井本喬作品集

現代を生きる知恵

 宮台真司の主張は私には好ましい。特に彼の言説を追っかけているわけではないので詳しいことは言えないが、彼が反対するものに対して私も反対であるからである。

 この前たまたま彼の『まぼろしの郊外』(朝日新聞社、1997年)というちょっと古い本(もう15年もたっているのだ)を読み、気になったのでついでに『終りなき日常を生きろ』(筑摩書房、1995年)も読んでみた。気になったのは例えば次のような文章に表明されている考えである(以下引用は『終りなき日常を生きろ』から)。

  テレクラやブルセラショップやデートクラブの周辺に集うたくさんの女の子たちを取材してきているうちに、ある種の「すがすがしさ」を感じるようになった。(中略)「何かを諦める」ことと「諦めるべきものを初めから知らない」こととの間に横たわる大きな差異にだんだんと気がつくにつれて、「何も諦めていない」彼女たちに親しみを感じるようになってきたのだ。(132ページ)

 これは、「無知」な農民の「無垢」さに憧れるという知識人の月並みな心情と同じようなものではないだろうか。宮台自身もそのことを意識していて次のように言う。「振り返ってみれば、『まったり生きる』連中たちの『輝かしさへと疎外されない』がゆえに『輝かしさからも疎外されない』生き方は、かつての農村共同体の中では当り前のものだった」(168ページ)。彼らが「無知」でなくなったとき、自身の立場を自覚するようになったとき、つまり自分と対等な人間になってしまったとき、知識人は裏切られたような気がするのである。むろん、宮台は読者や反対者に衝撃を与えるためのアンチテーゼとして使っているのではあるが、そのための理想化によって切り捨てた部分はあるはずだ。

 宮台は日本の状況を「良心-(倫理+道徳)=?」(67ページ)と定式化している。宮台は倫理を一神教による心的規制、道徳を共同体規制とみなす(そもそも、この定式における良心とは何を意味するのかについても問わねばならないのだが、長くなるので省略する)。日本には一神教はないからもともと倫理は存在せず、共同体の崩壊によって道徳も消失した。倫理も道徳もない社会で良心は働きかける対象をもとめてさまよい、オームに帰着するようなことにもなった。

 しかし、一神教が人間行動に質的な違いを生みだすというのは怪しげな主張でしかない。そもそもキリスト教が一神教であるかどうかが疑わしい。カトリックはマリア信仰や聖人信仰などで多神教化している。プロテスタントが多数の宗派に分裂しているのは、神の像が分裂しているとも考えられる。一神教について言うなら、少なくともイスラム教徒の行動様式について触れなければ普遍性を持たせられないであろう。

 キリスト教の神が信者に規範を守らせるにしても、最後の審判において損得の帳尻を合わせるという約束によってでしかない(仏教徒の地獄極楽と大差ない)。共同体の規制と同じように、罰と報酬による操作なのだ。違いは、神には隠し通せないことと、たとえ現世では善行の損失が上回っていても、来世では必ず埋め合わされるということだけだ。しかし、そういうキリスト教の神の保証は、日本と西欧で、例えば犯罪率の質的な差を生じさせているだろうか(むしろ日本の方が低いのではないか)。

 つまり、倫理と道徳を一神教との関係で違うものとして扱う根拠などないのだ。特定の倫理ないし道徳の消失というのは村落共同体崩壊に伴う普遍的(世界的)現象であり、一方、社会には倫理ないし道徳が必ず伴うものだとしたら、社会にとってその消失などはありえず、ただ新しい形態に変化するだけではないのか。だとすれば、新しい倫理ないし道徳形態に適応できるかどうかが問題となる。宮台は「まったり」と生きる少女たちに適応の型を見出したわけだ。

 宮台は、社会の変化の要因として、一過性の戦後民主主義がもたらした撹乱、メディアを通じた理想としてのアメリカ家庭像の影響、豊かさのもたらした「幻想の相対化」、複雑化した社会の不透明性などもあげているが、要は評価軸が不確かになったために何を当てにしていいのか分からない中で、生き方に迷い不満をつのらせている人々がオームのような幻想に取り込まれてしまう危険があるということだろう。

 そのような危険を解毒しうるものとして提示されるのが少女たちの「まったり」とした生き方なのである。宮台はコミュニケーション・スキルを高めることがこのような生き方に通じると言う。コミュニケーション・スキルというのがよく分からなかったのだが、「私たちに必要なのは、『終わらない日常を生きる』知恵だ。『終わらない日常のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵』だ」(113ページ)という文章を読んで、取引の手腕のようなものだろうと思いついた。「何が良きことなのか分からない」とは価値の多様性のことであり、「漠然とした良心」とはそれを容認することである。つまり、価値観の異なった者を相手にして、対立するのではなく共生するのである。価値観の違いからお互いに利益を生み出すことこそ取引である。

