治療と信念
本に出合うというのは、人と出会うように(あるいはそれ以上に)、偶然が作用するようだ。ウェブの中で見かけた『代替医療の光と闇 魔法を信じるかい?』(ポール・オフィット、2013年、ナカイサヤカ訳、地人書館、2015年)という本を図書館で借りて読んだ。がん治療に関することも書かれていて、教えられることが多かった。「がんの治療は有効か」での記述に関連すると思われるので、追記しておく。
丸山ワクチンにしろ、近藤理論にしろ、手の打ちようがないと医療に見離された人、あるいは医療を信用できない人にとっては、試みる価値があると思えてしまうのは、無理からぬところはあるだろう。しかし、医療がそれらを標準的な治療方法としないのは、科学的な根拠を見いだせないからだ。
この本には、がんの代替医療に頼ったスティーブ・マックイーンやスティーブ・ジョブズの悲惨な最後のことも述べられていて、ショックを受けた。なぜ多くの人が科学的根拠のない治療法を信じてしまうのだろうか。極端な言い方をすれば、私たちは科学的な思考が自然にできるようには作られていないからだ(この本の著者がそういうこと言っているのではないが)。単純な例をあげれば、血液型と性格の関連を信じている人に、それは誤りだと説得を試みても無駄だろう。科学的な思考が苦手だからといって、因果関係を無視するというのではない。因果関係を独自に作り上げることができるからこそ、信念を持ちうるのだ。
代替医療の典型的な思考形態の一つとして、自然と人工という二項対立がある。「一方にはナチュラルな製品。ビタミン、ミネラル、栄養サプリメント、植物とハーブ。自然だから安全だ。もう一方には薬。薬は人工なのでより危険なはずだ。しかしながら多くの薬は、抗生物質を含め、自然のものに起源がある。それよりもなによりも、ナチュラルな製品は危険ではないというのは幻想だ」(104頁)と著者は批判する。「結局のところ、薬は効けば(先天性障害を予防する葉酸のように)価値があり、効かなければ(前立腺を小さくするノコギリヤシのように)価値がない。『効き目のある代替医療薬には名前がある』と、マギル大学の化学教授で科学社会部部長のジョー・シュワルツは言う。『それは医薬と呼ばれるようになるのだ』」(123頁)。
ただし、ややこしいのは、プラセボ反応というのがあることだ。著者は、鍼やカイロプラクティックに何らかの治療効果が認められるとしたら、それはプラセボ反応でしかないと言い切っている。これにも驚かされた。これらの治療効果は(プラセボ反応として)科学的に説明できるが、それでなければならないということの科学的根拠はないらしい(要するに、プラセボ反応を起こすことができれば何でもいいのだ)。「病は気から」「イワシの頭も信心から」というのはある程度は科学的根拠のあることなのだ。
著者はプラセボ効果の有用性は認めるが、それをインチキ医療にしてしまう以下の四つの場合について警鐘を鳴らしている。
① 役にたつ通常医療を勧めないこと。
② 適切な警告なしで危険な可能性がある治療法を勧めること。
③ 患者の蓄えを空にすること。
④ 呪術的思考を広めること。
訳者のあとがきによれば、著者は「反ワクチン運動の主張の過ちを指摘し、ワクチンの有用性を訴え続けている」。日本では子宮頸がんワクチンが問題になっているが、この本の中にインフルエンザの予防接種を受けた娘が運動障害を起こした(実は心因性だった)例があって、私は考えさせられた。
科学者(医者を含めた)であっても、彼らとは違った信念を持つ一般の人の説得に成功することは難しい(反対の立場に立つ科学者がいることもあって)。アメリカでは代替医療が盛んで、それで大儲けをしている者も少なくないそうだ。著者たちがいくら努力しても、事態の改善は遅々たるものだろう。宗教の非科学性についてドーキンスがどんなに論理的に訴えても、神への信仰にほとんど影響を与えていないことを、私は連想せざるを得なかった。