井本喬作品集

いまなお、ウェーバー

 新聞の書評で知って、佐藤俊樹『社会科学と因果分析 ウェーバーの方法論から知の現在へ』(岩波書店、2019年)を読んでみた。興味深い内容だった。この本で佐藤が中心的に取り上げているのは、ウェーバーにおける、1904年の「社会科学的および社会政策的認識の『客観性』」(「客観性」論文)と、1906年の「文化科学の論理学の領域での批判的研究」(「文化科学」論文)との間の変化である。

 私が読んだウェーバーの著作は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の他はいくつかの小論文だけである。「客観性」論文は、所持している本の中にあったが、読んだかどうかの記憶はない。「文化科学」論文は読んでいない。たとえそれらを読んでいたとしても、その意義については気づきようもなかっただろう。ウェーバーについての理解は、マルクスとのからみで、上部構造の独立性を主張したというような大雑把な観点を受け入れていた。

 私はウェーバーには興味はなかったので、学問的なウェーバー理解について知る努力はしなかった。社会学が向かうべきは、ウェーバー(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)よりもデュルケーム(『自殺論』)の目指した方向であるという見解に共感した覚えがある程度である。だから、佐藤の描くウェーバー像は素直に受け入れることができた。なまじウェーバーについての知識があれば、抵抗感があったろう。

 佐藤によれば、日本語圏での従来のウェーバー理解は、リッカートの影響を重視するものだった。(リッカートについては私は何も知らなかった。したがって、ここでのリッカートについての言及は、佐藤の教示による。)リッカートは人文社会科学を「文化科学」として定義し、「法則科学」である自然科学と対立させた。文化科学は「価値を創造する知」であり(法則科学のような「法則を追求する知」ではない)、その対象は個性的である。リッカートは文化科学の特性として「理論的価値関係づけ」と「個性的因果関係」という概念を唱えた。理論的価値関係づけとは、主観的になりがちな価値づけに客観性をもたせる方法である。個性的因果関係とは、本源的に一回性のものである、歴史の中で生じる重要な出来事を捕える方法である。佐藤によれば、いずれも具体性に乏しい。

 「客観性」論文ではリッカートと同じような考え方を示していたウェーバーは、「文化科学」論文ではそのような考えを否定する立場へ移行した。そこにはV・クリ―スという生理学者兼統計学者の影響があった。そのことは欧米ではよく知られており、日本でも過去に指摘されたこともあるので、自らの創見ではないと佐藤は言う。

 ではなぜそのことが日本語圏では無視されてしまったのだろうか。ウェーバーに影響を与えたV・クリ―スの「適合的因果関係構築」という考え方は、統計学を用いた因果推定である。「文化科学」論文には、V・クリースの著書の参照の注があり、それに当たってみればウェーバーの意図が分かったはずだ。しかし、統計学に疎い日本のウェーバー研究者は、V・クリースを読むことなく、「客観性」論文の延長として「文化科学」論文を位置づけてしまったのではないか、というのが佐藤の推測である。

 混乱をもたらした原因の一つとして、ウェーバーがV・クリースから引き継いだ「法則論的/存在論的」という対概念があったようだ。これがリッカートの「法則科学/文化科学」という対立概念に相当すると受け取られてしまったのである。佐藤によると、「因果関係に関していえば、『法則論的』は特定の事象で成立していると考えられる、一般的に定義された因果に関わる面をさす。『存在論的』は特定の事象におけるそれ以外の面をさす」。これだけの引用では分かりにくいが、大雑把に言えば、「存在論的」なものは特定の事象から「法則論的」なものを引いた「残り」、つまり、その時点での法則論的知識では捕えきれない部分である。ただし、「存在論的」な部分は法則論的知識の進展により「法則論的」な部分に繰り込まれていくだろう。「存在論的」というのは一つの独自な領域を成立させる特性を現すものではなく、「文化科学」とは何の関係もない。

