川
1
会社は丘の中腹にあった。アップダウンのある地形と、ところどころに残る林に囲まれて、建物は孤立していた。門の守衛は私の車のナンバーを確認しただけで通れと指示した。手配の良さに、施設の能率が察せられる。駐車場には車は2台しかなかった。場所が決まっているかどうか分からないので(そこまで親切に手配はしてくれていなかった)、隅に停めた。車を下りて改めて辺りを見回す。
駐車場の向こうにはグラウンドがあり、端を雑木の林が区切っている。振り返ると、いま来た進入路が雑草の斜面を下り、小さな川に沿った道路と合流している。その道路は起伏の陰から出てまた起伏の陰へと消えていた。人通りはもちろん、車もない。
建物は、ずれた形で並んでいる二階建ての二棟を連絡路がつないでいた。二階の端の部屋の窓に人影が見えたが、私が目を向けると同時に奥に動いて消えた。
入り口の自動ドアはIDカードと暗証番号で作動した。受付にはまだ誰もいない。引継ぎと挨拶に来たときに自分の部屋は教えてもらっている。(もっとも、引継ぐ相手はいなかったのだが。)右手にエレベーターと階段がある。階段を上った。部屋のドアを開けるのもIDカードと暗証番号が必要だが、この手続きは日中は省略されていた。設計者の意図がどうであれ、そんな面倒なことを出入りの度にいちいちしてはいられない。パネルで仕切られた区画の一つの与えられた机に鞄を置く。机の上にはパソコンがあるだけだ。これがアメリカなら、彼の写真を鞄から出して机の上に飾るのだろう、と私は思った。キャビネットの引出しを開けてみる。何もなかった。それはこの前来たときも確かめたことだ。彼の遺品はまとめられて家族に渡されている。仕事に必要なものは誰かが管理していて、今日にでも私に引き渡されるだろう。
廊下に足音がして扉が開いた。
「早いね」
「おはようございます。最初ですから。社長こそお早いですね」
「年を取ると早く目が覚めるのさ。私の部屋でコーヒーでも飲まないか」
「ありがとうございます。頂きます」
社長は扉を閉め自分の部屋へ帰っていった。何かもっていく必要があるかと見回したが、筆記用具は見当たらない。鞄から手帳を出し、鞄は置いたまま部屋を出た。社長の部屋はこの前来たときに挨拶に寄った。二階の隅、人影の見えた部屋。
社長は研究者として出発し、画像処理についての新技術の発想を得たのをきっかけに独立して会社を興した。時流に乗って会社の運営は順調だが、あえて規模は大きくしていない。どの分野でもそうだろうが、技術革新のテンポの速さと競争の激しさに対応するために、数年前に本社機能と研究部門を工場から分離してこの地に移した。研究にはいい環境ということで郊外に立地している。
秘書の姿は見えず、社長の部屋の扉は開いていた。そのままにして入る。正面に大きな事務机、木製ではないがそれに似せた造り。机の前に応接セット。両側の壁にはスチールの書棚が二つずつあり、本や書類で一杯になっている。社長室にしては質素だが、いまだに自分を研究者とみなしている社長の趣味なのだろう。社長は洗面台の横の小机でコーヒーメーカーの容器からカップにコーヒーを移していた。背は低い方で、体質なのか年齢によるものかやや太っている。典型的なおじさんという風貌だが、過去の実績が威厳を作り出していた。
「そこにすわりたまえ。ブラックかい」
「いいえ、砂糖もクリームも入れて下さい」
「小気味がいいね。君には迷いはないようだな」
「コーヒーで性格判断ですか」
社長は両手にカップを持ってソファに座っている私の元まで来て、カップをテーブルに置き、向かいのソファにすわって私を見つめた。穏やかで優しい目つき。しかし、油断してはいけない。彼は会社を自分のものとし続けるために独裁的な力を振るってきたし、私生活では何の罪もない妻を離婚して若い女と再婚しているのだ。
「コーヒーだけでではない。この前、君のレポートを読んだよ。なかなかいいものだった」
「ありがとうございます」
「ただ、気になる点がいくつかあった。君たちの世代の見方というのはああいうものなのかね」
「見解の相違はあります。世代の違いというだけではなく」
「まあ、いいだろう。ああいうものの中から新しいものが生まれてくるのかも知れない」
コーヒーを飲む間会話が途切れた。私は次に社長が何を言うのか分かっていた。
「ところで、君がここの勤務を希望した理由だが、本当のことを言ってくれているのだろうね」
「私が嘘をついているとおっしゃるのですか」
「君は率直すぎる。そんなふうな言い方をしていては誰にでも見通されてしまうよ。君は嘘をついてはいない、ただ隠しているだけだ」
「隠していることなどありません」
「いや、君は何かを隠している‥‥まあいいだろう、君が認めるわけはないし。ただ、ここで騒ぎを起こしてほしくない。君が何をしようとしているか分からないが、済んだことをほじくりかえしてみたところで、何も出てこない」
「何のことをおっしゃってるのか分かりませんが、村上さんのことでしたら、私はただあの人の暮らしていたところに住んでみたかっただけなのです」
