悪い人
『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック、1983年、森英明訳、草思社、1996年)は、いっとき話題になった本である。こういう本を読むのはしばらくたってからの方がいい。ただし、それまで我慢ができて、そのときまで忘れずにいたならの話だが。
それで、期待して読み始めたのだが、すぐにどういう本かが分かってしまった。おどろおどろしい序文に続き、強迫神経症に関する精神分析的な解釈。それだけで著者の言うことを警戒するのに十分だった。著者と違う見解として、例えば『手を洗うのがやめられない』(ジュディス・ラパポート、1989年、中村苑子・木島由里子訳、晶文社、1996年)によれば、強迫性障害の治療には行動療法と薬物療法が有効であり、精神分析が教えるような成育歴との関連は見られず、また精神分析は治療に関して無力であるとのことである。どちらを信じるかという問題ではなく、知識や治療法が進歩しているということなのだ。
著者は私の期待したことをしようとはしているのである。「悪い人」というのがいるのであり、それは単に「悪いことをする人」というのではなく、「常に悪いことをする傾向のある人」という強い意味でのことなのだ――そういう認識については著者に賛同する。著者はそのことを科学的に究明しようというのだが、著者の科学的な態度というのが怪しげなのである。
例えば、「ハートレーとサラ」のケースで、患者であるハートレーの最初の診察から妻のサラを同席させるなどということは、普通行われるであろうか。患者が対話が出来ない状況であるならともかく、まず患者との一対一の診察がなされるべきではないのか。妻の影響力が強いと推察されるならなおさらそうであろう。素人の私から見ても、診察の手順を逸脱しているように思える。
さらに、著者の診察における態度(書かれてあることから判断して)は、患者やその家族に対しての著者自らの感情的反応を重視しすぎており、それに基づいた攻撃的な「診断」が家族(ないし患者自身にも)に向けられるのである。患者の症状の原因は家族にあり、家族の人格が変化しない限り患者の治療は難しいと決めつける。見方によっては、家族に責任を押し付けることで、治療に対する自らの無能を認めることから逃げようとしているのではないか。これでは、患者や患者の家族が治療者としての著者に否定的になるのは当然のような気がする。
著者が語る治療の内容は、創作ではないかと疑いたくなるようなところがある。患者の家族や患者自身の邪悪性を際だたせようとしている手つきが見えてしまっているようなのだ。著者は「邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである、と定義することができる。簡単に言えば、これは他人をスケープゴートにすることである」(167ページ)と言っているのだが、つまりは邪悪性が他人に及ぼす影響とはとばっちりのようなものであり、邪悪な本人は自分の問題で精一杯ということらしい。積極的に他人に害をなそうというのではなく、ただ、自分が害をなしているということに気づかない(気づこうとしない)だけなのだ。しかも、その害というのは、著者が勝手に作り上げているものかもしれない。著者は来診しなくなった患者を追跡調査する手間さえかけていないのだから。
ここで扱われている患者の家族あるいは患者自身は、悪という点では問題にするような人々ではないのだろう(シャーリーンのケースなど、治療者が治療に困難を感じる以外に、誰にも迷惑をかけていない)。彼らを「邪悪」と呼ぶのは、単に著者が気に入らなかったからであり、患者の治療がうまくいかない原因を彼らに求めることで、自らと自らの手法を無能と認めることから免れたかったからにすぎない。患者の治療が手に余ると認めることはそれほど苦痛ではない。苦痛なのは、自らの手法が症状の原因と治療方法を明確にしていると思えるのにもかかわらず、実際には有効ではないときだ。そういうときに問題にしなければならないのは手法の方であって、患者や家族の方ではないのである。治らないのはお前の家族が悪いからだと言うだけならば、治療者はいらない。
子供の行動に対する親の影響を過大視することの危険は、自閉症で十分に理解されたのではないだろうか。子供の症状の原因を親に求めるのは安易であるばかりでなく、見当外れの可能性が大きい。一緒に暮らしている者たちが影響を与え合うのは当然のことだが、それは一方通行というわけではない。子供に悩まされる親というのもいるのだ。そして、精神的な症状の原因が身体的なものに求められるようになってきている現在では、症状はまずそれが現れた個人において注目されるべきである。他人の影響というのは思ったほどではないのかもしれないのだ。
