サルトルを読み直してみたら
サルトルの『存在と無 現象学的存在論の試み』(1934年、松浪信三郎訳、人文書院、1956-60年)を再読してみた。意識や自我に関する最近の知見と彼の理論が対応するところがあるのではないかと思ったからだ。意外なことではない。当時、哲学者たちが意識について考えた際に、心理学はあまり当てにならなかった。彼らの研究分野に心理学が踏み込むには、進化論や脳科学との協力が必要だった。彼らはいわば素手で取り組んだ先駆者であったのではないか。
若いころにこの著作を読んで感心した覚えがある。哲学者たちが徒歩でさまよった荒野は、誰の前にも広がっていた。哲学者たちが残したのはけもの道のようなものだったが、今は進化心理学者や脳科学者が四駆の車で走破しているのと同じところを、その道も通っていたのだろうと、私は漠然と思っていた。
しかし、『存在と無』の読後感は失望だった。科学的知見が過去の理論を迷信と化してしまうのは、哲学についても起こることなのだ。サルトルが知りえなかったのは、意識は人間個体のほんの一部にしかかかわっておらず、人間行動の大部分は意識を必要としていない(つまり無意識)ということだった。サルトルはフロイトの無意識論は知っていたが、意識化するのを抑圧されているのが無意識ならば、真の無意識ではない(知りえないものを抑圧はできないはずだから)と反論したのである。実は、無意識は意識(のようなもの)によって抑圧されているのではない。意識は単に知らないだけなのである。
サルトルは対自としての意識と、意識のない存在である即自を明確に分ける。人間にも即自部分はあるので、個々の人間は対自と即自の混合体である。サルトルの定式化を使えば、「現実存在者としての即自」+「欠如分」=「欠如を蒙るものとしての即自」となる。対自は「欠如を蒙るものとしての即自」を「自己」として把握するとサルトルは言う。「自己」は「価値」であり、「欠如分」は「可能」である。対自にとっては「自己」は目指すべき目標なのだ。
ただ、意識自体は貧しい概念なので、サルトルは意識を充填させるものを即自から引き出してくる。感情、情動、欲望、知覚など、意識が自分由来とはみなしがたいものが即自の中に含ませられている。所与、事実性、偶然性などとみなされる部分の出自は即自に任されたままで、それゆえ即自と意識(対自)の分離(不一致)が成立することになる。
サルトルの定式を私流に言い換えると、「欠如を蒙るものとしての即自」とは人間個体のことであり、「現実存在者としての即自」は、対自(意識)にとっての、個体とのインターフェイスとみなしうる。「欠如分」とは意識がアクセス不可能な個体の領域(無意識領域)である。無意識領域からもたらされる不可知な作用を、意識は自分のものとして取り込もうとする。サルトルの理論もその一つと言えよう。
即自と対自の不一致からサルトルは自由を導き出すのであるが、私はそこから決定論を根拠づける方を選ぶ。「欠如分」においてなされることに意識は関与できないのだ。むろん、「欠如分」が産出した結果の一部を意識はインターフェイスを通じて知る(感じる)。また、逆に意識から自己(個体)への働きかけも当然ある。しかし、意識は自己(個体)の機能の一部なのであり、意識が自己(個体)を実現させようとするのではない。自己(個体)は実在している。意識が「無」とみなすのは、「欠如分」(無意識領域)にアクセスできない自分の無能力なのだ。
即自から分離した対自が自由の根拠となるのは、即自にこづかれて、しぶしぶ即自に従うという経験によるのだろう。即自と一体化していないからこそ、即自の決定論的世界から免れることができるわけだ。ただし、即自を決定論的にみるのは意識であるから、そこには意識の誤謬があることになる。なぜなら、本来意識は自分が決定論的ではないことを知っているはずであり、そういう自分が存在する世界が決定論的ではないことも知っているはずだからだ。その誤謬をサルトルは心的生活とみなす。