「私なら悲しみを触発するような土地からは離れようとするが」
「どこにいても悲しみは同じです。気持ちに整理をつけることが出来るかもしれないと思って、ここへ来たのです」
「分かった。もう何も言うまい。君が本当にそういう気持ちなら、私は謝ろう。村上君のことについては私にも責任がある。彼を呼び戻したのは私なのだ。村上君のことでは私を含めてみな過敏になっている。そのことを心にとめておくようにお願いする」
「分かりました。気をつけます」
「ここはのんびりしたところでね、都会に慣れた人には物足りないかも知れないが、私は気に入っている。この平和を乱したくはないのだ。君の悲しみを無視するようなそういう気持ちを君は許せないだろう。今さら言っても仕方がないが、君はここへ来るべきではなかった。君の希望を聞き入れたことを私は後悔している」
「ご迷惑をおかけしないようにいたします」
「来た早々に嫌なことを言って申し訳ない。とにかく来たからには頑張ってくれたまえ」
私は立ち上がり、座ったままの社長に頭を下げてから部屋を出た。
2
始業時間となり、皆に紹介された後、私は机に戻り、パソコンの中を見た。アプリケーション以外は空だった。共有のサーバーの中以外には文書もデータもない。メールの記録もなかった。それはもう彼のパソコンではなくなっていた。誰か他人に渡されるために、彼のつけたにおいや汚れは消され、真っ白にされていた。住人が所帯道具とともに立ち去った後の空虚な部屋のように。壁に張られたカレンダー一枚も残っていないまでに。あまりに徹底した掃除ぶり。まるで何かを探すためにひっくり返してゆすり落としたみたいだ。
とりあえずすることは何もない。以前の職場から持ち越した仕事を片づけることにした。パソコンにメモリーを差し込み、文書をいくつかコピーする。
「もう仕事をしてるんですか」
若い男が傍に立っていた。この部屋の人間ではない。だが、向こうは私を知っている。
「岩田です。ボクが村上さんの仕事を一応引き継ぎました。といっても、整理しかけたと言った方が適当かな」
「そうですか。お世話をかけました」
「パソコンの中も一応整理しました。あなたが引き継ぐと分かっていたらそのままにしておいたんですけど」
「この方が手数が省けてありがたいわ。メールアドレスはそのまま使えばいいのね」
「ええ」
「パソコンのパスワードを変更したら誰に伝えておけばいいのかしら」
「総務課に届けておいて下さい。」
「いろいろありがとう。分からないことがあったらまた教えていただくわ」
「いつでもどうぞ。ボクの部屋は東ウイングの207です」
「ありがとう」
岩田は動かなかった。私の不審げな視線を受けて、彼は言った。
「もしよろしければ、個人的に歓迎会をしたいのですが。山菜料理のおいしい店があります」
「ありがとう。でも、今日はご遠慮させていただくわ。まだ落ち着かなくて」
「そうですね。もっと気を使うべきでした」
「ごめんなさい。せっかく誘っていただいたのに」
岩田が去ってから、彼が私を誘ったことが気になり出した。自分の容貌に不満はないが、通り過ぎる人を振り返らすほどの美貌ではないことは承知している。人には好かれる方だが、初対面で、しかも恋人をなくしたばかりにもかかわらず誘わせるだけの魅力が自分にあるとは思えない。彼は何か目的があったのだろうか。
誘いに乗ってみるべきだったかもしれない。
業務時間が終わると、私はすぐ退社した。駐車場から出て、T字路を左に曲がった。まっすぐ帰るのなら右へ曲がる。左へ行くのは山越えして国道に出る道である。村上もあの日にこの道を使った。どこへ行こうとしていたのかは結局分からなかった。
道は川に沿って曲がりくねる。目印は、道が小さな半径で左に曲がり、カーブの外が崖になって川に落ち込んでいるすぐ先の、瘤のような小さな空き地だ。私は車をそのスペースに停めた。そこから崖を降りる小道があった。釣り人へ漁業権の説明をしている看板が設置してある。釣のための道のようだ。足元が不安定でおまけに下草や潅木の枝が邪魔をしているが、かまわずその道を降りた。川岸に出ると辺りが見渡せた。川は大きく曲がり、瀬と淵を作っている。川幅は狭いが水量は多い。対岸は山の急斜面、こちら側は岩の崖になっていて、その上を道路が走っている。道路に女が立ってこちらを見ていた。
遠いので顔ははっきりしない。白いスーツ。私が見ているのが分かっているはずだが、何の素振りも示さない。
その道路から村上の車が川へ落ちたのだ。私は持ってきた花束を川に流した。花束は流れに乗って早い速度で動いていく。淵には止まらず下流へ流れていき川の曲がりで見えなくなる。私はしばらく流れを見ていた。道路に目をやると女はいなかった。小道を登って車へ戻った。私の車の横に赤い車が停まっている。その車からさっきの女が出てきた。
「伊藤さんね」
私はうなずいた。いずれは会わねばならぬ人だが、早すぎる。会うときにどのような態度を取るべきかまだ決めかねていたのだ。
