井本喬作品集

名は体を表わしているか?

 『15歳はなぜ言うことを聞かないのか 最新脳科学でわかった第2の成長期』(ローレンス・スタインバーグ、2014年、阿部寿美代訳、日経BP社、2015年)という本を読んだので感想を書く。

 まず、邦題がピント外れである。15歳という年齢の記述はこの本のところどころに出てくるが、いずれも15歳という年齢そのものを他と区別して特別に取り上げているわけではない。著者は青少年期を10歳ぐらいから25歳ぐらいまでの幅あるものとみなしている。

 また、「言うことを聞かない」という反抗期の傾向を、青少年の特質として論じているのでもない。ルールを守らないという特徴があるのは認めているが、親とか大人の権威に反抗するという側面は肯定的にも否定的にも取り上げていない(私などはそれを自我の目覚めとしてロマン主義的に評価したくなるのだが)。青少年期の問題点としては、強くなる衝動と相対的に弱い自制力とのアンバランスを焦点にしているのだ。著者に見られるのは、このアンバランスを将来まで持ち越さないようにするための方法を考えるという、アメリカ人らしいプラグマティックな態度なのである。その根拠として、青少年期の脳の発達過程は環境の影響を受けやすいので、環境をよい方へ変えることで自己制御の力を強めることができる、という科学的な知見を紹介している。邦題とのズレは次の文章で明らかだ。

  昔から私たちは、青少年期のことを避けて通れない厄介な時期――若者たちには危険、家族には心配、教師には頭痛の種――と考えてきたので、青少年や、親や、教師たちへのアドバイスといっても、そのどうしようもない危険や困難を何とか切り抜けるためのものばかりだった。(中略)0歳から3歳までは、早期の介入や教育によってよりよい発達と成長を促すことをおもな目標としているのに、青少年期になると、どうしたら問題が起きないかばかりに力を入れている。私たちは青少年たちに、するべきこと――そして、できること――を教えるのではなく、してはいけないことを言い聞かせるのに時間を費やしているのだ。

 邦題に興味をひかれて読む人は当てが外れるだろう。しかし、なぜこのような邦題にしたのかは分かるような気がする。内容が当たり前すぎてインパクトがないように思えるのだ。いわく、子供は衝動的だから自制力をつけさせねばならない。いわく、青少年期が長期化した。いわく、子供だけで集まって行動すると無茶をしてしまう。いわく、育つ環境が大事だ。いわく、親は厳しすぎても甘すぎてもいけない、などなど。そんなことは誰もが分かっていて、言い古されてきたことではないか。期待されているのは、むしろ、そういう考えを覆すような新しい見方ではないのか――たぶん、そういう反応が予想されるので、何か意表を突くような題にして、惹きつけようというのだ。

 では、どういう題がいいだろうか(原題はAge of Opportunity)。上記のような子育ての方法というのが当たり前のことのようで、(だからこそ?)疑わしく思われているのが(日本の?)現状のようだから、たとえば、『子育ての逆襲 子どもは変わる、変えられる』というのはどうだろうか。洗練さには欠けるが、著者の思いをうまく表現出来ているのではないか。

 さて、著者が子育ての重要さを主張するのは、青少年期における家庭の状況が、成人になっての成功に大きな影響を与えるという考えからである。露骨にいえば、貧困層の子供たちは成人しても貧困のままである可能性が高いというのだ。こういう考えには反発もあるだろう。著者も気にして次のように言う。

  社会のある一部の子育てが他より悪いと言うのは差別にならないのかどうかは、いつも微妙なところだ。どうやって子どもを育てるかを最終的に選ぶのは、個人の目標や好みや優先順位の問題である。だが、自己制御が報われる社会では、親の目標や好みや優先順位が、子供にとって一番いいこととは言えない場合もある。

 「自己制御が報われる社会」というのは、市民社会、資本主義社会、民主主義社会、自由主義社会などと形容される特質を持つ社会のことであろう。つまり、教育程度が高く、勤勉で、ルールを守り、対人関係をうまくこなす人が成功する社会である。近頃は、個性的であること、ユニークな発想が出来ることなど、人とは違うことが重視されてきているが、そういう人が多数になることはなく(多数になったら、単にバラバラなだけだろう)、成功の要件は基本的には変っていない。

 著者の主張はもっともだと思うが、親の影響がそれほど大きいのなら、しかも理想的な親になるのはかなり困難そうだから、大部分の子供はまともに育っていないことになるのだろうか。著者の「まとも」は理想が高すぎるのではないか。一部のエリートにはそういう環境が大事だろう。だが、大部分の人は、親がどうであれ、まあまあの人生を送れる程度に「まとも」に育つのではないか。そうでなければ、世の中はもっとひどいことになっているだろう。

 さらにいえば、青少年期の脳が可塑的なのは、親の行動を見習ってそれに合わせるように自己を完成させるという、進化的適応性ゆえではないだろうか。可能な環境は多様であるから、特定の環境に特化した行動を身につけて生まれるのは危険である。親の行動は現に暮らしている環境に適合的であり、したがって親を見習うことは環境に適合した行動を身につけることである。ステレオタイプ的であるが、自己制御的な行動をアリ的(努力型)、衝動的な行動をキリギリス的(現在享楽型)と呼ぶならば、低所得者の親がキリギリス的であるのは、アリ的であるよりも環境に適合しているからである。つまり、努力してみたところで得るものは見合わないのだ。だから、子供が同じ環境で生きるのであれば、親を真似てキリギリス的になるのは適応的なのだ。

 だとすれば、問題は、そういう環境から脱け出せるかどうかであり、それは個人的なことにすぎないのではないか。しかし、このことであまり否定的になってはいけないのかもしれない。

 2016年9月19日に、NHKテレビが『NHKスペシャル 健康格差』という番組を放映した。健康格差には所得・地域・雇用形態・家族構成など関連しているようだ。健康は個人的な事柄だから自己責任に任すべきだという考えもあろう。しかし、そう主張して放置するよりも、社会的な対策によって改善が見込めるのであれば(むろんコストと効果の比較はせねばならないが)、できることをやった方がいいようだ。たとえば、イギリスでの成功例として、パンに含まれる塩分を、メーカーと協力して徐々に(消費者が気づかないように)低下させて、疾病予防を実現したことが紹介されていた。

 自己責任を問うてみても、改善はほとんど見込めない。9月18日に東京のお台場でポケモンGOの利用者が車道になだれ込んだ事件があった。自己責任からいえば彼等はひき殺されてもかまわないことになるが、そういう極端なことを想定する前に、何らかの規制を考えるべきだろう。

 つまり、たとえ自己決定に干渉することになっても、有意義だと大多数の人がみなす結果が得られる可能性があるならば、社会的に手を打つことは容認されうる、もしくは、推奨されうるということなのだろう。

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