井本喬作品集

砂の褥

 その年の夏、木村と僕は海水浴場の近くのレストランによく行った。この街の大学を卒業して、僕は地元企業に、木村は県庁に就職した。その経歴が示す堅実さのイメージを僕らは恥じ、週末の夜をうろつく。

 もう夏は終りかけていて店はすいていた。生地そのままのテーブルと椅子、壁にはアクリル画のイラスト、知ってるのや知らない曲が次から次へと流れる。カウンターにすわったサーファー風の男が傍に立ったタンクトップのウェイトレスと親しげに話している。時々カウンターの中の青年もそれに加わる。

 外へ出ると暗くなっていた。レストランの外観は灰色の切妻屋根に水色の板壁、白い窓枠、店名の下にヤシらしい木と車を描いた原色のネオンの看板。月が明るく、屋根の上には濃紺の空に雲が白く見える。国道をときおり車が走り過ぎる。そのむこうは砂浜と海だが、かん木にさえぎられて見えない。木村は車のエンジンをかけ、ライトをつけた。

 木村の車は特徴のない白いセダンで、プレートナンバーが1111なのだけが取柄である。もっとも木村はそれをことさら言われるのが気に入らず、覚えやすいだけだと無視する素振りを見せる。

 走り出してすぐ、一台のバイクが僕らの後につく。この辺りの道は海岸線に沿って曲がりくねり、アップダウンも多いのでライダーたちのお気に入りだ。見通しが悪いのでバイクはなかなか追い抜くチャンスがない。木村は道を譲ろうとせず、わざとゆっくりと走る。ようやく短い直線路になってバイクは追い抜いていく。

「砂丘へ行こうか」

 車は松林の中の細い道に入った。それ以上行くと砂に車輪を取られてしまうところで木村は車を止めた。僕らは車を降りて歩いた。すぐに松林は切れ、砂丘に出た。砂丘に隠れて海は見えない。砂丘は左方の窪地に向かって傾斜している。

「誰かがいる」

 窪地の向こう、松林が少し突出しているところを木村が指さした。まばらな松林の中に人影が見えた。

「何だろう」

「動いている」            

「穴を掘っているみたいだ」

「分かった。ゴミを捨ててるんだ。産廃か医療ゴミ。新聞が問題にしてたよ。行ってみようか」

「ほっとけよ。帰ろう」

 僕らは車に戻った。それが事件の始まりだった。

 勤めを終え、帰りにビールを飲み、束の間のいい気分で家に帰り着くと、門の前で男が待っていた。彼は僕の名を確かめてから聞きたいことがあるといった。僕は彼を中に入れず、門に寄りかかって顔を見た。年は僕と同じくらいか少し若そう、やせて背が高く、Tシャツにジーンズ姿。

「あんたは誰だ」

 男は僕の質問を無視して言った。

「吉井裕子さんの居所を御存じでしたら教えてほしいのですが」

「誰だ、その女は」

「あなたが彼女と付きあっていることは分かっているのです」

「だとしたら、どうだというんだ」

「彼女と連絡を取りたいのです」

「じゃ、彼女の家へ行けよ」

「もちろん訪ねてみました。でも、要領を得ないのです。吉井さんが家にいないことは確かなようです。家族の方が隠そうとしているのは、吉井さんの居所ではなくて、吉井さんの居所を知らないことのようです」

「彼女が居所を家族にも知らせたくないのだったら、たとえ僕が知っていても見ず知らずのあんたに教えるはずがないだろう」

 男は黙った。明らかに不機嫌に、しかし出来るだけそれを表にだすまいとはしていた。我慢比べをするつもりなのかとうんざりするほどの間を置いて男は言った。

「私達は吉井さんの仲間なのです。吉井さんが環境運動にたずさわっていたのはご存じですね」

 僕は否定も肯定もしなかった。男はかまわず続ける。

「私達は心配しているのです。吉井さんがトラブルに巻き込まれたのではないかと」

「どんなトラブルに」         

「ご存知のように、環境、ことに原発というのは政治的な対立が絡んでくるものです」

「彼女の身に何かあったというのか」

「あるいは、身を隠していることも考えられます」

「信じられないな、スパイ小説じゃあるまいし」

「吉井さんは誰か親しい人に連絡を取っているのではないかと思うんです。会うのがだめなら、伝えて下さい。私達は心配している、とにかく連絡をくれるように、と」

「僕は何も知らない。残念ながら、あなたのお役には立てない」

 再び沈黙。だが今度は短かった。男は軽く礼をすると歩み去った。

 僕は家には入らなかった。裕子の家は街の反対側にあった。バスだとターミナルで乗り換えねばならない。ちょっと遠いが歩いた方が手っ取り早い。

 三日前、彼女に電話した。母親が出て、彼女は留守だと答えた。次の日に電話すると、母親は迷惑げに同じことを繰り返す。ご旅行ですか、と問うと、ええ、まあ、というあいまいな返事。これは婉曲な、いやあからさまな拒否なのかと考えてしまう。