「私は北野律子。ご存じでしょうけど、社長の北野の妻。でもそれが何か特別な意味を持っているとは思わないで。今日、会社ではお会いできなかったわね」
「ご挨拶に行くべきでしたのですが時間がなくて。失礼しました」
「いえ、そんな意味で言ったのではないの。私がお会いしたかったのよ」
「私もお会いしたかったです」
二人は顔を見つめ合った。表情の向こうにある脳の中枢で何が作用しているのか確かめるかのように。
「立ち話では何だから、お食事を一緒にどう。ゆっくりお話ししたいわ」
私は一瞬迷ったが、申し出を受けた。律子はついてらっしゃいと車に乗った。私も自分の車に乗り、律子の車に続いて走らせた。道は大きくなった川の形成した峡谷を走る。小さな集落で道を外れ、木造の旅館ふうの建物の前の駐車場に車は停まった。
私の降りてくるのを待って、律子は玄関の前で佇んでいる。
「いかにも山奥という感じですね」
「でも、国道へ出るのに三十分ぐらいしかかからない。それに、N山への登り口にもなっていて、案外たくさんの人が訪れるのよ。ここは山菜料理でわりと有名なの」
「山菜料理‥‥。会社の方はよくここを利用されるんですか」
「他の人のことは知らないわ。私はたまに来ます」
二階の一部屋に案内された二人は、机をはさんで向かい合って座った。
「村上さんのことはお気の毒だったわ。事件の後、あなたに連絡しようとは思ったの。でも、どう言っていいか分からないし、あなたを悲しませるのはどうかと思って」
「もう立ち直りました」
「私のことは知っていた」
「彼が死んでから知りました。余計なことを言う人がいまして」
「お節介なやつはどこにでもいるわ。人のことなど放っとけばいいのに」
「そうですね。親切のつもりでしょうけど」
「親切ではないわ。人が不幸になるのがうれしいのよ」
料理が運ばれて来た。私たちは話題を料理のことに変えた。再び村上のことを話し出したのは、デザートが出てからだった。
「私のことを恨んでる」
「お会いする前は、会ったらどういう態度をとろうかといろいろ考えて、時には妄想のようなことも思いましたけど」
「彼とのことは、過去のことよ」
「村上さんは未練があったようです」
「何か言っていた」
「具体的には何も。でも、後から思い当たることが」
「どんなこと」
「言葉では表現しにくいんですが、態度が、上の空というか」
律子は目をそらして、窓の外を見た。真っ暗で、部屋の中がガラスに映っている。私は彼女の横顔を見つめた。彼女は事務員として入社してきて社長に見初められ、社長夫人の座を手に入れた。だが、野心的な彼女は家庭に引きこもることなく仕事を続け、その地位を利用して経営陣の一員になっている。あくどいとまでは言えなくとも尋常ではないそのやり口ゆえに彼女を嫌う社員は多いが、衰えを見せないその美貌については誰もが認めている。律子は私に目を向けて話し出した。
「私と村上さんは、以前彼がここに勤務していたときに親しくなった。彼があなたと知り合う前よ。むろん私には夫がいたけど、遊びではなかった。けれども、夫と分れて村上さんと結婚することはできなかった。二人ともキャリアを失いたくなかった。それで分れたの。彼は転勤を願い出て、去っていった。彼のことをようやく忘れられるようになってから、彼が戻ってきた。驚いたわ。夫が呼び寄せたみたいだけど、彼も望んだらしい。彼は私のことが諦められないと訴えたわ。私は応えてあげることはできなかった。同じ苦しみを二度と味わいたくなかった。彼は私の態度を受け入れることができないようだった。でも、私にはどうしてあげることもできなかった」
「村上がご迷惑をかけたようですね」
「いえ、村上さんを責めているのではないの。私が違った態度を取れていれば、こういう結果にはならなかったかもしれないと思って」
「北野さんは村上さんが自殺したと思っておられるのですか」
「いいえ、あれは事故。ただ、村上さんの注意深さを失わせるようなことを私がしたのかもしれない」
律子は帰り道が分かるかと聞いた。彼女は用事があるので、別方向へ行くらしい。私は分かると答えた。食事代は律子が払った。払い慣れている様子だった。私は彼女の車を見送った後、自分の車に乗った。
3
私は村上が借りていたマンションの部屋を引き継いだ。皆は不思議がった。わざわざ過去に捕われるようなことはしなくてもいいのに、と。新たな住居を探すのは面倒だったし、家具類を運ぶのも手間だった。この部屋には何度も泊まっている。洗面所には私の歯ブラシも置いてあった。この土地に腰を落ち着けるつもりはないが、留まるならこの家がいい。
それに、調査にはここが便利だった。村上の両親から彼の遺品を片付ける依頼を受けていた。依頼というより許可だろう。私の方から頼み込んだのだ。彼の死後、この部屋はほとんどそのままになっている。何かが見つかるかも知れない。ただ、彼が死んでから鍵は会社に預けられていて、会社の人間が出入りしていた。もし、何かを企んでいる者がいたとしたら、中がいじられているだろう。錠は変えることにしている。