サルトルによれば、心的な事柄としての傾向や欲望は、誤謬においてではあるが欠如分を埋めようとする力である。それは決定論的な力のように思えるが、欠如分の埋め方にはいろいろあって(諸可能性の等価)、どれを選ぶかは決定されていないということに、サルトルは自由を留保する。しかし、この自由の内実はどのようなものだろうか。たとえば、私たちには欲求や欲望があるが、しかし、どのような対象でもいいのではなくて、好みや必要性などをより多く満たす対象を望む(ただし、現実的な制約が対象を制限する)。そのような抽出の過程において一つの対象を選んだとしたら、自由の作用する余地があるだろうか(作用するのは損益計算でしかない)。対自は特定の欲求や欲望に捕らわれることがないとサルトルは言うだろう。しかしある欲求や欲望を抑えるためには、他の欲求や欲望が必要になる。対自は勝手に(自由に)欲求や欲望を生み出せない。諸欲求や諸欲望の中から適当なものを選び出すのが対自の機能であるならば、そこに自由は必要ない(必要なのは価値の序列である)。もし、最終的にいくつかの対象が全く同価値として候補に残ったなら、自由な選択ということが考えられるかもしれない。しかし、そのような場合に選択は可能だろうか。私たちは選択に迷い、結局は決めることができないのではないか。選択がなされるとしたら、偶然の力を借りるしかないだろう。これが自由なのか。
たとえ、欠如を埋めようとすることを、理想に近づく義務として捕えてみても、同様である。義務を遂行しようとするかしないかの選択が自由であるならば、それは義務とはならない。ならばと、遂行の仕方がいろいろあることに自由の根拠を求めても、やはり同じことである。
意識を根源とみなそうとすると、他者の存在も不可思議なものになる。しかし、発生論的には意識は後発であるのだから、意識が他者を発見した時には、既に自己(個体)は他者との関係を築いていたのであり、意識はその関係を再発見しているにすぎない。意識は他者の存在を確信しているとサルトルが言うのには賛成だ。しかし、他者にも意識があることまでも確信する必要があるだろうか。相手がロボットだろうが動物だろうが、他者として扱うことは可能なのだ。
対他存在の説明に「まなざし」と「羞恥」を用いたのも疑問である。他者から見られるということによって羞恥が生じるというのは特殊な例に過ぎない。サルトルという個性の経験から生じたバイアスなのではないか。私たちにおいて視覚の優位性は確かなのだが、見ること自体は感覚に属し、意識はそのメカニズムをよく知らない。ただ、「まなざし」が関心を表現するときに、意識は他者と特別な関係に入るのではないか。目と目が合うと、私の関心が相手に伝わり、相手の関心も私に伝わる。動物と目を合わせたときにさえも同じような経験をする。目は意図を表現してしまう。だからこそ、意図を悟られまいとするとき目をそらすのだ。サルトルは、私が見られているときに他者は対他存在となり、私が見ているときには他者は単なる対象となると言う。しかし、見る-見られるという関係が相互的(お互いに見て、見られる)ではありえないということはないはずだ。
ところで、意識において問題となるのは身体の存在である。脳と意識の密接な関係についてはサルトルは知りえなかっただろうが、行為における身体の役割は無視しえなかった。身体が道具を使うように、意識は身体を(道具として)使っているのだろうか。サルトルは身体の道具性を認めるけれども、意識との一体性も主張する。身体は意識が具体性に関わるための基盤とされる。身体という基盤がなければ、意識は妄想と区別がつかなくなるだろう。身体は意識にとって拘束的であるけれども、それゆえに意識の脱自性、投企性、つまりは自由をもたらすのである。このように、サルトルは身体を意識活動の踏み台のようにみなす。主体性は意識にあり、身体は制限や条件のようなものであり、選択の幅を縮めるだろうが、選択そのものをなくしてしまうわけではない。
このような意識と身体の関係は、性的欲望において顕著になる。そして、性的な態度が他者に対する態度の基本形になるとサルトルは主張する。では、それはどのようなものであろうか。サルトルは他者と自己(意識)の関係を「相克」とみなす。それは相手に対する支配ないし所有をめぐる争いである。ただし、他者を対象(モノ)として所有するのでは対自(意識)は満足できない。相手を自由な投企をなす対自のまま所有したいと欲する。しかし、それは不可能である。そこで、対自は自らの身体を肉体に変化させ(意識の機能を低下させ)、自己の肉体で相手を魅させることによって、相手をも肉体に変化させる。肉体なら所有が可能であり、しかも意識は機能を低下してはいるが消失してはいないので、対自を備えたままの相手を獲得できるのである。
