現在・過去・未来
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カーネギーの『人を動かす』という本を読もうと、近隣の三つほどの図書館の蔵書検索をしてみたら、いずれも貸出中だった。なかには予約が四つも入っているのがあった。こんな古い本が、しかも翻訳書が、いまだに読み継がれているのには驚く(書店の棚にも並んでいる)。
その本を読もうと思ったのは、同じ著者の『道は開ける』(新島洋訳、創元社、1959年)という本をたまたま手に入れて読んだのがきっかけだ。カーネギーの著書については知っていたのだが、私は長い間その著者を、カーネギー・ホールなどに名を残しているアンドルー・カーネギーだと思い込んでいた。著者のデール・カーネギーは鉄鋼王とは何の関係もないらしい。
私は自己啓発本を馬鹿にしているので、この本(『道は開ける』)もどうせ大したことはあるまいとタカをくくって読んだ。しかし、さすがに広く読まれているだけのことはあって、急所をついてくる。いろいろ内容はあるが、悩むことについての処方が興味深いので、取り上げてみる。
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くよくよ悩むのはなぜだろうか。一つは過去に起きたことが現在に影響しているからである。もう一つは、未来の見通しがはかばかしくないからである。それに対して、過去や未来について悩むな、現在に専心せよ、とカーネギーは言う。
過去は変えることが出来ず、それについてあれこれ悩んでも何の益もない。このこと自体は、「覆水盆に返らず」「こぼれたミルク云々」など、古くからよく承知されていたことである。いつの時代にも後悔は私たちを悩ませていた。そして、それから逃れる方法も変わっていない。後悔は無用だと言い聞かせることだ。実用的には確かにそうなのだが、では、なぜ私たちは過去を悔やむのだろうか。そのことについてカーネギーは人間が感情的存在であるからだと言っている。後悔とは感情的反応であるから起こることは防げないが、理性的判断でこだわりから脱けだすようにすればいい、というのである。
カーネギーはそこで止まってしまっているが、さらに問えば、では、なぜそのような感情的反応が起こるのか。私は遺伝的進化論を信奉しているから、広い意味での機能主義者である。機能主義者の信条は、現に存在するものは何らかの理由があるから存在している、というものだ。もっと限定して言えば、何かの役に立っているはずだ。そのものがその形成者や利用者に害を及ぼすか、あるいは害にはならないとしてもそれの形成や維持にコストがかかるのであれば、進化はそういうものの存在を許すことはないはずである。それでもそういうものが現にあるなら、私たちには見えない利益享受者がいると推察せざるを得ない。
過去の出来事自体が私たちにはどうしようもなかったのであるならば、人は悩むことはない。人が後悔するのは、その時に手を打てば事態が変わっていたと思えるからである。だから、自然災害でさえ後悔の対象となる。地震が起こったことに関しては確かにどうしようもないことである。ただし、その時に崩壊したり燃えたりする建物の中いたことや、津波の襲う場所に留まっていたことなどは、そうでなかった場合がありえることなのだ。死んだ者自身は後悔できない。しかし、近親者や知人をそういう状況から救えなかったことは、生き残った者たちを後悔させる。
同じような状況に遭遇した時、前とは違った行動をさせることによって、状況を改善することに寄与するのであれば、後悔は役に立つ。それは単に過去が現在を規制するだけではなく、将来が現在を規制するのでもある。人は将来後悔しないようにすることを、現在の行動の決定の条件の一つにしている。では、後悔が有用であるのなら、なぜ私たちはそれをやっかいもの扱いするのだろう。
それは後悔自体が苦しみであるからだ。私たちは失敗したときなど、その失敗の結果に苦しむ上に、さらに後悔によって苦しめられるのである。なぜ後悔は知的反省として単なる認識であってはいけないのか。それで以後の行動を変えるのに十分ではないか。
知的認識だけでは行動の動機とはならないことを遺伝子は承知していた。後悔は肉体的痛みと同じなのだ。傷害などで痛みを感じるからこそ、人は身体保全に気を配る。痛みが単なる認知的信号でしかなかったなら、人はそれをあまり重視することはないであろうから、身体の保全がおろそかになってしまうだろう。痛みと同じように、主体をさいなむからこそ、後悔は効果を持つ。痛みの代わりの信号のように、単に理性的にマニュアル化するだけであるなら、主体は後悔の原因を避けることにあまり力を注がないであろう。
しかし、不必要な痛みがあるように、不必要な後悔もある。鎮痛剤で痛みを抑えるように、後悔から逃れる何らかの方法が必要とされることがあるのだ。
過去は変えることができないとしても、変える可能性があったということまで否定してしまうと行き過ぎになるであろう。そのときそうなしえなかったことは、状況がどう違っていたとしてもなしえなかったことであると諦めることは、運命を信じることになる。運命には逆らえぬという諦念からは、未来の行動の変化は生まれないであろうから。
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では、未来についてはどうか。未来を完全に予測することは出来ない。何が起こるかは、起きてみなければ分からない。歌にもあるように「なるようになる、先のことなど分からない」のだ。だとすれば、事前に悩んでみても仕方がない。起こったその時に対処するしかない。あるいは、将来起こることが決定的であり、それについて何ごともなしえないとしたら、私たちはそれについて悩むことはしないだろう。ただ、そのことを前提として行動するだけである。