 彼女とは大学で知り合い、僕が卒業した後もつきあっていた。最近軽い喧嘩をして、連絡を取らずにいた。彼女の方も意地を張っているようで、とうとう我慢しきれなくなって僕の方から折れて出ようと電話をしたのだ。それなのに、彼女は拒絶を続ける気らしい。彼女のかたくなな態度に嫌気がさしかけていたので、それきりこちらから会う努力はすまいと思った。

 夜の街を複雑に曲がり、彼女の家に近づく。裕子の家は、外から見るかぎり、変わったところは見られなかった。人の出入りがあるわけではないし、灯りが多いとも少ないとも言えない。僕が訪ねたところで何も教えてくれまい。僕の出来ることは何もないことに気づく。

 僕は引き返した。

 だがそのままにしてしまうほどには、僕は超然とはしていなかった。好奇心というのは俗人のひまつぶしだ。何が自分にとって必要かということに疎い、身のほど知らずの重荷なのだ。

 とりあえず僕のしたことは、休みをとり、大学の構内をうろつき、環境運動との接触をはかることだった。夏休みなのでキャンパスは閑散としていた。見かけるのは運動部の学生か、卒業研究に追われている実験着姿の理工科系学生などわずか。別に当てはなく、クラブ室の辺りをうろついてみたり、集会の掲示でもないかと注意して歩く。

 何の手がかりもないまま、僕は疲れはてて大学を出た。門から続く並木道の途中に喫茶店があり、学生の溜り場になっていた。僕は久し振りに寄ってみた。店の中は変わっていなかったが、注文を聞きに来た女の子は知らぬ顔だった。もっとも、ウェイトレスはバイトの子で、しょっちゅう入れ替わってはいたが。客は学生らしい娘の一団がいるだけだった。

 無駄になりそうな今日一日を、少しでもましに使うために海にでも行こうかと思案していると、娘達のうちの一人が僕を見ている。顔に見覚えがあった。名前は忘れたが、裕子の友達で、二、三度会ったことがある。手を上げると、彼女は席を立ってこっちへ来た。儀礼的な挨拶の後、僕は裕子のことをたずねた。

「彼女のお母さんから問い合わせの電話が、私も含めて何人かにあったわ。彼女と連絡がとれないのは私達も同様なの。スキャンダルがあったという噂だけど」

「何か心当たりがあるの?」

「彼女がつきあっていたのは、あなただけじゃないわ」

「そうかい。誰か知っているのかい」

「私が知っているのはあなただけだけど」

「僕のことを知っているのはどれくらいいる」

「あまりいないと思う。裕子、秘密主義だったから」

「もしかしたら、君、僕のことを喋らなかったか」

「誰に」

「若い男。環境運動の連中」

「何で知ってるの」

「僕のところへも来た」

「しつこく聞かれたのよ。とても心配してる様子だったから」

「裕子が環境運動に加わっていたのは知ってた?」

「ええ、知ってたわ。彼女熱心だったわよ。でも、私達を誘おうとはしなかった。そんな柄じゃないこと分かってたのね。彼女、急進的なところがあって、他人がついてこれない部分が自分にあること自覚していたみたい」

「僕は知らなかったな」

「彼女、不誠実だったから」

「不誠実?」

「そう。強い信念と他人への寛容が同居できるなんて、分裂的じゃない。二つの顔を自由に使い分けられるなんて、不誠実とは思わない」

「嘘はつかなかった」

「嘘をつかない嘘つきなんて、もっとも悪質でしょ」

「君は裕子の友達だと思ってたけど」

「友達よ」

「なら、‥‥」

 僕は言いかけてやめた。この女と論争しても始まらない。

「彼女の加わってた運動の事務局か何かあるところを知らないかな」

「連絡所みたいなとこは知っている。一度だけ一緒に行ったことがある」

 彼女の教えてくれた場所は駅の西側、駅は町の西端にあったので、裏側になり、最近発展しだしたところ。こぎれいなビルが立ち並び、しかし何となく殺風景。一階がマリンショップ、脇の階段を上がった二階が事務所らしい。僕がその前で逡巡していると、昨日の男が降りて来た。不意をつかれて、僕は何となく手を上げ、声を出した。