ところで、著者が「邪悪」とする人々には良心(超自我か?)があると著者は言う。その良心は自己の欲求や行為の一部をよくないものだと認めるが、それを完全に抑えることはできないので、せめて世間体だけでも取り繕うように命じる。つまり、良心は他人の眼程度にまで機能が低下しているのだ。しかし、それでも葛藤を自己の内部だけに留められるのであれば、社会生活を送るレベルでは良心は機能していると言えよう。ただ、その葛藤によって様々な精神的身体的症状が現れたり、家庭という拡大された自己の弱い部分、つまり子供に症状が現れてくるのが問題だと著者は言っている。つまり、良心の副作用として邪悪が生じているのであり、したがって、邪悪の存在には良心が必須であると著者は言わざるを得ないのだ。
精神分析においては、フロイトの見解を継承して、良心は社会の要請が親を経由して超自我として形成されるというように、由来が自我にとって外部のものとされている。それゆえ、外部からの監視という特性がつきまとうことになる。問題はそこから生じてくるのだ(だから、良心のない者にはそのような問題はなく、著者の言う「悪い人」ではないことになる)。だが、良心というのはそもそも生得的に自我に備わっているとは考えられないだろうか。そこまで徹底しなくても、良心が本質的に自我の作用であることを認めるならば、他者の監視の目に頼る必要はないのである。
自我(エゴ)の欲求と他者の欲求が相克するとき、ある程度の譲歩をするのが良心であると私は思っている。どの程度かはその人その場合によっていろいろであろうし、他者の評価も影響を与えるであろうが、原動力は自我の作用なのだ。時には他者を援助するなど、他者に比して自我が不利であることを積極的に容認するのも可能だ。ただし、それが自我の作用であるから、他者のためといってもあくまで自我からの見方に基づいている。いかに献身的に見える行為でも、他者にとって本当にためになっているかは結果を待たないと不明である。また自我の作用であるから、献身的な行為がエゴイスティックであるというのは当然なのだ。
良心がないというのは、自我の本源的な作用としての他人への譲歩がないということである。他者への譲歩が、他者による評価の結果として生じる自己の利害にのみ基づいてなされるならば、それこそを偽善と呼ぶべきだ。しかし、偽善でも、なされるならば外見は善と変わりはない。偽善の問題点は、他者からどこまで譲歩を引き出せるかのみが関心の中心になってしまうからだ。無謀な者は他者の評価の影響をほとんど無視しうるとみなすであろう。そういう意味では良心は自我の譲歩には重要な役割を果たしている。だから、良心に逆らうかどうかが重要(と著者は言う)なのではなく、良心がどの程度機能するか(極端に言えばあるかないか)を問題とすべきなのだ。
私が取り上げるべきだと思う「悪い人」とは、例えば『社会悪のルーツ』(ドナルド・W・ブラック、1999年、玉置悟訳、毎日新聞社、2002年)が取り上げているASP(反社会的人格障害)のような人たちである。この本はASPには良心が欠けていると言いきっている。しかし、『平気でうそをつく人たち』の著者はこういう人々は自己の邪悪性を隠そうとはしないゆえに問題は単純であるとして興味を示さない。
著者は邪悪性の原因をナルシズムに求める。「強度のナルシズムにとらわれた(つまり邪悪な)人間は、自己の完全性イメージをおびやかす相手にたいしては、だれかれおかまいなしに攻撃をしかける」(290ページ)と言うのだが、攻撃の対象は家族や治療者などの周辺の人に限られる。なぜなら、そのナルシズムというのは他人の目をひどく気にするというものであるから、身近な者を越えて攻撃することなどそもそもゆるされないからだ(だからこそ症状が現れるというのではないか)。邪悪な人が権力を持てば危険だと著者は言うのだが、彼らのケチくさい自我にそういうことができるのだろうか。
第5章ではベトナム戦争での虐殺事件を取り上げて、集団における邪悪性を考察しているが、それは別の次元の話であろう。
結局、この本は、精神分析的療法の無力さの原因を患者や患者の家族のせいにしようとする弁解の書でしかない。邪悪な人というのは、知らず知らずに描いた著者の自画像ではないのか。