井本喬作品集

フロイトの復活?

 かつてもてはやされた考え方が後に見捨てられるということはよくあることで、後知恵ではあるけれども当時その欠陥になぜ気がつかなかったのか不思議に思えてしまう。しかし、後から来た人が以前の人より賢いということはないのであって、要は証拠の揃え方なのだろう。だから、さらに後から来た人が否定された考えを再評価することもあり、そうなると今度はそれほど重要なことをなぜ安易に否定してしまったのかと不思議がることになる。私見だが、経済思想(経済学とは言わない)ではケインズについてそういうことが起こっているようである。

 フロイトについてもそうなのであろうか。私自身もフロイトに熱狂した時期があったが、後に精神医学の領域では反フロイトの傾向が主流になったのを知ったこともあって、精神分析の効力やフロイト理論の濫用にいかがわしさ感じるようになっていた。しかし、最近読んだ『脳のなかの幽霊』(V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー、1998年、山下篤子訳、角川書店、1999年、文庫本2011年)には次のような文章がある。

  五年前にこの研究をはじめたとき、私はジークムント・フロイトにはまるで関心がなかった(私は否認をしていたのだとフロイトは言うかもしれない)。それにたいていの神経科医と同様に、彼の諸説にきわめて懐疑的だった。フロイトに対しては、神経学界全体が深い猜疑心をもっている。彼が喧伝した人間の本性のとらえどころのない局面は、もっともらしく聞こえるが、実験的な検証ができないからだ。しかし私はこうした患者の研究をして以来、たとえフロイトが無意味なことをたくさん書いたとしても、彼が天才だったことは否定できないと思うようになった。(文庫本244ページ)。

  フロイト攻撃は今日では知的な娯楽として好まれている(もっともニューヨークやロンドンにはまだ彼のファンはいる)。しかし本章でみてきたように、彼は人間の状況について価値ある洞察力をもっていたし、心理的防衛に関しては、それらが進化した理由やその神経機構についてはまったく不明だったとはいえ、正鵠を射ていた。(文庫本250-1ページ)

 フロイト攻撃の一例として、『フロイト先生のウソ』(ロルフ・デーゲン、2000年、赤根洋子訳、文藝春秋、2003年)を取り上げてみよう。『フロイト先生のウソ』にしても、人間行動において意識の占める役割が部分的なものだということは認めているのだが、意識以外の領域をフロイト流の無意識とはみなさず、脳ないし理性の自律的な過程(「意識の受け入れ能力を超える仕事を淡々と機械的にこなす補助コンピュターのようなもの」)としている。防衛機制も認めない。意識が意識以外の部分のしていることとは違ったことを言っていても、それは嘘をついているのではなく、意識が知らないからだ。もし意識が知らない真実を非意識部分が知っているとしても、両者に対話がなければ、そこに虚偽の入りようがない。自己欺瞞ということは認めるが、それは事実についての自分勝手な解釈とみなせる。意識は騙されやすいし、自分の都合のいいように解釈しがちなバイアスを持っている。意識が他者から見て虚偽の信念を抱くことがあっても、無意識の作用というものを媒介させる必要はない。

 一方、『脳のなかの幽霊』は、フロイト理論の細かい点についての批判は認めるが、(無意識と呼ぶかどうかは別にして)意識には上らない精神の働きがあるという点で、大筋においてフロイトの考えを評価する。『脳のなかの幽霊』と『フロイト先生のウソ』はフロイト評価において裏表のような関係になっているように思える。なぜそのような違いが生じるのか。『脳のなかの幽霊、ふたたび』(V・S・ラマチャンドラン、2003年、山下篤子訳、角川書店、2005年、文庫本2011年)を読むと理解できてくる。ラマチャンドランは意識を単なる随伴現象とみなす考え(主流派?)に反対しているのだ。

 嘘をついていながらそれが嘘ではないと信じているなどということは論理的に矛盾している。明らかな事実を認めずにそれとは違ったことを言い張っても、その人が心から信じているならば嘘とはいえまい。明白な証拠も信念を変更させることができないのはよくあることなのだから。意識が偽りとは知らずにある信念を抱き、非意識的部分が真実を知っているということは争点ではない(両方とも認めている)。フロイトは無意識が意識に影響を与えるという仮説によって、偽りの信念と真実とを結合させようとした。ラマチャンドランが評価する点はそこなのだ。だから、問題は単に私たちが虚偽と真実の両方を同時に持ちうるかということではなく、そこに何らかの結びつきがあるかどうかなのである。

 『脳のなかの幽霊』に叙述された事例はいずれも私にとって驚異だったが、ここで特に取り上げたいのは病態失認という症例である。脳の右半球に損傷を受けた人において、左半身が麻痺している事実を無視したり否認することがあるというものである。彼らは嘘を言っているのではなく、そう信じているのだ。これだけでも驚くべきことだが、さらに驚かされるのは、そういう症状の被験者の左耳に冷水を注ぎ入れると麻痺を認めることである。その効果が薄れてしまうともとに戻って麻痺を否定するようになり、冷水を注いだときに麻痺を認めたことをも否定してしまう。

 自我が他人にとっては明らかな事実を歪曲するというのは程度の差はあってもありふれたことであり、歪曲ではなく事実であると自我が信じることも珍しいことではない。だが、同じ人の中に違った事実を認める自我が一時的にせよ現れるというのはどう理解したらよいのであろうか。二重人格であるか、隠されていたもう一つの自我が現れたのであろうか。

 ラマチャンドランの解釈をはしょって言うと、左脳は「自己の統一と安定性」にたずさわり、右脳は「現状に疑問をなげかけ、全体的な不整合をさがす」という半球特異性がこの症状の根底にある。左脳はその「信念体系」を保持するために多少の矛盾には目をつぶろうとするが、矛盾があまりに大きくなると右脳が干渉して「信念体系」の組み換えが行われる。右脳が損傷を受けると、左脳は右脳の拘束を離れて極端なまでの現状無視さえ行うようになってしまう。これが病態失認である。左耳に冷水を入れると右脳が活性化されて麻痺という現実を受け入れるようにうながすので、病態失認が消える。しかし、その効果がなくなるともとへ戻ってしまう。

 脳の機能が局在しているということは、意識もまたそれらからの情報を集めて何らかの統一を形成することになるのだろう。つまり、意識というのは脳内の様々な機能(むろん身体全体に結びついている)のバランスの一つであり、どこかの機能がおかしくなるとその影響で通常とは異なった現象が意識に現れる。機能の異常が損傷の部位に対応していれば、普段は他の部分との協調の中に隠れてしまっていたその部位の役割が推察できることもある。フロイトが無意識と呼んだのは、意識を支え意識に影響を与えているそのような機能の総体のことと解釈できる。

 むろん機能の異常が常に意識に現れるとは限らない。意識に与えられる情報は選択的なものであって、意識は他の部分が知らせようとしたことだけしか知っていない。つまり、意識は自己の総体の一部分でしかない(ただし、切り離され孤立しているわけではなく、総体の機能の一つであるのだろう)。だとすれば、精神症状の原因は意識の中にではなく総体に求めねばならないことになる。それこそがフロイトの目指したことではないか。ただ、総体の非意識部分(フロイトの無意識)に達するためにはフロイトは意識に頼るしかなかった。他に通路が見当たらなかったからである。ヘタなたとえで言えば(比喩については別稿で取り上げよう)、フロイトはマイクではなくスピーカーに話しかけていたのだ。フロイトの療法が無力だったのは当然ではあった。

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