迷いと後悔、そして自由
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『MiND 心の哲学』(ジョン・R・サール、2004年、山本貴光、吉川浩満訳、朝日出版社、2006年)という本を読んだ。サールは唯物論と二元論の対立を乗り越えた(少なくとも乗り越える可能性を示した)と言うのだが、私は性質二元論を主張しているデイヴィッド・J・チャーマーズ(『意識する心 脳と精神の根本理論を求めて』1996年、林一訳、白洋舎、2001年)の方が納得できた。
チャーマーズは、自己の見解とサールのそれは、意識を物理的なものに還元できないという立場にあることによって、ほとんど同じであると言っている。違いは、チャーマーズが二元論をとっていることである。チャーマーズによれば、心身問題の真の対立は、「物理的な体験」と「心理学的な体験」の間にあるのではなく、「心理学的な体験」と「現象的な体験」の間にある。心理学的な体験は因果的に説明可能な人間行動の領域であるが、意識は現象的な体験であって、因果的な機能は認められない。つまり、心的状態には、心理学的特性と現象的特性が混ざっており、前者は脳神経科学や認知科学などによって分析可能であるが、後者はそうではない。
サールも、チャーマーズと同様、物理的な体験と心理学的な体験の間に対立があるとはみなさない。しかし、心理学的な体験とは区別される意識というものは認めない。つまり、一元論である。
ところで、意識に因果的に解釈できないところがあるみなすとどうなるだろう。チャーマーズの二元論では、意識は物理的体験にも心理学的体験にも因果的に作用しないから、特に支障はない。しかし、サールの立場では、矛盾が生じる。自由の問題がそこにある。
『MiND 心の哲学』は、その叙述の多くの部分で、サルトルの『存在と無』を思い起こさせる。サールはサルトルについては一切言及していないのだが、両者の共通点をあげてみよう。まずデカルトの心身二元論を起点として、その克服を目指していること。しかし、唯物論や唯心論のような単なる一元論に落ち込むのは避けようとしていること。志向性を重視すること。意識が人間存在において中心的な役割を果たしていると認めていること、など。
なかでも注目すべきは、自由意志についての取り扱いである。行為の因果性と自由意志は、それぞれについては納得しうるけれど、お互いに矛盾しているように思える。この二元性についてどう解釈すべきか。サールによれば、標準的な解釈として、両立説と決定論がある。両立説は、強制がなければ自由であり、自由な行為に原因があるのは当然とみなす。決定論には心理学的なものと神経生物学的なものがあり、いずれも意識のレベルではないところで因果が働いているとみなし、自由は意識の錯覚のようなものだと片付けてしまう。サールはこれらのどれにも賛同しない。自由意志というものは確かに経験しうるし、それが行為の因果性とはうまく重なり合わない(ギャップがある)ことも否定できないからだ。
これはサルトルが対自存在という概念によって示したことを連想させる。即自存在は物理的・心理的な因果の支配下にある。しかし、対自存在は「あるところのものであらぬ」というあり方によって即自存在との同一性を拒み、「あらぬところのものである」というあり方として未来に投企するのである。
むろん、サールは、サルトルのようには軽々しく断定せず、「要するに、いったいどのように自由意志が働きうるのかを知らないのだ」と言う。
一般的に、唯物論は物理的因果法則がすべてであるので自由意志を否定し、二元論は心の自由を認めるかもしれないが、心がモノ(脳)に影響するすべを知らない。では、両者を組み合わせて、心の自由は保ったまま、心をモノに組み入れる(モノに対して因果的に機能させる)ようにすればいのだろうか。しかし、そうすると、心による因果性とモノの因果性という二重決定の問題が生じてくる。
サールは、心的な現象と脳神経の現象は同一の現象であり、記述のレベルが異なっているだけだ、という言い方で唯物論と二元論の対立を解消しようとする。どのレベルでも因果的な機能が働くなら問題はない。しかし、サールは、心理学的なレベルにおいては、「因果的な十分条件が存在しない」ことから自由意志を認める。その結果、心理学的レベルにおける自由意志と神経生物学的レベルにおける決定論という二重決定も導き入れてしまうことになる。