マンションは田畑に囲まれている。田舎といってもいいこの地方にも、バブルの頃からマンションが建てられはじめた。都市への通勤圏が拡大し、独立した子供たちが親と別居する傾向により、バブルが潰えても住宅への需要は消えていない。バブル以降のもう一つの傾向は別荘分譲地の造成である。バブルの崩壊は別荘分譲にも打撃となったが、土地代が安くなったので息を吹き返している。住宅地であり別荘地であるという辺境性がこの地方にはある。
昨日は着いたばかりで疲れていて、早く寝てしまった。今日は帰るのが遅くなったが、確かめておきたいことがあった。家にあった村上のノートパソコンはなくなっていた。誰がどこへやったかは分からない。葬儀などの混乱の中で盗まれたのかも知れないが、他の可能性も考えられる。彼のパソコンはパスワードが設定されていたので、中味を見たいと思った誰かが、開くことができなくて、仕方なく持ち去ったのではないか。
私は彼のネット接続のための書類を見つけていたので、持ってきたパソコンに彼の接続の設定をした。メールがいくつか来ている。村上の死後メールを開けたものはいないようだ。ざっと読んでみるが、不審な内容のものはない。ポータルサイトのサーバーに写真が何枚か保存されていた。スマホから移したのだろう。その中の一枚が気になった。夜、撮影したものらしく不鮮明だが車が写っている。一台はワゴンタイプの車だ。色はおそらく紺系統、車種は調べれば分かりそうだ。ナンバープレートは写っているが、数字は読み取れない。その車の背後のもう一台は赤い色のセダン。人が乗っているのかどうかは二台とも分からない。車が停まっているのは道路脇のようで、端が切れ落ちている。
村上のパソコンを持ち去った人物が探していたのはこの写真なのだろうか。私は写真をプリントアウトし、カバンの中からファイルブックを取り出してその中にはさみ込んだ。ファイルブックの別のページを開け、何度も読んだ手紙を読み返した。
「あなたの恋人は社長夫人と関係していた。彼の死は事故死ではない。真実が知りたいのなら追求してみることだ。」
匿名の手紙。発信地はここだ。この手紙を受け取ったとき、村上の死に律子が関与しているのかもしれないと考えた。少なくともこの手紙が示唆しようとしているのはそういうことだろうと考えた。村上の死の直前の態度に不審なものを感じていた私は、この手紙のせいで彼の死の状況を調べてみようと思った。手紙の言っていたことは嘘ではないが、事情はもっと複雑なようだ。
ファイルブックには村上からのメールのプリントもある。それも何度も読んでいた。
「こちらへ来たことを後悔しています。でも今さら脱け出すことはできません。いろんなことが絡み付いて、身動きがとれない状態です。というより、微妙なバランスで何とか立っている構造物から柱を一本取ってしまうようなことになるでしょうから。
いっそのこと、何もかも崩して、最初からやり直した方がいいのかも知れません。そうすることで傷つく人もあるが、たぶん致命傷にはならないでしょう。いずれにせよ、このままだと、悲劇は避けられそうもない。いよいよとなったら、しなければならないでしょう。
変な話をしてしまいましたね。何を言っているのか分からないでしょうが、今のところ私自身も整理ができていないので、これだけしか言えません。いつか具体的なことをお話できるようになると思います。」
このメールがほのめかしていたのは何だったのだろうか。悔やまれることに、死ぬ前に問いただすことはできなかった。
村上がこちらへ転勤になってから、彼と私の間はおかしくなった。最後に彼と会ったとき、彼は別れ話のようなことを言い出し、私は取り乱してしまった。その後で彼がこのメールを送ってきたのだ。私はしばらく返事をせず、思い直して手紙を書く気になったときは既に遅かった。
村上と律子の間に男女関係があったことは覚悟していたが、律子の拒絶にあいながら村上が彼女を諦め切れないでいたというのはショックだった。しかし、それは律子の言い分である。村上が単にそれだけのことで悩んでいたとは思えない。写真の車の一つは律子のだろう。もう一台は社長の車ではない。写真の場所は寂しそうなところだ。律子はその車の持主と密かに会っていたのだろうか。それを村上は知っていた。
車の持主については見当がつく。まず確かめることから始めよう。
4
駐車場に職員たちの車が入ってくる。私は二階のロビーの窓から見ていた。車をとめる位置は公式には決まっていないが、自然と成立した定位置があって、その場所を他人に占拠されると権利を侵害されたような気になるらしい。その位置は、早く来る職員が自分の好みの場所を取り、遅く来る職員が空いた場所を受け入れるという形で成立したのだろうが、今では決められているかのようにいつもの場所にとめている。律子の赤い車は社長の車と並んで玄関の近くにとめてある。社長も律子も自分で運転するのが好きらしく、運転手を使っていない。そこは便利なはずだが皆が敬遠するらしくて、他の場所が混んでいるのに横にあと二台はとめられそうだ。始業時間ギリギリにもう一台の写真の車が入って来た。その車は車の列の間を抜け、玄関の前の空間で躊躇したが、そこへは入らず一番端の場所へ行き窮屈そうに停車した。運転者が降りてくる前に、岩田であることは分っていた。ほとんどの職員が出勤したのにまだ彼の姿を見ていなかったからではあるが、そんな風に見当をつけなくとも彼であることは予想していた。
