心理や行為があることにはフロイトが気づいた。現代ではそのことが明確になっている。もし、感性や悟性や理性が意識的な機能であるとされているならば、主体に関するそれらの認識は部分的なのである。主体の機能の全容は自省によっては決して得られず、他者の観察によってのみ認識されうる。その認識は経験的なものであり先験的ではない。
むろん、そのことはその機能が先験的=生得的であることを否定するものではない。先験的であることを先験的に知ることは保証されておらず、また、先験的であることが先験的に知ることを保証するものではないということだ。たとえその機能が「形式的」であり、経験的要素が含まれていないにせよ、それが機能するのを認識できるのは経験においてでしかないということは十分ありうる。
それゆえ、理性の「批判」を行う主体は何なのだろうと問うことが必要なのだ。これも理性を含む主体であると思われるのだが、自分自身を批判することがどのようにして可能であるのだろうか。批判対象を批判主体としてまず前提してから、その前提に頼って批判するというのは正当な手続きなのだろうか。単に与えられて使っているというだけでは、その機能について知り得ていることの証明にはならないのである。
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カントは「先験的方法論第二章 純粋理性の規準」で実践的な理性使用について述べている。理性は「あくまで経験の限界を越えたどこかに確乎たる足場を求めようとする制すべくもない欲求」(503ページ)を持っていて、この欲求はその思弁的使用においては満たされることはないが、実践的使用においては可能である。理性にとっての三つの基本命題、すなわち「意志の自由」「霊魂の不死」「神の現実存在」は、思弁的理性にとっては無用であるが、実践的には重要であるとして、カントはその理由を説明していく。
ここで展開された理性の実践理論が『実践理性批判』に引き継がれるのだが、理性の認識能力には慎重な制限を設けたのとは対照的に、実践能力には奔放ともいえる力を与えている。認識を担当する理性(『実践理性批判』では論理理性と呼ばれている)には物自体は不可知なものであるが、実践理性は意のままに物自体に影響を与えることができるのだ。
最初、実践理性は理論理性の裏方のように、現象としての行為に自由意志のレッテルをはりつける役割に甘んじているように見えたのだが、物自体を使ってシミュレーションのようなこともしているのが分かってくる。理論理性の場合のように、それが実践理性の妄想にしか過ぎないのではないかという私たちの懸念にはかまわず、カントは実践理性を命令者にまでしてしまう。
論理理性とは逆転した実践理性のこの性格に私たちは戸惑わされるのだが、詳細は『実践理性批判』を読んでからにしよう。