「やあ」

 男は不審な顔で僕を見、すぐに思い出したらしく厳しい表情を作る。僕は卑屈に笑いかけた。クソッ、何てことだ、昨日とは全く逆の立場だ。あのエソロジスト達のお気に入りの熱帯魚と同じように、自分の巣に近ければ近いほど強く、遠ければ遠いほど弱くなる。

「吉井裕子さんについて、その後何か分かったかと思って」

「あんたには関係ないでしょう」

 そうさ、関係のないことだよ、と捨てぜりふ、とっとと帰ってしまいたかったが、それでは何のためにここまで来たか分からなくなる。

「昨日の失礼な態度は謝る。しかし、見も知らぬ人間から突然あんなことを切り出されれば、誰だって僕のような反応を示すだろう。そうは思わないか」

 男は僕を値踏みする。Tシャツから突き出た細く黒い腕がゆっくりと動かされる。

「それはそうだ」

 僕は再びにやついた。

「教えてほしいんだけど、」

「時間がないんだ。よかったら乗らないか」

 松尾(と男は名のった)は駐車場に止めた4WDトラックに僕を乗せた。焼けた車の中は暑かった。クーラーが無いのか、つけないのか、窓を開けて走る。

「彼女と付き合っていたのは事実だけど、最近会ってないのも本当なんだ」

「吉井さんの消息については何も知らないのか」

「家へ電話したが、留守だった。知っているのはそれだけだ」

「それじゃ、我々と同じだ。我々もそれ以上のことは分らない」

「それだけのことなら、そんなに騒ぎ立てる必要はないじゃないか。彼女は旅行でもしているのかもしれない」

 松尾は僕の発言を無視した。何か事実をつかんでいるのだ。僕は待った。

「環境問題に興味はあるかい」

「ほとんどない。いや、正直なところ、全然ない」

「でも、原発については知っているだろう」

「少しね。ほんの少し」

「じゃあ、簡単に話そう。原発の安全性にはいろいろ問題はあるが、現場労働者の被曝問題もその一つだ。特に、装置類の工事、清掃などを担当している、主として臨時に雇われた労働者については、彼等のその後を誰も追跡調査などしていない。我々は彼等と連絡を取り合い、被曝の実態を明らかにしようとしてたんだ。ところが彼等の一人から、冷却水漏れの事故があり、しかもそれが公表されずにいるという情報を得た。我々は彼と接触を保っていた。その彼が突然消えてしまった。同時に吉井さんとも連絡がつかなくなってしまった」

「二人の失踪に何かつながりがあるわけ」

「疑って当然だろ」

「警察へは」

「警察は我々を信用しないだろう」

 車は街を出て海沿いの国道を走る。道は時々海から離れ、海が見えなくなる。トンネルの前で脇道にそれ、家々の間の狭い道を下ると小さな漁港に出た。コンクリートの堰堤が海面を区切っている。松尾は突堤の手前で車を止めた。

「どうする。一緒に来る?」

「かまわないないなら」

「濡れるよ」

「いいさ」

 十艘ほどの漁船がつながれている間に、船外機をつけた小さなボートがあった。松尾はトラックからビニールのバッグを持ってボートに乗り込み、エンジンをかける。僕が乗るのを待って、もやいを解く。器用に船外機を操って狭い港の中でUターンし、海に出た。ボートは岬を回って小さな湾を横切っていく。浜辺にたむろする海水浴客が小さく見える。ウインドサーフィンが三つ、風がないのでのんびり漂っている。

「もし、吉井さんとその男が何かトラブルに巻き込まれたというなら、一体誰が」

「いろいろ考えられるが‥‥」

 正面の岬には、原発の白いコンクリートの建物が木々の上に見えている。橋が入江にかかっているが、それが陸上からの唯一の連絡口だ。岸に近づくとボートはスピードを落とた。岸は岩場になっていて、水面下の岩に注意しながら、慎重に進む。岩にはさみ込まれるようにして、ボートは接岸した。水際からすぐかん木のはえた急斜面になっており、鉄条網がはられ立入禁止の札が立っている。ここからでは原発の建物は見えない。いかりを岩の間に差し込んでボートをつなぐと、松尾はTシャツとジーンズを脱いだ。ジーンズの下は海水パンツだった。バッグの中からスノーケルとマスクとフィンとナイフを出し、身に着け、海の中へ入った。何回か潜水を繰り返した後、松尾は水から上がり、取ってきた貝と海藻をバッグの中から出したビニール袋に入れ、マジックインキで日付を書いた。