村上は律子と岩田の車の写真を撮り、パソコンの中に保存していた。岩田は村上の仕事の引き継ぎをし、私に接近しようとした。
午前中にミーティングがあり、新しい配置での調整を行った。ミーティングの後、チームリーダーの桑田と二人で打ち合わせをした。打ち合わせがほぼ終わった頃を見計らって、私は桑田に質問した。
「村上さんの仕事の整理を岩田さんがしたのは理由があるんですか。」
「彼にさせるように社長の指示があったからですよ。岩田君が村上さんと共同で調査研究をする予定があって、その関係の資料を確認しなければいけないからと説明を受けました」
「その内容はどんなものでした」
「そこまでは聞いていません」
「二人が一緒に仕事することを知っていましたか」
「初耳でした。あの二人に交流があるなんて思ってもみませんでした。二人で話しているのを見かけたことなどなかったですから。でも、なぜですか。何か引き継ぎ上まずいことでも」
「いえ、そうではなくて、前の職場ではチームの誰かが取りあえずは引き継いでおくのが普通だったので」
「ここでもそうですよ。今回は異例です」
「社長から直接指示があったのですか」
「いえ、奥さんから、北野部長から社長の指示だと聞かされたのです」
席に戻ると、私はパソコンに向かい、どうでもいいような文章を開いた。モニター画面に目をやるが、見てはいなかった。社長夫人が岩田を使って村上の遺品を調べている。なぜだろう。二人の仲について村上が何か残していないかと心配なのだろうか。私に近づこうとするのも、村上が私に何か伝えていないかを知りたいのだろうか。
電話がなった。取り上げると、いきなり声が指示してきた。
「傍に誰かいるなら『はい』と言え。いないなら、『いいえ』だ」
「いいえ」
「一度しか言わないからよく聞け。今夜九時の前後十分間、君のマンションの部屋の鍵を開けておけ。一人で待っているんだ。行けたら君の部屋に訪ねていく。行けなかったら、また連絡する。もし、誰かを呼んだりするなら、これきりだ」
「あなたは誰」
「君の友人だ」
「信用できない」
「君に忠告の手紙を送った。信用できないというなら、こっちは構わない」
返事を待つことなしに電話は切れた。内線電話だった。表示された相手の番号を調べてみたが、その番号は会議室だった。今から行ってみても誰もいないだろう。
会ってみるしかない。
私は帰りにスーパーマーケットに寄った。いつまでも食事とは呼べない代物で飢えを満たし続けるわけにはいかない。ごっそり買い込んで冷蔵庫へ入れておこう。食事を作るのはあまり好きではないが、一人で外食する気にもなれない。一度作ったものを二、三日食べることになるだろうが、そういうことに関しては気にはならない。食中毒さえ避けられればいい。
スーパーマーケットは意外と大きく、駐車場も広かった。村上が生きているとき、彼を訪ねてこの地へ何度も来たが、スーパーマーケットに来たことはなかった。食事はいろんな店に出かけた。朝食のパンでさえ食べに出た。
この町では唯一の大型店なので同僚や彼らの配偶者と会うかも知れない。もっとも、同僚の半分以上は知らず、ましてや配偶者など分かるわけもなかったが、彼らの方は私を知っているだろう。私が何を買ったかがニュースになるだろうか。それとも、誰も私のことなど気にしないのだろうか。
スーパーマーケットのレイアウトはどこでも同じだ。入口を除く3面の壁は肉、魚、野菜などの生鮮食料品用の陳列棚になっていて、中央の空間は日持ちのする食料品や家庭用品を並べた棚が列になっている。まず、壁に沿って進み、後で棚の列の間に入り込む。ペットボトルを取り上げてかごに入れたとき、左右を見回した。誰かが私を見ているような気がする。
レジで支払いを済ませ、かなり重いビニール袋二つを車に運ぶ。入ったときにはまだ暮れかけたばかりだったが、もう暗くなっている。駐車場の車の列の間を歩いているとき振り返ってみた。私を気にしているような人物は見当たらない。やはり気のせいだったのだ。車を出す。道路の車の流れに乗るために、出口は混む。私の前には二台の車があり、私の後ろにも車が並ぶ。私は右折のウインカーを出した。私の順番が来て、左右からの車の隙を見て道路へ出ようとしたとき、手紙を投函しなければならないことを思い出した。近くのポストは駅にあり、駅は左にある。あわててウインカーを左にし、左折する。後続車が戸惑っていないかバックミラーを見る。後ろの車は右折し、次の車が左折しかけていた。
