井本喬作品集

カントを読む 4 (『永遠の平和のために』)

 カントを読むのは『判断力批判』で切り上げようと思っていたのだが、一つ気になることがあって『永遠の平和のために』(土岐邦夫訳、河出書房新社、1965年)も読んでみることにした。それは『判断力批判』の中の次のくだりである。

 戦争ですら、規律と市民権への神聖な敬意をともなって行われるならば、それ自体にある崇高なものをもち、そのように戦争を遂行する国民がますます多くの危険に曝されて、しかも屈せず勇ましく危険に対抗しえたのであるほど、その国民の精神的態度を一層崇高なものにする。これに反して久しきにわたる平和は単なる商人根性を、またそれとともに低劣な自利心や、怯懦や、柔弱を、支配的にし、国民の精神態度を低下させるのが常である。(221ページ、訳書、以下同じ)

 こういう意見の持ち主が平和についてどんなことを書いているのか興味をおぼえたのだ。しかし、カントは『永遠の平和のために』の中では次のように述べている。

 事実、しばしば戦争がただ勇気を示すというだけのために始められ、したがって戦争そのものに固有の尊厳さが置かれたのである。そのうえ、哲学者までも、戦争をなにか人間性を高くするものと考えて讃美している。だが、その際、あのギリシャ人の格言、「戦争は取除く悪人よりも多くの悪人を作るがゆえに厭うべきものである」ということを忘れているのである。(427ページ)

 カントの矛盾を突く必要はない。人は常に首尾一貫しているものではないし、また、自分が書いたことを全て憶えているわけではない。場合によっては矛盾に気がついても直さずにそのままにしておくのが誠実な態度であろう。時とともに考えが変わるのは当り前なのだから。しかし、カントにはそんな自覚さえなかったのではないか。いずれも論旨から派生してくる感想にすぎず、論理的な一貫性への配慮など気にもされなかったに違いない。いわゆる、筆がすべったのだ。

 ところで、『永遠の平和のために』を読んで思いを強くしたのだが、カントは他人とは違った見解を打ち出さないと気が済まないようだ。むろん、それがカントのユニークさであり、彼の主張を魅力的にしている点でもあるのだろうが。カントをめぐる思想的状況については勉強していないので私のこの感想が適切かどうかは分からないが、一つだけ例をあげてみる。

 カントの時代までに世界規模の人類学的な知見がもたらされたことが、彼にも大きな影響を与えたようだ。カントは人類が世界中に拡散していることに注目し、その原因として戦争をあげている。「そして、エスキモー人(中略)をアメリカの北に、またペシュレー人をアメリカの南にフェゴ島まで追いやったのは、自然が地球のあらゆる場所に人を住まわせるための手段に用いる戦争以外の何でありえたろうか。しかも、戦争そのものはいかなる動因も必要とせず、人間の本性に接木されているように思われる」(427ページ)。このような人間本来の好戦的性格が人々を分離拡散させるが、一方で、敵対的集団への対抗の必要上、集団内部での平和がもたらされるとカントは主張する。

 カントは集団的敵対が個人的敵対を相殺させると言っているだけで、敵対的関係がなぜ個々人のレベルまでにはいたらずに、集団的敵対のレベルにとどまるかを説明していない。社会契約説ならば、個人レベルでの権利の侵害の防止、あるいは集団として結合することの利便性を、集団内部の統合の主たる要因とするであろう。カントは個人の都合というようなあやふやなものを基礎にすることを避けたかったのかもしれない。「自然」が人々に強いて外部と内部の均衡を同時に成立させたというわけだ。

 カントの考えは、ここでも進化論を思わせる。熾烈な競争によって資源の豊かな環境から追い出された集団が、絶滅を避けるためにやむを得ず他の環境に適応することにより、結果的に棲み分けのような形態が成立する。「戦争」という言葉を生存競争と言いかえれば、適者生存に似たメカニズムによって、地域的な集団の分立と併存の均衡が成立することになる。

 カントはそこから話をさらに進めて、一方で国が分立しており(勢力のバランス)、他方で商業関係によって結びつくことにより、国際間の平和が達成されると言う。ただし、個人間のレベルと集団間のレベルでは説明原理に違いが生じている。個人間の平和は集団的対抗の必要から生じるという説明からすれば、集団間の平和はより大きな集団(同盟)間の対抗の必要に求められねばならないであろう。あるいは、集団間の平和の説明が、集団の分立と商業関係によって説明されるならば、個人間の平和も個人の独立と交換関係に求めねばなるまい。

 人間の好戦的性格がかえって人々に平和をもたらすというアクロバティックな論理にカントは魅せられたのかもしれない。それは各人の利己的な動機が人々に繁栄をもたらすというスミスの論理に似ている(『国富論』は1776年、『永遠の平和のために』は1795年)。

 それはともかく、『永遠の平和のために』の他の個所も、カントの変化球に悩まされる。これだけを読んだ人には何のことやら分からないに違いない。理解を容易にするためには、カントの前著を読んでおく必要があるだろう。

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