ビーバーのダム
1
ドーキンスは『延長された表現型 自然淘汰の単位としての遺伝子』(1982年、日高敏隆・遠藤彰・遠藤知二訳、紀伊国屋書店、1987年)の中でビーバーのダムについて次のように述べている。
たとえばビーバーのダムの高さを増す効果は、尻尾の長さの増大といった通常の表現型効果をともなった遺伝子のばあいがそうであるのとまさに同じ意味で、生存のチャンスを左右する。そのダムが数匹のビーバーの建設行動による共有の産物であるという事実は、次の原理を変更するものではない。つまり、たとえ各々のダムが数匹のビーバーによって共同して築かれたかもしれなくとも、ビーバーに高いダムを築かせるようにする遺伝子は自ずと平均的には高いダムのもたらす利益(あるいは費用)を報酬として受ける傾向にあるのだ。いま仮に同じダムではたらいている二匹のビーバーがダムの高さに対して異なった遺伝子を持つとしよう。その結果として、延長された表現型は、体が遺伝子の相互作用を反映するのと同じ方法で、その遺伝子間の相互作用を反映するだろう。そこでは、優性的であれ劣性的であれ、変更遺伝子のエピスタシスにも喩えられる延長された遺伝子作用があることになろう。
ここでドーキンスは高いダム遺伝子と低いダム遺伝子がその利益と費用をめぐって「相互作用」し、ダムの高さについてどこか適当な水準が決まるだろうと言っているようである。ビーバーの尻尾の長さが適当な水準で決まるように。しかし、たぶん、低いダムで満足するビーバーは、高いダムでないと満足しないビーバーに必ず勝つはずである。二匹が協働してダムを作るとしよう。低いダムでよしとするビーバーが満足する高さにダムが達したならば、そのビーバーはダムを作ることをやめてしまうだろう。高いダムを望むビーバーはさらにダムを築き続ける。低いダム派のビーバーはダムかさ上げの費用を支払わずに、高いダムの利益を享受することができる。
しかし、そう考えると、選択されるのは低いダム派のビーバーだから、ダムの高さは段々低くなり、遂にはどのビーバーもダムを作らなくなってしまうだろう。ダム作りの費用が不公平であるのに、ダム湖使用に費用を反映させるような制限を加えることができないのであれば、一人で作る方がましだろう。だとすれば、そもそも協働ということは可能なのだろうか。(ビーバーについては、一つのダムを共有するビーバーたちは血縁関係にあるのだろう)。
一匹でダムを作るよりも、二匹で作ったダムを二匹で利用する方が有利ならば、二匹は協働してダムを作るはずだ。二匹で作ったダムの有利さは、一匹で作ったダムの有利さの二倍以上あればいい(二倍以下ならば、別々に作った方がましだ)。ただし、作ったダムへの他のビーバーのただ乗りは排除する必要はある。ドーキンスは次のようにも言っている。
同様の理由からビーバー湖がある特定の大きさを越えると、それ以上大きくなることを適応とみなすのはむずかしくなるはずである。その理由は、特定の大きさを越えると、そのダムの建設者以外のビーバーたちが、そのダムの建設者たち自身とちょうど同じくらい、その大きさの各増加部分から利益を受けてしまうからである。大きな湖はその地域のすべてのビーバーに、彼らがそのダムを作ったのであれ、たまたまそれを見つけて搾取したのであれ、それとは関係なしに利益をもたらしてしまう。
協働して作ろうが、一匹で作ろうが、作ったビーバーがその努力の成果を守ることができなければ、搾取されてしまうということだ。湖の広さはビーバーがパトロールして他のビーバーを排除しうる程度に限定されるだろう。
そこで、ビーバーが協働してダムを作る場合、ダムの高さの「好み」はどう調整されるだろうか。もし、「好み」が固定的であれば、上記のように結局は誰も協働してダムを作らなくなってしまう。協働が可能なためには、ダムの高さはそれを作る費用とそれから得られる収益の関係によって決められなければならない。ただし、ダムはいったん作られれば、あとは補修による維持のみで収益を受け続けることができるが、その点はややこしくなるのでここでは省略する。
ダムから得られる効用が二匹において同じなら、両者の逓増する限界費用が等しくなる点で均衡が成り立つだろう(それは作られるダムからの逓減する限界収益の半分に等しい)。その場合、両者の費用構造が異なれば、生産性の違いとは関係なしに、労働量は異なってくる。いずれにしても、二匹のうちのどちらが有利かはさまざまな条件による。世代によって組む相手が異なるのなら、結局は生産性と費用構造は収斂していくのかもしれない。
一方、彼等の競争相手である他のビーバーたちとの比較おいて、問題となるのはダムの高さではなく、収益と費用からみた効率性であろう。効率性に差があれば、より効率的であるダムを作った組のビーバーが勝ち抜くであろう。
ダムは、ドーキンスの言うように、ある適当な高さに収斂していくことになる。これは集団選択というより、事業選択とでも言うべきか。
2