信号でとまる。後ろの車が追いつくが、かなり間を空けてとまった。スーパーマーケットの駐車場で私の後ろについた車は二台とも右折のウインカーを出していたはずだ。二台目の車は左折に切り替えた。駅へはその交差点を直進すればいいのだが、私は右折のウインカーを出した。少しの間をおいて後ろの車も右折のウインカーを出した。青になって右折する。後ろの車もついてくる。しばらくして左折する。間隔を空けて車はついてきた。つけられている。誰なのか確認したかったが、誰も通っていないこの道で車をとめるのは危険すぎた。気づいていない振りをして、遠回りになるが駅へ行く。駅のロータリーに入るために停車した私の横を数台の車が通り過ぎたが、私の後ろにつく車はなかった。駅の入口の横にとめ、ポストに手紙を投函した。見回してみたが、それらしい車はなかった。
5
午後九時、男が訪ねて来た。言われた通りに鍵をかけずにおいたので、音をたてずに素早く中へ入って来た。
「失礼する。鍵はかけておくよ」
「佐々木専務でしたか」
「意外だったかい」
私は佐々木を応接セットのある部屋へ案内した。
「車はどこに」
「駅の駐車場において、ここまで歩いて来た」
「タバコをすわれるなら、灰皿を出しますが」
「タバコはすわない」
「コーヒーでいいですか」
「できれば、紅茶の方がいい。お邪魔して申し訳ない。他に適当なところを思い付かなくてね。うちへ呼ぶわけにはいかないし。ここは狭い地域だから、どこでどういうつながりがあるか、油断できない。知ってる人間がいないはずのところでしゃべったことが、すぐに関係者に伝わってしまう」
「別に知られても構わないでしょう」
佐々木は私の顔をじっと見た。
「知りたいのは、その程度のことか」
「あなたは何を知っているのですか」
佐々木はしばらく間をおいた。
「君には既に教えておいた」
「手紙をくれたのはあなたですね」
「それで君はここへ来たんだろう」
「あの手紙がなくても、いずれは来たでしょうね」
「村上の死が不審だったのか」
「たとえはっきり事故死だと分かっていても、です」
「愛ゆえに、か」
「茶化しているのですか」
「そんなつもりはない。で、どうだった」
「どうって?」
「いろいろ調べたんだろう」
私は佐々木に全てを話すことにした。会社の内情を知っている人間に協力してもらわないとどうにもならない。
「岩田が。あのお坊っちゃんが何をしているのだろう」
「社長夫人と岩田さんとは、何か関係があるのですか」
「血縁関係はないはずだが。あの女に何か指示されているのかな」
「社長夫人はどんな人です」
「狐さ。悪賢いのと、虎の威を借りるのと。魅力があることは認めるがね」
「あなたの知っていることを教えて下さい」
佐々木はしばらく無言でいた。私をどう扱うか考えているらしい。
「君には隠してはおけないようだ。実は、君に教えてあげるほどの情報は何も持っていない。村上とあの女のことも、噂を聞いただけで、事実を知っていたわけではない」
私は失望した。
「では、なぜあんな手紙を」
「君も研究者なら分かるだろう。事実の断片からアイデアが生まれるときのことを。まだ思いつきの段階では、何かがあるという勘が頼りだ。仮説を立て、検証するのはその後」
「あなたの思いつきに、私を巻き込んだのですか」
「謝罪しろというなら、謝罪しよう。しかし、君は私の出した手紙がなくても、ここへ来たのだろう」
「それはそうですが。でも、利用されるのはいやです」
「君だって、何かあると思っている。隠されていることを知りたがっている。私は誘ったが、決定したのは君だ。確かに、私には好都合だがね。君が来たので、何かが起こる。君が触媒となって、臨界近くにある状況が変化する」
「あなたは何を望んでいるのですか」
「この会社を変えたい」
「変える」
「今のままではわが社は駄目になる。社長の功績は認めるが、もはや社長のやり方が通用する時代ではない。今のままではジリ貧だ。もっと事業の範囲を広げて積極的に打って出る必要がある。資本が足りなければ提携ということも考えなければならない」
「あなたの意図が正しくても、手段が姑息ならうまくいかないのではないですか」
「そういう世界に住みたいね」
佐々木は私を青臭いと思っただろうか。しかし、佐々木にしても策士としては甘いようだ。条件付きだが、信頼してもよさそうだ。
「社長は近々辞めるということを聞いたのですが」
「辞めるもんか。死ぬまで誰にも渡さぬ気だ。問題は、それがいつか、さ」
「社長はご病気なんですか」
「社長は隠しているが、調子がおかしいのは確かだ。癌じゃないかという噂もある」
「後継者は決まっていないのですか」
「いないね。私も含めて、みな実権から遠ざけられている。社長は後継者を育てようとしなかった。自分の競争相手を作りたくなかったからだろう。子供は前妻について行ってしまった。身内といえばあの女狐だが、社長はあの女の経営手腕は信用していないようだ」
「そのせいですね。沈滞した雰囲気がある一方、何かが起るのではないかという漠然とした期待のようなものが漂っている」
「そういうことだ。ところで、その写真を見せてくれないか」
私は佐々木に写真のプリントを渡した。
「場所はどこだろう」
「暗くてはっきりしないんですが、道路の端で、こちら側は崖になっています。ここは村上が落ちたところです」