「水がなまぬるい。温排水のせいだ。風呂に入ってるみたいで気持ち悪い」

「君たちのこんな活動を僕に知られていいのかい」

「我々は何も隠さない。むしろ皆に知ってもらいたいんだ」

 松尾はナイフをもてあそんでいる。僕は思いついて言った。

「そのいなくなった男はどこから来たのか分かっているの」

「大阪さ」

「帰っているかどうか調べたんだろうね」

「住所は分からない。彼等はその日暮らしなんだ。仕事は日雇、住む所は簡易宿泊所いわゆるドヤ。家族はいないか、離別している。友達はいても、つきあいは深くない」

「じゃあ、トラブルがあったかどうか確認は出来ていないのか」

「そこのセツルメントに知り合いがいる。連絡を取っているところだ」

 松尾はタオルで体をふき、服を着た。

「帰ろう」

 僕はうなずいた。

 砂丘で吉井裕子の死体が発見されたことを僕はテレビのニュースで知った。

 最初の衝撃が過ぎてから、僕は自分が難しい立場に立たされていることに気づいた。伝えられた発見場所は、いつかの夜に木村と僕が怪しい人影を見た付近のようだ。裕子のいなくなった日とも一致する。僕は彼女の死体が埋められるのを目撃したのかもしれない。しかも僕は彼女とつきあっていた。こんな偶然を信じてもらえるだろうか。

 木村と電話で連絡を取り合い、しばらく日を置いてから二人で砂丘へ行った。もう警察や報道関係者の姿は見えなかった。集落から外れているせいかやじ馬も来ていない。あの夜の場所に僕らは立った。

 晴れてはいるが風が強く、ときどき砂が吹き上げられ、僕らを襲う。

 木村と僕は人影の見えた位置を思い出そうとした。僕は木村をそこへ立たせて、人影の見えた方向へ歩いていった。適当に離れたところで振り返る。声は風に取られて届かないので、木村は手で位置を示そうとする。木村がOKを出した地点にバツ印を靴でつけ、元の場所に戻った。代わって木村がバツ印のところへ行く。夜と昼とでは景色が違い、遠近感も変わってくる。木村のいる場所があの夜の人影の場所かどうか判断がつきかねた。

 僕らはバツ印をつけた近辺を探った。すぐに林を少し入ったところに掘り返した跡があるのを見つけた。ならされてはいるが、人を埋めるのにちょうどいい大きさの穴だったことは分かる。事件現場であることを表わすものは何もなかった。立入禁止の札を下げたロ―プも、死者を悼む花束も。

