井本喬作品集

世界の複雑さ

 われわれは世界が劣悪な場所であることは昔から知っていた。それはまた、邪悪な場所でもありうるように思われる。

 これは、トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』(1979年、永井均訳、勁草書房、1989年)の中の、「戦争と大量虐殺」という文の末尾を引用したものである。戦争における道徳(戦争反対の道徳ではない)という難しい主題をあつかっているので、こういう感想があってもおかしくない。しかし、その直前の文章が「人間の活動に限界があるとすれば、世界がわれわれに提示する道徳問題のすべてに対して解答がある、と考えるのは無邪気にすぎる。」となっているように、戦争という現象を超えた、より普遍的な感想と受け取ってもよいようだ。

 事実、この本で取り扱われていることは、明確な解答が得られないような主題ばかりである。読んでいると悲観的な気持ちになってしまいそうだが、著者は嘆いているのではない。著者の記述は厳密であり、均衡的であり、懐疑的であり、かつ執拗である。世界を理解する努力をやめてはならないというのが著者の主張なのだ。

 この本は名著だと思う。このような本が40年も前に出版されていたことを知らなかったのは残念である。

 内容は論文集で、1から14まであるそのタイトルは以下の通りだ。「死」「人生の無意味さ」「性的倒錯」「戦争大量虐殺」「公的行為における無慈悲さ」「優先政策」「平等」「価値の分裂」「生物学の埒外にある倫理学」「大脳分離と意識の統一」「コウモリであるとはどのようなことか」「汎神論」「主観的と客観的」。訳書の題になっている「コウモリであるとはどのようなことか」は所要論文の一つにすぎず、なぜそれがこの本の題になったかは、原題『MORTAL QUESTIONS』が訳しにくかったからと訳者解説にある。

 「コウモリであるとはどのようなことか」はよく引用される論文らしい。物理学主義的一元論に対する異議を述べたものである。「生物学の埒外にある倫理学」以下の論文はこのテーマを扱っている。なぜこのテーマが追求されているかといえば、前半の論議を基礎づけるのに必要であったからだろう。それらは、乱暴に言ってしまえば、観念的な論議なのだ。もし、進化心理学者や脳科学者たちの主張するように、心的なものが脳の作用にすぎず、脳が進化論的な機能しか果たしていないとすれば、観念的な論議も利己的な遺伝子の操作でしかないことになるであろう。観念的な論議の独自性や独立性を擁護するためには、二元論的な立場が一つの足掛かりになる。

 唯物論的一元論者は、私たちの心は脳という物質の作用でしかなく、物理的に説明可能な現象であり、物理学的世界観の中に含めなければならないと主張する。たとえ、ある人が物理学的世界観を否定しようとも、その人の思考現象は物理的なのであり、その思考の存在が物理学的世界観の誤りを証拠立てているわけではない。なぜそのような思考が現象するかは説明が必要であろうが、その説明は(いまは十分説得的ではないかもしれないが、いずれ)物理的学の中で完結するものである。

 ネーゲルは二元論の立場を取っているのではない。ただ、以下の二点において、物理学主義的一元論は成り立っていないと指摘する。

 第一に、心的現象と脳との相互作用について、納得できるような具体的なメカニズムが示されていないこと。脳という物質的なものと心という非物質的なものが、どのようにして影響を与え合うのかは謎のままである。それなのに、心的現象が脳から発生すること、逆に言えば、心的現象は脳の作用に還元できるということが、どうして言えるのか。その説明を避けようとすれば、随伴論的な立場を取らざるをえなくなってしまう。つまり、心的現象と脳の対応関係は認めるが、それは心的現象が、脳で起こっていることの反映にすぎないからだ、という見方をするのである。そうだとすれば、心的現象が行動を引き起こすように見えても、実は脳内での完結した経過が心的現象として照り返されているにすぎないことになるであろう。しかし、著者は、心的現象が主体の行動に影響を与えることを認める。たとえ、それがどのようなメカニズムによるのかは不明であっても。

 第二に、心的現象の主観的把握と客観的把握には相違があること。心的現象は主観的である。そして、科学の客観的方法ではその主観性を把握できない。だからといって、心的現象の主観性が事実としての確からしさに欠けるとは言えない。主観性は主体によって体験されているし、同じような存在の中でもそのような体験は起こっていると想定することに無理があるとは思えない。

 以上のような著者の言い分はもっともであると思う。ただし、心的なもの存在が、世界を、そうでない世界に比べて、どのように変えているかを言うのは難しいであろう。だとすれば、そんなわずらわしいことに関わりあわずにおく方が、気楽かもしれない。

