井本喬作品集

スミスと進化心理学

 管賀江留郎著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』(洋泉社、2016年)という本は面白かったし、教えられるところも多かった。ただし、肝心の冤罪事件の経過は、知られていることが前提されているのか、読者が自分で調べるべきという方針なのか、きれぎれに語られるだけで、全貌がはっきりしない。さらに、13章「進化によって生まれた道徳感情が冤罪の根源だった」で展開されている、アダム・スミスと進化心理学の二刀流での道徳行為分析がいただけない。

 著者はスミスの『道徳感情論』と進化心理学を併用するのに違和感を持っていないようだ。しかし、進化心理学は利他的行動が利己的に、そして合理的に解釈できるとしているのに対し、スミスは感情という非合理的なものが道徳の基礎にあるとしている。つまり、理性(合理性)では道徳は説明しきれないと考えているのである。むろん。現代の私たちは、感情もまた合理的に解釈できることを知っている。そういう観点からスミスの理論を再構成することも可能だが、そうしたところで大して得るものはないし、この本の著者もそういう意図はなかろう。

 だから、『道徳感情論』と進化心理学は本来対立させてもおかしくないのである。では、なぜ著者は両者を共通な性格のものとみなしてしまったのか。著者が注目するのは「評判」という概念である。

 進化心理学は評判が実際的な利益をもたらすものとしている。よい評判は他人の協力や助力を受けやすいので、その人の生存価を高める(むろん、悪い評判は逆)。だから、評判を得る行動そのもの(利他的なことが多い)は費用がかるとしても、後で元はとれるのだ。つまり、評判は「互恵的利他主義」の穴を埋める「間接互恵性」というものを与えてくれて、純粋の利他的行動に見えるものを利己的行動として解釈を可能にするのだ。

 一方、スミスは、たとえ道徳感情であっても、感情である以上個別性・特殊性を免れないから、その感情に対する他者の是認や否認(いわば二次的な道徳感情)が、感情の個別性を一般化するための機能を果たしていると考える。同感というのはむしろこの二次的道徳感情(是認)に関しての方が分かりやすい。この二次的な道徳感情もやはり感情としての個別性・特殊性を免れないから、「公平な観察者」にまで純化する必要をスミスは説くのである。

 著者は、スミスの「同感による是認・否認」を「評判」と似たシステムと捕える。評判はその人を相手として行為するときの指標になるから、いい評判を与えることは報奨に、悪い評判を与えることは罰になる。さらに、よい評判の元は利他的行動であることが多いから、評判を求める行動を道徳感情による行動とみなす。著者のこの言葉の使用の典型例を引用してみよう。

  さらに、親しい誰かのためではなく、敵対しているはずの取調官に対する<利他主義>のためにやってもいない罪を自白することもあるのだ。<利他主義>と<評判>は、表裏一体のものだからだ。(441ページ)

  無実の被疑者は取調室で、自分の証言がまったく信じてもらえないことに衝撃を受け、自己が崩壊してしまう。もうどうでもよくなって、取調官に迎合してしまうのである。<自己>あるいは<人格>というのは、己の心の内部にあるのではなく、周囲の人間から得られる<評判>によって成り立っていることがここから判る。(442ページ)

  これまで築き上げた<評判>をすべて崩され絶対の孤独に陥った被疑者は、眼の前の取調官の<評判>を得るために、なんでも云ってしまうようになる。(442ページ)

 ここには他人志向だの、近代的自我の不成立だの、そういう思潮が入り込んでいるが、それは置くとして、評判を得ようとするために「相手のためになることをする」(利他主義)、それが道徳感情のゆえだ、というのである。しかし、対価を得るために相手に貢献するというのは、普通の行動(交換)である。また、評判の作用というのは、利他的行動の直接の相手に期待しているのではなく(そうであるなら「互恵的交換」である)、それ以外の人々に期待するのである(だから「間接互恵性」なのだ)。著者の「道徳感情」の語の使い方では、何でも道徳感情のせいにできるから、結局何も語っていないと同じことなのだ。事実、著者は次のように言う。

  それどころか、<道徳感情>とはおよそ人間活動すべてに関わってくる極めてやっかいな存在なのである。(471ページ)

  人間の歴史は、じつは<道徳感情>が突き動かしていたのである。(473ページ)

 つまり、著者の言う「道徳感情」とは「動機」とでも言い変えるべき広すぎる概念なのだ。こういう言葉の使い方については、著者自身の次の文章が参考となろう。

  やたらと何にでも因果関係を見出す人間の本性のために、「戦前は貧しかった」程度のとりあえず手近にある乏しいデータだけで勝手な因果関係をでっち上げて固執、それ以外の命題を排除してしまうことになる。(448ページ)

 さらに、次の二つの文章に出会うと、この本に書かれてあることがはたしてどこまで誠実なものであるのか疑問を持たざるを得なくなる。

  人間の<認知バイアス>についての革新的な研究でノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンでさえ、<認知バイアス>によってたびたび間違いを犯してしまうことを告白している。(452ページ)

  <自己欺瞞>研究の第一人者であるトリヴァ―スも、自身が<自己欺瞞>に陥ってたびたび失敗してしまうことを告白している。(461ページ)

 さて、評判を使ったサンクションは利他的ではない。操作的という意味では合理的であり、利己的である。評判を求める行為も当然利己的である。そもそも、評判という概念は、利他的行動が見かけだけであることを示そうとしたものだ。評判を持ち出すことで利他的行動は雨散霧消してしまうのである。

 スミスの道徳感情も、二次的なものから利他性が怪しくなってくる。「公平な観察者」に至っては感情性も剥落してしまい、合理的なシステムへと変貌するのだ。ただし、最初の道徳感情だけは残るのである。だから、利他性を装ってはいるが(意識的にしろそうでないにしろ)、本当は利己的な行動を、道徳感情のなせるものとするのは、スミスの意味では妥当ではない。注意すべき点は、「利己的な遺伝子」による利他行動は、かけた費用以上の利益を主体にもたらすことを目指している点である。その利益は生存上の、つまり実際的なものである。一方、スミスの道徳感情による行動は、実際上の費用は賄われていないのである。つまり、(たとえ他人のためになっていないとしても)実際上の損失(費用)を負担しているのだ。

 著者はアダム・スミスを激賞しているが、ポイントがずれている。

  アダム・スミスは二五〇年前に著した『道徳感情論』に於いて、一九七〇年代以降にようやく定説となったこれらの最新の進化生物学理論を完璧に先取りしている。さらに驚くべきことに、その遥か先までにすでに到達しているのである。それが、<公平な観察者>だ。(430ページ)

 著者は「公平な観察者」という考えを非常に高く評価しているが、似たようなことを考えた人はたくさんいる。むしろ、スミスが「公平な観察者」に頼ろうとすることは道徳感情論を危うくしかねないのである。「公平な観察者」が社会の秩序形成に貢献するのは理性的であるからだ。だとすれば、感情などは持ち出さずに、最初から理性で始めればいい。感情に徹しきれなかったために、道徳感情論はドイツ観念論にしてやられたのである。

[ 一覧に戻る ]