ところで、心理学的レベルにおいて決定論的な様相があることはサールも認めている。「確かに、ときに行為者は心理学的な十分条件に束縛されることがある——たとえば衝動、激怒、抗しがたい願望などに捕らわれることがある」。つまり、自由には、外的な拘束だけではなく、内的な制限があるということだ。逆に言えば、内的な制限としての因果的な条件がないときに自由意志が感じられるということである。
このことから、一つの解決法が考えられる。それは、自由意志の存在を認めながら、その因果的な機能を認めないということである。これは自由意志が幻想であるという見解と同じかもしれないが、幻想であることの内容を見直すのである。どういうことかというと、自由意志を感じることと、自由意志を因果的に機能させることの違いに注目する。つまり、自由意志が感じられるのは自由意志が実行できない状況である、ということを示すのである。
2
私たちが自由を確信しているのはどんな状況においてなのかを検討してみることで、自由と決定論の矛盾を解消する手掛かりを探ってみることにしよう。
私たちが自発的に状況に働きかけようとするとき、欲望や欲求、希望や意図などを動機としてあげることができよう。むろん、私たちがなしうることには制限があり、何でもできるということが自由を意味するのであれば、私たちは自由ではない。私たちにとっては、なす、なさないという選択を含めた、いくつかの可能な選択肢が認められるのがせいぜいである。もし、その中で最適な選択があれば、同じことが何度繰り返されても、それが選択されるであろう。つまり、再現性があることになり、因果関係が成立していることになる。
その際、自由はどこにあるのだろうか。複数の選択肢があることが自由だろうか。しかし、他の選択肢が選ばれることはないのだから、選択がなかったのと同じことである。選びもしない選択肢を見つけられることが自由であるのではないだろう。もちろん、当初の見込みが間違っていたなどの理由で結果が思わしくなく、実は他の選択肢の方が最適であったということが後で分かるかもしれない。だとしても、選択の前の状況が違っていない限り、再現性は保たれるのだ。
私たちに自由があるとすれば、選択肢をいくつか思いついて、その詳しい検討に入る前の心的状態においてであろうか。どの選択肢が最適であるか分からない状態が自由であるならば、自由は意思決定には関与していないことになる。
そこで、自由と選択の関係について考えてみよう。もし、私たちが、与えられた選択肢の中でどれでも選ぶことができるならば、選択の自由があることになる。しかし、その中に最適な選択肢があれば、選択は問題にならない。その場合、選択肢は一つしかないのと同じであり、選択の自由などもともとないのである。それゆえ、選択(の自由)があるとするならば、選択肢がその価値の優劣をはっきりさせるような判断の手掛かりを与えてくれていないということに他ならない。
一般的に、選択の結果は事前には確定できないので、予測するしかない。予測には不確定性がある。したがって、どんなに確実に思えても、結果は起こってみなければ分からないのであり、意志決定は本質的に冒険であるともいえる。しかし、不確定性の中でも、最適性を判断できる場合は多くあるのであり、そうでなければ私たちは日常的に生きるのにも困難をおぼえるだろう。
あるいは、選択の結果に差が出ようとも、それが生きるうえで大きな影響とはならず、十分に耐えられる範囲のものであることも多い。どうでもいいことなら、選択の検討の厳密さに悩む必要はないので、その選択とは直接関係ない要素を判断基準にすることもできる(好きな色とか、好きな人とか、好きな宣伝媒体とか、好きな行動などなど)。
いずれにせよ、私たちが選択をなさねばならないとしたら、つまり、どの選択肢が最適であるかいろいろ予測しても判断が下せないとしたら、最後は賭けになる。ただし、賭けだとしても、最後の一押しとなった要因は見出されるかもしれない。それはごく小さな差異でしかないかもしれず、その差異が結果に影響することはほとんどないかもしれなくとも、選択肢の違いの手掛かりとなり、揺れる判断を一方に傾けさせることができたのかもしれない。たとえ、その一瞬が過ぎ去れば、そのような力は消え去ってしまおうとも。