 足跡をたどっていくと林を抜けたところにタイヤの跡が何本かついていた。そこはテレビニュースで見た場所のようだった。

 木村は道路へ出て林の方を眺め、言った。

「どうやら、僕らは犯人を見たらしい」

「見たといったって、何も分からなかった。ただ、人影が見えただけだ」

「でも、その場所に死体があったのだし、時間も一致する」

「まいったな」

 僕らは道路を歩いて車まで戻った。風に飛ばされたビニール袋が道路を滑走していく。側溝には空缶がいくつも捨てられている。

「まいったな」

 僕は繰り返した。

「どうすればいい。警察に知らせようか」

「そうすべきだろうな」

「でも、疑われるだろう。現場近くにいたわけだから」

「君が犯人でないことは僕が証明出来るじゃないか。」

「誰が信用してくれる。殺された女とつきあっていた男が、偶然犯行を目撃したなんて。へたすると、君も共犯にされかねないぞ」

「でも、事実だ。完全なアリバイだ」

「不在証明じゃあないだろう。現場にいたんだから」

 木村は僕の瑣末なこだわりを冗談ととって笑った。

「確かにそうだ」

 僕らは車に乗り込んだ。決めかねるまま警察へ向かう。

 車の中で僕はこれまでのいきさつを木村に話した。吉井裕子の失踪、松尾の訪問、友人の情報、松尾との原発探索。

「それじゃあ、原発に絡む何かがあって、彼女が殺されたというのか。信じられないな」

「だが他に彼女が殺される理由があるか」

「愛情関係のもつれという方がよっぽど受け入れやすい」

「彼女との間にトラブルなんてなかった」

「君との間にはね。彼女について君が全てを知っているわけじゃないだろう」

 確かにそうだ。裕子が環境運動に加わっていることを僕は知らなかった。彼女の友人が示唆したように、僕の他に付きあっている男がいるかもしれない。

「しかし、僕が知ってる程度のことしか、誰も知ってはいないとしたら、最も疑われるのは僕だろう」

「彼女との間はどうだったんだ」

「どうって、普通だったよ。お互いに気に入っていたと思うけど」

「彼女は他の誰かのことを言わなかったか。言い寄ってきているような男のことを」

「そんなことは聞かなかった」

 海水浴場になっている浜辺を通ったとき、僕は木村に車を止めさせた。波があるので遊泳禁止の赤い旗が立っている。浜辺には未練たらしい数人のグループが立ち去りかねてうろついている他は誰もいない。

 僕は白く波頭が立っている海を見ながら言った。

「通り魔の犯行だってことも考えられる」

「ありえるな」

「どっちにしろ、僕らの証言は大して役に立たない。僕らが目撃者だということは、かえって捜査を混乱させるだろう」

「警察には行きたくないのか」

「わざわざこちらから出向くことはない」

「でも、届け出なかったことは隠したと取られるんじゃないか」

「黙ってれば分からないさ」

「君がそれでいいなら僕は別にかまわないけど」

 僕が自分の安全にこだわっているうちに、事件は僕の傍を素通りしてしまった。僕が裕子と付きあっていることは少数の人間しか知らないけれど、警察やマスコミは誰かから聞き出してはいるはずだ。多少の興味は示すべきなのに、誰も僕には注目していない。

 だがそうなると、僕としても不満を持ち始める。疑惑の対象とされないのはありがたいけれど、全く無視されるのは腹立たしい。何と言っても僕は裕子の恋人だったのだ(恋人の一人かもしれないが)。法的な権利とか慣習上の役割といったものはないかもしれないけれど、僕にだって全くの他人とは区別される特権らしきものが認められてもいいのではないか。

 だが、裕子の死体が見つかってから六日たって新聞に出た記事で、僕が相手にされない理由が分かった。事件は複雑怪奇な様相を呈してきた。記事の見出しはこうだった。

「殺された女子大生はスパイ?」

 記事によると、裕子は公安調査庁の地方事務所に雇われて、環境運動の情報収集活動を行っていたというのだ。彼女が「環境運動の参加者名、活動内容などを報告、報酬を受け取っていた」と事務所職員が証言しており、環境運動の責任者は「そんな事実はない」「信じられない」と否定しているが、「このことで何らかのトラブルに巻き込まれた可能性がある」ので「警察は殺人事件との関連を調べている」。

 一体どういうことなのだ。裕子がスパイだったって。そのために殺されたかもしれないって。僕の知っている裕子のことなのだろうか。

 とにかく情報が欲しかった。

 環境運動のグループの事務所に行ってみたが、閉まっていた。警察へ行こうかとも考えた。しかし、被害者の恋人というだけでは捜査の進展状況の説明を要求できはしないだろう。それに、例の人影の問題もある。いまさら持ち出すには、時機を失してしまっていた。

 本来なら裕子と旅行するつもりだったはずの夏期休暇をとった。僕は母親の原付自転車を借りて松尾の船が泊めてある漁港へ出かけた。いくら海が好きだからといって、一人で過ごす時間は長い。日陰を探し、座り込み、時おり缶ビールを飲みながら小さな港を眺める。