今度は、ルソーの鹿狩りの例を検討してみよう(『人間不平等起源論』1755年、本田喜代治・平岡昇訳、岩波書店、1957年)。狩猟民が共同で鹿狩りをしていたとき、たまたま一人の前にウサギが飛び出してきたとする。彼がウサギを捕まえるために持ち場を離れてしまうと、鹿狩りは失敗してしまう。個人的な利益のために共同の利益が損なわれてしまうというわけだ。
これが起こるのは、当然、ウサギ一匹の利益が分配される鹿の部分の利益よりも大きいときである。そうでなければ、彼はウサギは無視して鹿狩りを続けるであろう。もし、鹿狩りよりもウサギ狩りの方が有利ならば、みなが単独でウサギ狩りをした方がいいに違いない。誰も鹿狩りなどしないであろう。現に鹿狩りが行われているのであれば、それがメンバー個々人にとって有利だからであるだろう。だとすれば、彼はウサギのことなど常に無視するはずだ。
当然、確率もからんでくる。ウサギとの遭遇が再三であるならば、ウサギ狩りの方が有利になるかもしれないから、鹿狩りが主流である環境では、そういう機会はごくまれであるはずだ。だから、ウサギが魅力的である可能性はあり、ついウサギを追いかけてしまうかもしれない。さて、鹿狩りが失敗したときはもちろん、鹿狩りが成功したとしても、ウサギを追って脱落したメンバーは鹿狩りの分け前に与ることは期待できまい(脱落したことを隠しおおせることができれば別だが)。その上ウサギを逃してしまったら何も得られない。ウサギの捕獲が確実であると確信できないかぎり、ウサギを追うことはためらわれるはずだ。
もちろん、最もよいのは、ウサギを捕らえつつ、鹿狩りの分け前をも得ることだ。そんなことが可能だろうか。他のメンバーに見とがめられずにウサギを捕まえることができて、しかも鹿狩り自体は成功すればいい。だが、同じことをメンバー全員がするようになれば、鹿狩りは成り立たなくなるかもしれない。つまり囚人のジレンマ状況になってしまう。この状況を構成しているのは、ただ乗りの機会だ。だから、その機会がなければ、この状況は解消できる。
ウサギを追いかければ鹿狩りは必ず失敗することが分かっていれば、ウサギを追いかけるのをやめるだろう。誰もが鹿狩りの失敗は望まず、かつ彼のウサギを得ようとする。そうすると、誰かがあと少し手を抜けば失敗してしまうぎりぎりのところで鹿狩りが行われることになる。
実は、ウサギという利益はまれではない。鹿狩りの最中に手を抜くことは、労力の節約というウサギを手に入れることになる。そこでみながサボって鹿狩りがうまくいかなければ、元も子もなくなってしまう。鹿狩りが成功するぎりぎりのところまで手を抜くこと、逆に言えば、無駄をなくして効率的に鹿狩りをすることが、ウサギと鹿の両方を手に入れることなのだ。
つまり、鹿狩りから得られる限界収益の分け前が、参加者個々人の限界費用に等しいところで均衡は成り立つ。獲物は等しく分配されるから限界収益も等しく、それゆえ各人の限界費用も等しくなる。しかし、各自の労働量は各自の費用構造によってそれぞれ違ってくるだろう。このとき、労働量の組み合わせは最適になっていない。報酬が生産性に関連付けられていないからだ(協働でダムを作るビーバーの場合も同様である)。
さて、次の段階に進んでみよう。メンバーの誰かが、他のメンバーの納得できる原因で(ケガとか病気とか)一時的に狩りに参加できなくなったとしよう。そのメンバーが欠けたなら、鹿狩りはできないだろうか。上記の均衡においては誰もが余力を残しているので、欠けたメンバーの分を補うことが可能であろう。つまり、いつもより頑張って鹿狩りを成功させるのである。そうすることで、協業の有利さを維持するのだ。不参加のメンバーにも従来通りの分配はなされ、彼の復帰を待つのである。
獲物が取れるか取れないかという二者択一の極端なケースではなく、労働の投入量によって、獲物の数、大きさ、質などがほぼ連続的に変化するとすれば、メンバーの欠員は生産量を減らし、その結果収穫逓減のもとで限界収益を高めるから、残りのメンバーは労働量を増やすことになる。各人の利益は減るが、減り方を緩和させるのだ。
こういうことが起こるかどうか、あるいは起こったかどうかは、不明である。もし原理的に可能であるならば、そこに利他性の起源が求められるのではないだろうか。利他性の要件は二つある。一つは、自分の損失を承知で他人を助けること。もう一つは、他人が困っているときに(のみ)助けること。結果が自分にも有利であるという要件(助ける相手が仲間であること)は、自分の周りにいるのが協業のメンバーであるという小さな社会においては自明のことであったので、行動が遺伝化するときに欠落してもかまわない。その判断を待っていてはとっさの場合の行動の機会を失ってしまうという理由もあるからである。
鹿狩りのたとえはこじつけめいてはいる。しかし、このような行動は狩りのような生産活動のみに限定されるのではなく、他の集団との戦闘行為とか、日常での集団維持活動においても必要とされたはずである。小集団で確立した(遺伝化された)行為が、無名化された大集団でも維持されるとき、自分にも有利であるという要件が欠落しているので、真の利他性になるのである、という推論はどうであろうか。