 そう考えると、ただちに交換論に導かれる。意識的な人間行動は全て交換によって説明が可能である。商取引だけではなく、付き合いや恋愛や支配服従などの人間関係も資源の交換であるという解釈が可能である。そこでの行動原理は、経済学における「経済人」と同じように、自己の効用を最大にするというものである。ただし、交換論は人間行動の説明(事実の陳述)であり、当為を述べているものではない。事実として効用を最大にするように個人が行動しているというなら、女の子たちの「まったり」した生き方も、ボランティアに生きがいを見いだすのも、革命幻想に浸るのも、みな同じとみなせるのであり、他人に危害を加えない限り行動様式としては等価ということになる。だから、「まったり」した生き方が当為になることはない。しかし、宮台は「まったり」した生き方に他とは異なる特性を見出しているようである。それは何だろうか。

 行動にはコストがかかる。大きなコストがかかっても成果が大きければ見合う。ただし、コストをかけてから成果を得るまでに時間がかかる場合がある。大きな成果を得ようとするとそうなることが多い(迂回生産)。そういう場合には待つ我慢が必要となる。また将来の成果は確実性が低くなるので、リスクがストレスを生むことになる。「まったり」とした生き方はそういうものになじまないであろう。そういうことを避けるためには、できるだけ短期に、つまり確実に手に入る成果を目指すべきであり、そういう成果は小さなものになりがちであるが、それで満足すべきである。即座の満足、すなわち刹那的に生きること。それが宮台の推奨する生き方ではないだろうか。

 変化が激しくて将来の見通しが立てにくいとき、長期の投資をするのは賢いやり方ではないように思える。しかし、リスクが大きければ期待される成果も大きい。リスク回避とリスク選好のどちらを選ぶかは、人の好みである。好みに当為は持ち込みにくい。もう一つの見方として、人間が将来の成果を評価する割引率には、短期の方が有利であるようにバイアスがかかっているらしい。はるか昔の環境ではあやふやな将来に賭けるよりも手近にある確実な成果を得る方が適応的であったようだ。そのようなバイアスを現在の環境に合わせて訂正するのは知的な作業が必要だ。その作業のコストが高く感じれば、刹那的な行動が好まれるだろう。私が宮台の解決法に懸念を抱くのはこの点なのである。宮台自身も『終りなき日常を生きろ』のあとがきで、次のように言っているではないか。

 もちろん、そうした分析にはコストがかかる上に、出てくる結論も、個別ケースに適用できるだけの相対的なものにすぎない。しかしそのような「分析コスト」と「評価の相対性」に耐えることなくしては、社会システムであれ、人格システムであれ、複雑な環境を生きのびることはできない。低い分析コストや結果の明瞭さに惹かれる気持ちはよく分かるが、それは「複雑な社会を生き抜く知恵」としては最低である。(183ページ)

 ところで、社会と個人の関係という文脈からは、宮台の主張を次のように言いかえることができよう。村落共同体的な社会から市場化した社会への変化に伴い、個人は共同体的な保護と規制から解き放たれ(見棄てられ)、自らの判断で行動することを強いられる。その行動の成果は個人に属するけれども、成果が不十分であることも個人の責任として引き受けなければならない。共同体による支援(再分配など)は期待してはならない。そのような世界で生き抜くには、個人を越えるような幻想を抱かずに、個人的な関心にのみ集中するのがコツである。

 どの分野でも自由に交換が行われるべきであり、その成果が個人に属することを妨げるべきではないという主張については、リバータリアンのそれがよく知られている。彼らは国家や共同体の規制に反対し、再分配を成果の横取りとみなして反対する。宮台の主張もこの流れに乗っていると考えるべきだろうか。サッチャーは「社会というようなものはない。あるのは家族と個人だけだ」と言ったそうだが、家族さえもないものと思って個人に徹するのが「まったり」とした生き方ならば、究極のリバータリアンとも言えそうである。もっとも「まったり」派は政治には興味はないだろう。与えられた環境の中で最善を尽くすのみだろう。「まったり」した生き方も、市場化の時代の一適応形態でしかなく、社会よりも素早く彼女たちは変化を先取りするのだろう。

 宮台は『まぼろしの郊外』のあとがきで、やや態度を修正して次のように言う。『終りなき日常を生きろ』がオーム事件に対応するものであったため、「幻想に身をゆだねて『強度を獲得する』こと自体を批判している」と誤解された。しかし、「すべての人が光や音のリズムに身を委ねながら『まったり』生きることなど到底不可能であるから」、幻想一般を批判するのではなく、「共生を阻害する有害な幻想をフィルタリングする作業が必要となる」。宮台の言うように「有害な幻想」と「無害な幻想」を事前にフィルタリングできるのか疑問に思えるが、また、「有益な」幻想もあるのではないかとも思うのだが、少なくとも「幻想に身を委ねる」ことは多くの人にとってやむを得ないことであるというところまでは宮台は後退したのだろう。つまり、「まったり」生きることが必ずしも解決策とはならず、そうできるのはむしろ少数派であるということを宮台は認めているようである。

 私としては、「まったり」と生きるのでもなく、「幻想に身を委ねる」のでもなく、いかに不透明な時代であっても、未来に賭けて長期的な投資をするという生き方もあると思う。それもまた幻想にすぎないのかもしれないが、人間は本来そういう風にできているのであり、そういう生き方につきもののストレスに耐えていくしかないのである。

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