 することが何もないので、裕子のことを思う。スパイの恋人を殺された男というのはどんな振舞いをすればいいのか。

 三日目に松尾が現われた。彼は僕の存在に気づかないか、あるいは気づかない振りをしてボートへ乗ろうとした。

「君を待ってたんだ」

 返事なし。

「事務所にも行ったんだ」

 返事なし。

「何を警戒してるんだ。僕は警察やマスコミとは違うぞ」

 返事なし。

「お願いだ、教えてくれ、裕子をあんな泥まみれのままにしておけない。何か事情があったはずだ」

 松尾は相変わらず黙ったままだったが、拒絶の態度は消えていた。彼は迷ってる、しかし僕を受け入れる方に傾きつつある。

「今度のことでは、運動自体が誤解されかねないので、我々は大変迷惑している」

「彼女がスパイだったのは本当なのか」

「あんたは吉井さんの恋人だったんだから、吉井さんがどんな人かよく知っているはずだろう」

「あいにくと、僕は彼女が君たちと活動していたことさえ知らなかったんだ」

 松尾は何か言おうとしてやめた。僕が恋人として不適格であると言うつもりだったのだろう。僕にも言い分はあるが、そんなことを話し合うために会いにきたのではない。

「君の言い方は、彼女がスパイであることを否定するものではないな。本当のところはどうなんだ、裕子はスパイだったのか、それが彼女が殺されたことと関係があるのか」

「たとえ吉井さんがそういう行為をしていたとしても、そのことが今度の事件と我々の活動を結び付けることにはならない」

「そんなことを聞いてはいない。君たちの運動を守ることと、真相を解明することとどっちが大事なんだ」

「真相とは何だ。事件については、報道された以上のことを我々が知っているわけではない」

「新聞の報道では、警察は環境運動関係者を疑っているようだ。裕子との間に何かトラブルがあったのか」

「警察は我々に濡れ衣を着せて、運動の評判を落とそうとしているんだ」

「濡れ衣と言い切れるのか。君らが、彼女がスパイであることを知ったら、何もせずにはおくまい」

「我々は誰に対しても危害を加えたりはしない。もしスパイ活動のようなものがなされていたなら、原発側の卑劣さを糾弾する重要な証人じゃないか」

「不測の事態ということもある」

「それを言うなら、警察や原発側を疑う事も出来る」

「疑ってはいないのか」

「疑うという事は、吉井さんがスパイであると認める事だ」

「君が裕子の事を聞きに来たのは、裕子にスパイの疑いがあったからではないのか。裕子が君たちから逃げ出したと思ったのではないか。あの被曝したという男を連れて」

「あの男と今度の事件とは結びつかない。あいつはくわせ者だった。冷却水漏れの事故なんてなかった。あいつは酒の上のケンカがもとで飯場を出された。その腹いせもあって、我々に近づき、いい加減な話を持ち込んだ。むろん金目当てだ」

「行方不明になったのは」

「逃げたんだ」

「裕子の事件との関係は」

「偶然さ。時間的に重なっただけだ」

「どうして分かったんだ」       

「何が」

「その男の情報がにせものだってことがどうして分かったんだ」

「我々が裏づけのないあやふやな情報を、何の疑いもなく取り上げると思うか。情報提供者はたくさんいる。原発の中にもね。あいつの言うことを調べていったら、でたらめばっかりだった」

「またもや混乱だ。考えさせてくれ。整理してみよう。そもそもの始まりは、冷却水漏れの話をその男が持ち込んだことだな。君らはその男をかくまった。次に、裕子とその男がいなくなり、君らは行方を捜した。しかし、裕子の死体が発見されて、彼女がとっくに殺されていたことが分かる。そして、君らは消えた男の情報がガセネタだったことを知る。最後に、裕子がスパイだという情報が流される。順序はこれでいいのだな」

「そうだ」

「この順序なら君らは全て後から知ったことになり、潔白なわけか。だが、順序が違っていたらどうだ。君らは裕子が死ぬ前に彼女がスパイだという情報を得る。あるいは、あの男がいなくなる前に持ち込んだ情報が嘘だと知る。その両方かもしれない。当然君らは糾弾する。そして二人は消える」

「馬鹿なことを言うな。二人の失踪に我々が絡んでいたら、その行方を捜したりするものか」

「裕子の行方を僕に聞きに来たとき、君は彼女が自発的に姿を隠したような言い方をしていた。彼女が姿を消さねばならない事情があると知っていたからだ」

「そんなことは言っていない」

「言ったさ。僕は覚えている」

 松尾は迷った。彼は本来的に誠実なのだ。政治向きの人間ではない。

「実は、君を訪ねたのは僕個人としての行動だったのだ。冷却水漏れの一件を調べているうちに、こちらの情報を原発側が知っているらしいことが分かってきた。誰かが通報している疑いが出てきた。僕は吉井さんの行動に不審な点があることに気づいていた。そのことは誰にも言わなかったが、心配だった。だから一人で吉井さんの行方を捜そうとした。僕に何か出来るのではないかと思って」