しかし、この理想は達成が難しい。そこで、より確実な戦術として、マゾヒズムとサディズムがあげられ、この二つが他者に対する態度の基本であるとされる。マゾヒズムにおいては、自己を対象と化すことよって他者の支配を導き入れ、そのことで逆に自由な対自としての他者を所有しようとする。サディズムにおいては、苦痛を通じて他者を彼自身の肉体に屈服させることで、対自としての他者を支配(所有)しようとする。
しかしながら、このような一見巧妙な説明は、意識がすべてを理解していることが前提になる(無意識的な行動とはサルトルには言えないはずだ)。だが、意識には分からないことがある。私たちは(原則的に)異性に欲望を持つ。しかし、どのような異性でもいいのではなくて、何かに優れた点がある異性を望む。その好みを意識はどのようにして得たのか。そもそも意識が身体ないし肉体に魅せられるのはなぜなのか。それを単に事実性や偶然性と言ってすませてしまうわけにはいかないだろう。
意識単独では自己と他者の間で好悪などの関係を作りえないであろう(まなざしや言葉でさえ身体を通じて交わされる)。もし身体に対する好悪が身体に根差しているのならば、意識はそのことを教わらなければ知りようがない。それゆえ、それを偶然性と独断することはできないのである。
他者との関係では集団が重要な環境となる。集団というものが意識以前に形成されていたならば、それは意識にとって謎であろう。「対他存在」の最後に付け足したような共同存在についての記述は、共にあることについてサルトルが把握し損ねていることを示している。対自(意識)は自分を失うことがなく、あくまで孤立しているのである。サルトルは、たとえばスポーツ観戦をしたことがないのであろうか。どんなものであれ共同作業をしたことがないのであろうか。この部分だけではなく、この著作全般から伝わるのは、孤独な青年であるサルトルの体験の貧弱さである。
サルトルは対自の自由について、場所・過去・環境・隣人などの所与の制約を認めている。いや、逆に、そういうもののない自由、何でもなしうる自由とは、何をしていいか分からない状態であろう。所与を土台とし、所与に限界づけられて、それでも対自は自由である。その根拠は、対自は選択をなしうるということである。対自は目的を立て、その達成のために行動を選択する。しかし、サルトルは対自がどのようにして目的を設定するのかについては何も語らない。もし、目的自体が所与であったらどうなのだろう。目的達成のための行動は、最も適切と思われるものが選ばれる(誤りはありうるが)。適切という判断基準も所与であるなら、対自に自由は必要だろうか。そして、対自(意識)がそのことを知っているとは限らない。
意識に関するサルトルの分析は確かに鋭い。たとえば、最終章における所有に関する叙述には感心させられる。しかし、そのような実存的精神分析が真理だと信じられるためには、共通した、あるいは普遍的な、何らかの理解可能性のようなものがなければならないはずである。対自の具体的・個別的な企てが独自のものであるならば、そのような共通性・普遍性はどこに求められるのか。「ねばねばしたもの」についての分析も同様であり、サルトルの示したのとは違う態度を取る人間に対して、「その違いがその人間を特徴づける」と(サルトルのように)言いうるためには、多数派の存在を前提にしなければならないだろう。
意識が個体の機能に過ぎないのであれば、意識をそのように作動させた理由を意識外に求めることができる。意識が自己の独自性を確信していても、同時にそれが何らかの共通な基盤に支えられていることを知らないだけなのだ。
あるいは、意識にはそれ独自の原理があるとしても、それは全体からみれば派生したものであり、機能的には余分なものを含んでいるのかもしれない。そういう意味では、機能障害としての意識というものを研究することもできよう。意識の暴走の一つが自己分析であるとしたら、サルトルの著作も研究対象の一つといえるのではないか。
意識の知りえない分野を、あたかも全てを意識がカバーしているように説明しようとすると、言葉の戯れによって覆うしかない。サルトルのこの著書は、マルクス以前、フロイト以前と言える。少なくとも彼らは、意識の限界を指摘していたのだから。