 しかし、私たちの態度がどうであれ、世界は難しい選択をせまるのであり、その際には観念的思考を無視することはできない、というのが著者の主張なのだ。

 心的現象の特異性は意識として取り扱われるが、観念の独立性が意識によって説明されうるのかというと、ことはそう簡単ではない。そもそも、意識を心的現象と同じものとみなしてよいのだろうか。もし、無意識の心的現象というものがあるならば、意識と心的現象にはずれのようなものがあるはずである。脳科学の分野の知見では、意識というものが、私たちが思い込んでいるほど確かなものではないらしい。私たちの行動の多くの部分が、無意識の過程によってなされているというのである。かつては、随意と不随意という区別によって意識の範囲が把握されていたのであるが、随意とみなされていた行動の多くが意識されずになされていることが分かってきたのである。意識がなくても、生きていくことに基本的には差支えがないのではないか、という極端な主張さえもある。

 ここで、単純化して意識と脳を分けて考えることにしよう。意識に心的現象が起こるとき、並行して脳にもそれに対応する現象が生じているものと考える(脳で起きたことが意識で起きることの原因であるかどうか、またその逆のことが起こるかどうかは棚上げしておく)。しかし、脳で心的現象に相応する現象が起きても、意識ではそれに呼応する心的現象が起きないという状況があるとしよう。その場合は無意識の心的現象とみなすことができよう。

 たとえば、欲望、欲求、感情などに相当する現象が脳で起こったとしよう。並行して意識においてもそれらが起こるならば、意識と脳に乖離はない。しかし、心的現象が意識されないでも、欲望、欲求、感情などに相当する現象が脳でおこるならば、それは無意識的心的現象とみなさねばならないだろう。

 ところで、逆に、意識のみに心的現象が起こり、脳にそれに相当する現象が起こらないということがあり得るだろうか。それを認めることは唯心論になってしまうだろう。意識と脳のずれといっても、対応する現象が脳にないような意識の心的現象はありえまい。したがって、無意識的な心的現象が根本にあり、そのうちの一部が意識化すると考えるべきであろう。

 無意識は脳の作用として考えやすい。それが顕現するのは、知覚や行動や記憶としてである。それらは、意識が関与していようといまいと、主体以外の観察者に把握される。意識の関わっていない脳の作用というのは膨大であるが、わざわざ無意識として取り上げられるのは、意識化が可能であるはずの(心的現象としての)部分である。

 逆に言えば、なぜ意識というものが限定的に発生するのかということの理解が、無意識の研究によって得られる可能性がある。意識は無意識の領域の一部に関与していると考えられるのである。意識と無意識が一続きなのであれば、意識も脳の一つの機能であるという言い方で、心脳問題を回避して意識を研究することができるかもしれない。脳自体が身体(物理的な存在としての自己)の一つの機能であるのだから、当然意識も身体の機能の一つと見なされうるだろう。

 意識が脳において何の機能も果たしていないのであれば、なぜ意識が進化的に発生したのかが分からなくなる。意識には機能分化した脳の各部を統合する機能が認められるという見解もある。この場合は意識から無意識への働きかけも重要な役割を果たしているとみなされる。脳の作用として意識が機能しているのであれば、無意識との相互作用や、自己統合機能への関与ということがあってもおかしくない。

 そう考えると、意識の特異性は、無意識を含めた心的現象という広い枠の中に組み込むことで理解が進むことになるのではないか。

 意識の特異性とは別に、心的現象が物理現象から独立していることを示せるものはないだろうか。

 思考が単なる傍観者ではないのは確かであろう。たとえば、知識の作用は身体に影響する。欲望、欲求、感情などが関連する事象についての知識は、それらを引き起こし、また、それらを助長したり抑制したりする。知識は事象の認知と学習によって新たに得られるが、既存の知識を記憶から引き出すこともできる。学習や記憶に思考が関与しているとすれば、物理的な因果性とは別の因果性となっているのではないか。

 この話題に関しては、進化心理学と呼ばれる分野が強力な否定論を提供している。その内容は、簡略化して言えば、私たちの思考や行動は、究極的には遺伝子によって説明がつく、という考察である。そこから派生するいろいろな理論や仮説が、従来の人間観の変更をせまる。

 私もそうだったのだが、少なからぬ人が進化心理学に嫌悪感を持つのは、それが利己主義をすべてとみなす主張のように思えるからであろう。遺伝子は自己の複製を残すことを至上目的としている(もちろんこれは擬人的な表現で、自己の複製を残すことに成功した遺伝子が支配的になったという過程を省略化したものだ)。それゆえ、遺伝子によって形成され、遺伝子をになっている生物個体が、自己の生存と繁殖を至上目的とするのは当然である。そこがこの理論の基礎的部分なのだ。

 そのような主張に対する反発と疑問の、第一で最大の根拠は、私たちが利他性の存在を確信していることであろう。利他性についての進化論的説明は、互恵的利他主義と自己欺瞞を組み合わせたものとなっている。進化論のセントラル・ドグマは集団選択を認めていないが、利他性の説明には集団選択論が必要だという主張もある。しかし、いずれにせよ、私たちが、見も知らぬ相手を、見返りも求めないで、助けようとすることがあるということを、それらが納得できる形で説明しきれていないと私には思える。