「君は彼女に特別な感情を抱いていたようだな」

「友達のことを心配するのは当然だ。変ないいがかりはよしてくれ」

「僕はどうでもいいが‥‥‥。彼女といなくなった男とは接触があったのか」

「アパートを借りてやって、吉井さんが連絡に行ってた。あいつは逃げるときにテレビまで持って行きやがった」

「その男が彼女を殺したのじゃないか」

「なんで」

「彼女はその情報がいんちきだということに気づいたかもしれない。あるいはもっと単純に、乱暴されたかだ」

「あんたの表現は第三者的だな。本当に吉井さんの恋人だったのかい」

「僕はそう思ってた」

「殺人現場には車でないと行けない。あいつは運転免許は持っていなかった」

「死体の発見場所が殺人現場とは限るまい」

「じゃ、なおさらだ。死体を担いでどうやってあそこへ行ける」

「ボートはどうだ。海から」

「車よりも非現実的だ」

 依然として真相には近づけないが、たとえかすかなものでも手掛かりはつかんでおくべきだ。あと二日残っている休暇を事件の究明のために有効に使えないだろうか。

 僕は松尾に協力を依頼した。

 駅を降りたとたん、僕は全く未知の環境の中にいた。

 僕らの住んでる地方都市には大都市にありそうなものは何でもあった。もちろん矮小化された形ではあるけれど。ビルも地下街もターミナルの百貨店も繁華街のしゃれた店も盛り場も。高速道路や地下鉄だってもうすぐ出来るだろう。

 だが、僕らの住んでいるのは本当の都市ではない。僕らの街にはスラムを生じさせ維持していく能力はない。都市の魔力とは、多くの人間を養う力だ。都市は人を引きつけ、そして裏切る。たとえ、金でしか身を任さないと気づいても、人々はこの性悪女にしがみつく。

 街自体は思ったほど汚くはなかった。建物などは比較的新しいものが多い。横丁に入ると、溝に空きビンや空き缶が投げ捨てられ、小便の臭いがする場所もある。人通りは結構あるのだがにぎやかな感じはしない。目につくのは中年の男たちばかりで、若者、女、子供がいないのだ。

 後で知ったのだが、長びく不況のせいで街は往年の精彩を失っていた。かっては、元気な者たちは仕事にでかけ、昼間街に残っているのはアブレた連中だった。しかし、今では仕事はめったになく、住民たちも年を取り、昼も夜も路上にいるしかない人間が多くなっている。

 セツルメントには松尾が電話をかけてくれていた。本来の目的は隠し、被曝問題の証人を見つけ出したいということにして。電話では簡単に訪問を受け入れてくれたとのことなので、彼等特有のノウハウがあるかと期待していたのだが、探し当てたセツルメントにいた男たちは、僕らの企てには懐疑的だった。この地区にいる二万人の労働者の中から、名前だけを頼りに一人を見つけ出そうとするなんて無理な話だ。しかも、その名前が偽名でないとはいえないではないか。

 彼等はこの街の構造というべきものを親切に教えてくれた。日雇の肉体労働に従事する労働者。彼等から賃金をピンハネする手配師。下請け、孫請けと積み重なった建築業者。労働者たちの寝泊りするドヤ。アブレ(失業)にアオカン(野宿)、そして最近はホームレス。不況と高齢のため、ボランティアの支給する粗末な食事で生きている大勢の人間。失業手当や生活保護などの行政施策。したがって、ここで人を捜すポイントとしては、ドヤ、飯場、寄場、職安、警察、福祉事務所、施設、シェルター、病院そして路上。

 僕は地域の略図を持たされてセツルメントを出た。入ったときには持っていたあいまいな期待は奪われて。僕は観光客のように地図に示された建物や公園をめぐった。バブルの頃に建てられ、既に荒廃の気配を見せているホテル。無味乾燥さをあえて強調しているようなコンクリートの公共建築物。便所とベンチとテレビしかない、土が潤いを感じさせずそこだけ地面がむき出されたという印象を与える公園。寄場は吹き抜けのだだっ広い建物で、行き場のない人々が大勢寝転んでいた。         