「あの女と岩田がそんな所で何をしていたのだろう。待てよ、この写真は村上が撮ったものだろう。だとすると事故の前か」
「そういうことになります」
「村上の死と関係があるのか」
「分かりません。でも、何かがあるはずです」
「瓢箪から駒、村上の死は本当に事故ではなかったかも知れないな。あの女と岩田が出来ていて、それを村上が知った。しかし、それだけで村上を殺そうとするだろうか」
「社長に知られることは、二人にとってどうだったのでしょうか」
「あの女が何をしようと、社長は何もいわなかったろうな。ただ、岩田に対しては過酷な扱いをしただろう」
「それを防ぐために‥‥」
「あの女がそれだけのために、殺人を犯すとは思えない」
「律子さんは離婚する気はないのでしょうね」
「あるもんか。あの女はこの会社を手に入れたがっている。自分で支配したいのさ。金はあるんだから、遊んで過ごせばいいものを、トップの権力が魅力的でならないらしい」
「女だから権力に憧れるのはおかしいということはないでしょう。そういう気持ちは男女にかかわらずあるものです。あなただってそうでしょう」
「それはそうだが。しかし、分相応ということがある。恋愛沙汰が達者だからといって、経営はうまくやれない」
「社長は律子さんに引き継ぐ気はないのですか」
「引退するなら、その後の生活を二人で過ごしたいと思っておられるのではないかな。あの女は承知すまいが」
佐々木は写真を私に返した。私はそれを見ながら言った。
「この場所が気になるのです。デイトの場所としては変ではないですか。ここで何をしていたんでしょう」
「分からないな。本人に聞いてみるしかないないだろうな」
「そうするつもりです」
「何だって。本気かい」
「そうする以外、方法はないのでしょう」
6
私は運転を続けながら話した。あらかじめコースは考えていた。川に沿って走り、適当なところで引き返す。どこかで停って話すことも出来たが、走行中の車という不安定な環境の方が真実を聞き出すのに有利だろうと考えたのだ。それに、運転している間はとりあえず安全だ。
「あなたが私に信じ込まそうとした構図は、村上があなたに失恋して自殺したというものでした。私にとっては残念だけれど、彼があなたに失恋したのは事実でしょう。しかし、それは事実の半分でしかないと思います」
助手席にすわっている律子が私を見ているのは分かったが、表情までは見ることはできない。
「私が他に何かを隠しているというの」
「そうです。村上はあなたに関してほとんど何も残していませんでした。私が見つけることが出来たのはこれだけです」
私は車の写真を渡し、室内灯をつけた。
「何、これ」
「その車は岩田の車です。あなたの車が横に並んでいます」
律子はしばらく黙ったまま写真をにらんでいた。写真を見ているのではなくて何かを考えているようでもあった。律子は室内灯を消した。
「これがどうしたの」
「あなたと岩田は関係があった」
「いやな言い方ね。変な勘ぐりはしないで」
「お認めにならないのでしたら、それでもいいです。この写真を社長にお渡しするだけです」
「あなたは私を脅かしているの」
「私はただ真実が知りたいだけです」
「どうしてあなたたちは私をほっといてくれないの。私が何をしようと、私の自由でしょう。誰にも迷惑はかけてはいないわ」
「誰もあなたを責めたりはしません。村上だって、そういうあなたの生き方に対して何も言えなかったでしょう」
「いいわ、分かったわ。私はかつて村上さんと愛し合った。村上さんと分かれた後で、私はまた夫以外の別の男を愛するようになった。そのことが結果として村上さんを傷つけてしまった。でも、どうしようもなかった」
「私は、村上が自殺したとは思えません」
「事故だと言うなら、反対はしないわ」
「いいえ、村上は殺されたのです」
「どういうこと」
「村上は、あなたたちの社長殺害計画に気づいたので殺されたのです」
「何を言い出すの」
「村上はあなたたちの行動を調べていた。最初は嫉妬からだったかもしれません。その写真の場所はお分かりですね。この道は社長が出張のときなどに使う道だった。会議などの後、飲酒運転することもあった。事故を起こしてもおかしくはない。村上はあなたたちの行動が単なる不倫ではないことに気がついた。なぜなら、あなたはかって村上に社長排除の企てを持ちかけたことがあったからです。あなたが村上を棄てたのは、村上がその企みを拒否したからではないですか。共犯者が岩田のような若手になってしまったので、スマートではないが効果的な方法をあなたは取らざるを得なくなった。村上はあなたたちの計画をやめさせようとした。村上はあなたたちにとって脅威だった。そこで、社長殺害のための計画を村上に使ったのです」
「いくら私が憎いからといって、あなたの妄想は度が過ぎている」
私はかまわず続けた。
「あなたは会社を自分のものにしたかった。しかし、社長はあなたへの信頼を失っていたので、引退後あなたに地位を引き継ぐ気はなかった。あなたは社長を利用しつくしていて、そろそろ重荷になっていた。それどころか、社長はあなたの邪魔をする存在になっていた。社長が死ねば、あなたが後継者となるように工作することは簡単です」