つまり、迷いの中での選択の動機は「ラクダの背を折る一本の葦」というようなものなのかもしれない。私たちは理由がなければ選択はできない。いかに気まぐれに見えようとも、機械的になすのでないかぎり、そうなのだ。逆に、理由は、ただそれが見いだされたというだけのことで、理由にされることもあろう。
自由とは、原理的には、何でもなしうることであろう。限界の中で生きることしか知らない私たちにとって、何でもなしうるということは、何もすることができないということである。これは迷いの状況であり、このような経験が自由意志の根拠となっているのかもしれない。
3
意志決定がもたらした選択の結果が予測と異なる場合があるという経験は、次回の同じような選択の状況において参考になる。予測の精度が上がるのだ。そのためには、しくじった選択の記憶が保持されていなければならない。記憶の対象となる経験は膨大である。記憶として選ばれ、そして保持され続けるためには、目立つ印が必要である。後悔という感情はその印なのだ。私たちは後悔の記憶をいつまでも抱え込む。それは、しくじりの記憶を保持することによって、同じようなこと繰り返さないようにして生き延びてきた私たちの祖先の遺産なのだ。
けれども、後悔は不思議な作用をする。私たちは、「あのとき、こうしていれば」と、実際に起きたこととは違った経過を想像する。違う過去(結果)が可能であったかのように。確かに、決断の時点でその後に起ったことが見通せるならば、違った選択は可能であったろう。しかし、それは、よく言われるように、結果論にすぎない。決断の時点では、その決断が最適であると思えたのだ。
振り返ってみれば、決断の契機がほんの些細なことであったように見えることもある。あのときがあと何秒か早いか遅いかしたら、あのときそれを手に取っていれば、あのとき(どちらでもよさそうだったのだから)右ではなく左へ曲がっていたら、あのとき言っておけば(あるいは、言わなければ)、などなど。ほんの些細なことであるから、変更しようと思えばできたことなのである。しかし、それらは一連の状況の流れの中で、必然的につながっていたのではないか。
どうでもよさそうであったことが、大きな結果の違いをもたらしたということは、状況判断における私たちの無力を現している。私たちはそれを偶然と呼ぶ。
けれども、すべてを必然ないし偶然で片付けてしまうのでは、行動の改善は期待できない。たとえそのときの行動が変えようがなかったとしても、別の適切な行動が可能であったとみなすことが、進化の上で必要だったのだ。後悔においては、決断の時の状況判断がどうであれ、選択の自由があったとみなすのである。判断のための要素はあまりに多すぎて、すべてを考慮に入れることなどとうてい無理なのだが、そのことが逆に、見逃されていた要素を見つけ出すことを可能にしている。また、因果系列はどこまでもさかのぼって検討することができるので、操作が可能であったように見えてくる。
つまり、因果関係をどこにでも想定できることが、因果の始発点としての自己に注目せざるを得なくする。後悔する時点から見れば、決断したときには適切な選択肢がいくらでもあったように見えるのだ。
このような後悔の仕方が将来の選択において有効なのだろうか。むしろ、過去にこだわって、現状を受け入れる妨げになっているのではないか。確かに、後悔とは、今とは別の因果系列がありえたという想像でしかない。それを証明する方法はないのである。しかし、私たちが後悔するようになっているということは、自分自身に選択の自由があるという確信があるからであり、そこに自由意志が見いだせるとも言えよう。
気分的に自由なのは、選択を強いられることがない状態であろう。選択をすることがなければ、迷うことはないし、後悔をする必要はない。選択肢がないこと、つまり、やることが決まっている状況もこれに似ている。しかし、何らかの行動をすれば、責任問題がどうであれ、その結果を引き受けなければならない。それでは自由な気分を保てない。何もしないこと、それが可能であるかどうかわからないが、そして退屈であるかもしれないが、それこそが自由を感じることなのだ。