 僕はひどく疲労を感じた。裕子の殺人事件は僕にとって一種の興奮剤のような作用をし、駆り立てられるようにここまで来たのだけれど、どうやらもう限界のようだ。

 帰ろう。

 僕は木村を呼出した。

 木村の運転する車の中で裕子の事件を話題にした。木村は僕から新しいことは聞き出せはしないと思っていたに違いないのだが、僕は彼を驚かせることができた。

「君はあの日のことは覚えているね」

「もちろん」

「砂丘へ行ったとき、ちょっと変わったことがあっただろう」

「あの人影を見たことだろう」

「そうではなくて、砂丘へ着く前にだ」

「何かあったかな」

「誰かに会っただろう」

 木村は考えた。

「誰にも会わなかったはずだ」

「忘れたのかい。バイクに追い越されただろう」

「ああ、あのことか」

「考えてみたのさ。あいつはあの辺りをうろついていた。だから、ひょっとして犯人を見かけはしなかったかとね」

「しかし、僕らが砂丘に行ったとき、犯人たちは既に来ていたじゃないか」

「あのバイク野郎は、僕らに会う前に彼等と会っているかもしれない。あるいは僕らより後に帰ったであろう犯人たちを見たかもしれない」

「もしそうなら、警察へ届けて出ているはずだ」

「彼等は警察を嫌っているからね。積極的に協力はしまい。それに、彼には犯人が誰だか分からなかったのだろう。しかし、彼の見たことを教えてもらえば、僕らには分かるかもしれない」

「かも知れないって、みんな仮定の話か」

「そう、しかし、彼を探しだせばはっきりする」

「探しだすって、どうするんだ。ヘルメットとかジャンパーとかバイクなんかじゃ区別はつくまい」

「確かに難しい。だから考えた。バイク野郎たちは、気紛れに乗り回しているようでも、いくつかの決まったコースというものがあるに違いない。毎回違ったところを走ろうと思えば、考えなくちゃならない。気分まかせなら、かえって同じコースを選びがちになるだろう」

「そうかな」

「僕は砂丘の近くの道路に毎晩行ってみた」

「ご苦労なことだ。それでどうだった」

「探し出したよ」

「何か分かったかい」

「大したことは分からなかった」

「やっぱり」

「しかし、犯人が誰かを知るにはそれだけで十分だったよ。あのライダーは、あの夜、プレートナンバーが1111の車と会ったことをはっきりと覚えていた。しかも一度じゃなくて二度。なぜ君はもう一度あそこに行ったのだろう。考えているうちに気がついたのさ。僕らが死体を埋めている人影を見たということは、僕の無実を証明すると同時に、君の潔白をも保障しているということを。逆に言えば、あの夜、怪しい人影を見たということを利用できるのは、君か僕しかいないわけだ。あの人影は事件とは関係なかった。君は裕子を殺し、死体をあの場所に埋め、僕を欺き、皆を騙そうとした」

  木村は車を路肩に停めた。

「じゃあ、あの人影は何だったんだ」

「君の言った通り、何かを捨てに来たんだろう。それを君は後でとっさに利用した。どうせ後ろめたいことをしているのだから、何があっても黙っているだろうと思って。だが、もし、僕が警察に届け出て報道されれば、誰かが名乗り出てくるかもしれない。だから僕が警察へ行くのを勧めなかった」

「警察に知らせようが、あそこにいた連中が名乗り出てこようが、そんなことは平気だった。どうせ疑われるのはお前だ」

「どうして裕子を殺したんだ」

「どうして、だって?分からなかったか。僕はあいつが好きだったんだ。お前に隠れてあいつと会っていた。あいつはそんな関係を面白がっていた。ところが、あいつは急に冷たくなった。僕が退屈だと言いやがった。あの夜、お前と分かれた後、あいつの家へ行ってみたら、あいつが帰って来るのと出会った。僕はあいつに別れないでくれと頼んだ。独占するつもりはない、つきあう男たちの一人でいいから会ってくれるように頼んだ。するとあいつは笑いやがったんだ。僕が卑屈だと笑いやがったんだ」

「そんなことで殺したのか」

「そんなことだって。お前に分かるのか。お前は女を本当に好きになったことがあるか。裕子が死んだって少しも悲しまなかったじゃないか。おまえがやっきになったのは、裕子が全てをお前に話していなかったことで自尊心が傷つけられたからだけだ」

「僕には君の気持ちが分からないと言いながら、君には僕の気持ちが分かるのか」

「分かるとも。お前のような単純な心なんて、誰にでも見透せる」

「僕のことをそんなふうに見ていたのか」

「降りろ」

「どうするつもりだ」

「さっさと車から降りろ。さもないと一緒に海に突っ込むぞ」

 僕は車を降りた。木村は車を急発進させ、音を立ててカーブを曲がった。

 僕は街まで歩いて帰った。通り過ぎる車はどれも乗せてくれる気配はなかった。海はずっと僕の左手にあり、いつまでも同じ表情のままだった。

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