 似たような現象は他にもいくらでも見つけられる。私たちは避妊をしながら性行為をする。性行為の欲求についての進化論的説明は、子孫を残すという観点からの正当化である。しかし、多くの場合、私たちは子供を欲するために性行為をするのではなく、性行為自体を望むゆえにするのである。進化論的に見れば、受胎を目的としない性行為は謎でしかない。

 私たちの行動は、確かに自己の生存と繁殖を目的としているのだけれども、私たちはその目的を自覚して行動しているわけではない。私たちは、特定の行動そのものが望ましいゆえに、その行動を選ぶのである。そうでないとしたら、つまり、その行動が自己の生存と繁殖に役立つかどうかを選択の基準としていたら、私たちは速やかに滅びていたろう。

 確かに、その行動が望ましいか否かは、生存と繁殖という基準によって選ばれたものである。しかし、その選択は長期的な結果としての選択であり、目的が最初に立てられたわけではない。いわば、個々人によって盲目的に選ばれた行動のうち、適応的なものが残ったのである。逆に言えば、その行動を好んだ個人とその子孫が選ばれたのだ。

 こういう観点からすれば、観念的思考も、それがなされるのはそれが好まれるからだ、という以外の理由はない。結果としてそれが適応的だったにすぎない。

 観念的思考が物理的なものに還元できるということと、それが「現に」進化論的に適応的かということは、別のことである。観念の独自性とは、そのことを意味していると思われる。

 著者の論議から、もう一つヒントを得たので、それについても述べておこう。選択の自由とジレンマの関係についてである。

 ジレンマは常に存在し、しかも、私たちは選択を強いられている。自由に選択できるが、しかし、どちらかを必ず選択しなければならない(選択をしないというのも選択肢として組み入れられている)。

 ある特定のことをなさねばならないことが義務である場合、選択の問題は生じないように見える。しかし、そのことをなすためには複数の手段があり、手段間で生じる影響の差が考慮されるべきであるならば、やはり選択は生じるのだ。

 決定論の見方では、自由は存在しない。すべては決められていることだからだ。私たちの行動に当てはめてみれば、私たちは選択において、望ましい、好ましい、有利な方を選ぶ。事前評価の誤りはこの決定論に影響しない。なぜなら、それもまた決定されたことだからだ。そこに自由を持ち出す必要はない。

 ただし、選択において自由が出現することがある。選択の対象の価値に違いが見いだせない場合である。この場合、どちらを選択するかは、決定されえないという意味で自由であり、なされた選択は恣意的となる。このような場合は稀であると私は思っていた。完全に等価な選択肢というのはほとんどなく、大部分は評価の困難さが選択を阻んでいて、その場合は選択の手掛かりになる何らかの相違がいずれ見つかるはずだからだ。

 しかし、この本を読んで、価値の違いが比較評価の困難をもたらすことによるジレンマについて教えられた。「たとえわれわれに手の届く理解の諸タイプが、すべてわれわれの精神において共存し合い、共働し合わなければならないとしても、それらは別々のものであるように、われわれを動かす価値の諸タイプも、われわれの行為を決定する際にできる限り協力し合わなければならないとしても、やはり本質的に異なるものなのである」(「価値の分裂」)。このようなジレンマは、どれを選択すべきか分からないという意味では非決定論的だが、選択は恣意的であってはならず、その説明が求められるのである。この選択は自由であるからこそ義務的なのだ。私は、決定論を信じるゆえに、本質的な自由はないと思っていた。しかし道徳的ジレンマの存在は、意識における自由(非決定性)を前提とするのかもしれない。

 著者は、このようなジレンマにおいて求められるのは「判断」であると言う。それは、「価値における一般理論」を性急に求めるのではなく、「決断の正当な根拠は非常に多岐に亘っており、さまざまな水準で理解される、ということを認めることである」。この「非包括的体系化」によって、「ロマンティックな敗北主義」と「排他的な過度の合理化」という二つの危険を避けることができる。むろん、そのような「判断」が常に可能というわけではなく、また、他のやり方よりも容易であるというのでもないのだが。

 行動の決断を妨げるようなこのようなジレンマが、なぜ発生したかを進化論的に説明することは、著者が示唆するように、まだ無理なのだろうか。世界が不統一である(ように見える)としても、私たちの内部は統一されている方が効率的ではないのだろうか。それとも、私たちの内部の不統一は世界の不統一の反映なのだろうか。

 ヒントの一つは、著者が指摘しているように、私たちは自己を離れた視点をとることができることにあるように思う。それを可能にしているのは言語によるコミュニケーションではないだろうか。価値、意味、言語というのは密接に関連している。ここでも言語が鍵になるようである。

 著者は言語については特に述べていない。ただ、著者の思考や価値観にしても、言語によって伝えられ、私たちはその意味を理解しようとする。私たちが私たち自身の思考や価値観を越えることができるのは言語のおかげなのだ。

 デカルトが二元論の立場を取ったのは、唯物論的一元論では言語を説明できないと思ったからのようだ。その謎は依然として残されているのではないか。

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