「あなたは恋人を失っておかしくなっているのね。私に対する無礼はそう思って許してあげるわ。その写真が私たちを写したものだとしても、それだけでどうして私が夫を殺すことになるというの。あなたは推論を間違えている。事故現場になるところに私がいたということから引き出せるのは、せいぜい私が事故を装った殺人を計画していたかもしれない、という可能性だけね。けれども、その対象が夫であるということがどのようにして推論出来るというの。事故で死んだのは村上よ。あなたは私に負わせている殺人の動機が弱いことから、夫という媒介項を無理矢理入れて強化しようとした。結果的に、ストーリーを荒唐無稽な妄想にしてしまっている。誰がそんなことを信じるかしら」
「村上はこの写真を秘かに保管していました」
「あなたの恋人が私にどんなひどいことをしたか、教えてあげるわ。彼は狂ってしまったのよ。それが私の責任だとは思えない。確かに私達は愛しあった。でも、いずれは別れなければならないことは承知していたはずよ。彼が異動することがきっかけで、私達は別れた。そして彼はあなたと付き合うようになった。私がいつまでも彼のことを思い続けなければならないなんて、彼が要求できることかしら。私だって最初は辛かった。けれども、彼のことを忘れる努力をした。そして忘れることができた。だから、別の人を好きになるのは仕方がないでしょう。それなのに、彼は戻って来ると、私が心変りをしたと責めた。そして、私がもはや彼を愛していないことを承知しながら、私の体を求めた。私が拒否すると、私と岩田とのことを公表すると脅迫した」
「村上がそんなことをしたとは思えません」
「あいつは卑怯な男よ。夫は謝れば私のことは許してくれるでしょう。けれども、岩田は夫の下では働けなくなるし、夫が手をまわせば他への就職は難しい。それではあの子がかわいそうでしょう」
「お優しいんですね。それで、村上と適当に付き合って、口封じをした。だのに、なぜ村上は死ななければならなかったのでしょう」
「自分自身に嫌気がさしたのよ。彼は肉体交渉が復活すれば、愛も復活すると思っていた。彼は私の反応に不満だった。好きでもない男とセックスしたって、楽しいわけないでしょう。結局、彼は出来なくなってしまったわ。車をとめて」
私たちは律子の車がとめてある元の場所へ戻っていた。そこは律子と最初に会ったところ、写真の場所だった。私は仕方なく車をとめた。律子は車から降り、ドアを閉める前に言った。
「早くここを立ち去って、何もかも忘れてしまいなさい。そして、もう一度やり直すのよ。あなたには時間は十分あるでしょう」
7
私は律子をとめられなかった。不意打ちで彼女が混乱することを期待したのだが、彼女はそんなことで尻尾を出すほど間抜けではない。逆に私の方が動揺させられてしまった。彼女が村上について言ったことは本当なのだろうか。
律子は自分の車の方に歩いて行き、ドアの傍で立ち止まり、車のキーを出そうとバッグの中を探った。そのとき暗闇から人が出て来て彼女の背に刃物を刺した。彼女が抵抗する間もなく、何度も刺した。律子は倒れた。
社長は包丁を握ったままこちらを見た。そしてゆっくりと近付いて来た。私は車から出た。
「社長、やめて下さい」
社長は私の声を聞くと立ち止まった。
「何だ、君か」
私は社長の横をすり抜けて倒れた律子のところへ走った。
「救急車を」
「もう死んでるよ」
傍へ来た社長が言った。彼女はまだ死んでいなかった。だが、死にかけていた。私は携帯電話で連絡をとった。
「私はてっきりあいつが男と会っていると思った。だから、帰ってくるのを待っていた。何で君が一緒だったんだ」
「そんなこと、今はどうでもいいでしょう。出血を止めなくては」
「無駄だよ。私が不完全な仕事をすると思うのか」
「何でこんなことを」
「夫が妻の不貞に耐えられないのは当然だろう。私の気持ちなど、誰も気にしてくれはしなかった」
私は立ち上がった。手の施しようがなかった。
「ついでに警察にも連絡しておいたらどうだ」
「救急から連絡が入っているはずです」
社長は血のついた包丁を離していなかった。その姿を見ていて私は思い当たった。社長がこれほど妻の行動に傷つけられていたとすれば、妻を相手にした男に対して容赦はしないだろう。
「村上さんも社長が」
「どいつもこいつも盛りのついた犬みたいに‥‥」
私は社長がこわくはなかった。それよりも自分の無能さを呪った。村上の死に律子は何の責任もなかったのだ。私は偏見に捕われ、不明確なデータを積み上げて妄想を作っていた。思い上がった自分が恥ずかしかった。
社長は私のことなどどうでもいいと思っているらしく、律子を見つめたままだった。私がここへ来なければこんなことは起こらなかったのだろうか。それとも、誰にもどうしようもないことだったのだろうか。
下の方で水の流れる気配がしている。川は常に私たちの傍にあった。私たちの愚かな行為には無関心なままで。
救急車の近付いてくる音が聞こえて来た。