しかしながら、将来は不確定であっても何らかの程度の見通しは立つのであり、その見通しの中には現在への働きかけの効果も含まれている。私たちの行動の大部分は未来の予測に基づいて実行される。その動向によって自分の状況が左右されるということが、人を不安にし、悩ませるのである。現に目の前にあることに専念しようとしても、それらの行動は未来に結びついている。未来の結果を予測しない限り、実行の決断はなし得ない。現在の行動によって将来の可能性のいくらかを操作し得る場合は言うまでもなく、そうでない場合にしても予測される将来の事態に備えて現在の行動を決めなければならない。
ただし、習慣化した行動は、いちいち予測をすることを省く。未来は決められたものとして前提される。今日これからの時間が続くから、顔を洗いひげを剃る。明日という日があるから、今日使いきってしまわずにいくばくかを残す。明日世界が滅ぶということを知っていても、習慣に固執することはできるかもしれない。そうすることで未来について悩むことは避けられるであろう。
いずれにせよ、将来の予測が必要なのだ。ところで、予測された事態の評価はどのようになされるであろうか。それが知的な評価であるなら切実性は薄いであろう。実際に起きた時の感情的反応を模擬的に体験することができれば切実性が増す。想像というのは模擬的感情反応なのであり、価値体験の予行演習なのである。好ましい事態であればそれを求め、好ましくない事態であればそれを避けるように、行動を促す動機となるのだ。
ただし、コストが考慮されねばならない。コストの評価が知的なものである場合、やはり切実性が希薄で過小評価されるであろう。それを防ぐためには、コストもまた感情反応を伴わなければならない。面倒だという気持ち、嫌だと感じることは、コストの模擬的体験であり、評価を実質化するものなのだ。私たちは結果の想像と行動へのためらいを比較することで、その行動がもたらされる結果に見合うものであるかどうか、模擬体験することになる。
結果の想像が好ましいものであれば、コスト評価のマイナス感情との比較となり、それを相殺してなおプラスになりうるが、マイナス感情の方が大きい場合もある。好ましくない結果の場合、それを避けるコストと、どちらのマイナス感情が小さいかが比較されねばならない。そうすると、結果の想像のマイナス感情とコスト評価のマイナス感情の両方が模擬体験されることになる。私たちは好ましくない未来の予測に際すると、実際にマイナス感情を体験してしまうのである。しかも、それで決断ができればいいが、不確実性が決断をためらわせる場合、そのマイナス感情は何度も経験されて、未来の予測は悩ましいものになってしまう。
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問題はこういうことだろう。過去について悔むことは、後悔が教訓として未来に生かせるのであれば、しかも、後悔によって改善されたことによる利益が後悔することによる損失を上回るのであれば、文字通り有益である。未来について悩むことは、その悩みによって将来をよりよい方に変えることができるのであれば、しかも、その悩み自体による損失が将来の利益改善(あるいは損失回避)以下であるならば、有益である。後悔も未来についての悩みも、過度であることが無益(それどころか損失)なのだ。
では、なぜ後悔や未来についての悩みが過度であり得るのか。二つの理由が考えられる。一つは、費用の取り方が、個体と遺伝子とでは違うのかもしれないということである(むろん個体差があるのでバラツキの中位値のようなものを考える)。個体の生存と生殖にとって(つまり、遺伝子にとって)、後悔や未来についての悩みの現状のレベルは最適なのかもしれない。しかし個体自身にしてみれば、それは高い費用に感じられているということも考えられる。個体の意識している損得計算では利益を生じていないと評価しうるということだ。いわば遺伝子に税を課されているようなものだ。
だが、そうだとしても、私たちがその納税義務に疑問を持つことができるのだろうか。全て遺伝子に操作されているならば、そういう疑問を持つことさえないであろう。そこで二番目の理由が考えられる。遺伝子が私たちの行動を定式化した時代と今とでは、後悔や未来についての悩みの有効性が変わって来ているのではないか。環境(特に人間の作り上げた)の複雑化とそれに伴う情報の肥大化が、自動的に後悔や未来についての悩みの種となってしまい、しなくてもいい(つまり、どうにも対処できないのであるから放っておけばいいことの)煩悶をもたらすようになったのではないか。
そのように考えると、楽観主義は適切な処方のように思われる。ただし、それができるのであれば。カーネギーの勧めに従うことは利益をもたらすことになるから、そうしない理由はない。だとすれば、既にこの世はパラダイスになっているはずだが、そうはなっていない。カーネギーの言うようにできる人はもともと楽観的な偏りがあったのかもしれないのだ。知識だけでは変えられない行動がある。統合失調症が精神分析やカウンセリングでは治らないように。そういう場合は脳に対して直接物質的に働きかける必要があるだろう。現に、人はそうしている。酒を飲んで憂さを晴らしたり、薬でハイになったり、あるいはSNSに没頭したりして。問題は、それが依存という新たな症状を引き起こすことだ(依存というのも遺伝子の作り出したある種の機能であろう。そうだ、何もかも遺伝子が悪いのだ)。
楽観主義(的自己啓発)もある意味では依存症なのかもしれない。そう思えば、こういう本が好まれるのも理解できそうだ。