 では、「適合的因果関係構築」とはどのようなものであるのか。

 事象の因果関係を把握するには二つの問題がある。一つは、データの扱いである。データが得にくいという場合の困難さは別にして、事象の中のどのデータがどのように関係するのかの見当をつけなければならない(完全なデータを得るのは不可能だが、たとえ完全なデータがあっても同じことがいえる)。データの検証はそれからである。二つ目は、事象の再現性である。同じような事象が何度か繰り返されるのではなく、極端な場合は一回限りであるとき、因果関係をどのように同定すればいいのか。

 この問題をクリアーするための方法として、V・クリースの影響のもとにウェーバーが採用したのが、「法則論的知識」の適用と「反実仮想」である。

 データを選ぶとき、ある程度の因果の予想を立てなければ、実用的な判断が下せない。このときに使われるのが「法則論的知識」である。これは既存の知識なので、因果関係が未知の事象への適用には価値判断がからんでくる。つまり、主観的であることは免れない。しかし、因果の検討を始めるためには、この価値判断はやむを得ないこととして容認しなければならない。

 「反実仮想」とは、一回限りの事象の場合、ある要素がなければ、その事象がどうであったかを仮想して、因果関係を検討するものである。この場合も、経験的知識の援用が必要なので、主観性の問題がついてくる。

 そのうえで、ウェーバーは確率的因果論を採用しようとした。すなわち、「『遊離と一般化』という言い方で、原因候補と結果にともに影響する他の変数の状態を同じにする必要があることを主題化していた」。

 ウェーバーは以後の方法論の論文でも、「適合的因果」の考えを保持し、さらに進展させようとした。ただし、死後(1921年)に刊行されたウェーバー最後の方法論の論文「社会学の基礎概念」では、彼の考えはさらに統計学的になるが、同時にV・クリースの引用はみられなくなり、彼の用語も使われなくなる。このこともウェーバーに対する誤解につながったのではないかと佐藤は推察している。

 では、ウェーバーの方法論的転換はどういう意義をもつのだろうか。ウェーバーは因果分析の方法論を示したが、具体的な方法までには至らなかった。佐藤によれば、現在では統計的因果推論によって次のことが分かっている。「一つの個体についてであれば、反事実的に定義される意味での原因かどうかを経験的に判定することはできないけれども、(a)特定の集団における、(b)結果事象の出現確率の大きさを決めるものであれば、一定の条件をみたす場合には、反事実的に定義される原因かどうかを、経験的な手段だけで判定できる」。詳しくは原書を見ていただきたいが、「無作為割当」によって、原因候補と「共変量」と結果の関係を調べ、期待値を導き出すという方法である。

 ただし、社会科学ではランダム化比較実験のようなことができるケースは限られてくる。「要するに、社会に関する反事実的因果の厳密な特定は、基本的人権などの、社会の基本的なあり方それ自体によって大きく制約されている。そこに、人間が人間を観察する営みである社会科学の、大きな独自性がある」。

 ウェーバーが評価されるのは、そういう制約のもとでの確率的因果論を展開しようとしたところにある。

 「現代の社会科学では統計的因果推論を用いることで、適合的因果における法則論的知識とはどんなもので、どう使われるのかや、個々の比較研究がどんな手法を使っていることかにあたるのかを、より適切に再定義できる」。「統計的因果推論の最大の功績は、おそらくそこにある。社会科学にとってどこまでが因果として考えられるのか、を明確にしてくれたのだ」。

 佐藤は「あとがき」で、日本語を母語とする人間として「今やれる仕事」は、「『ああ、日本語が読めてよかったなあ』と思ってもらえる本や論文を書くことだと思う」と言っている。この本を読んだ私の感想はまさにそうである。

 『社会科学と因果分析』はウェーバーへのオマージュと言えようが、佐藤は「ウェーバーを聖人君子とは思っていない」と言い、参考文献の一つとして、『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊―』(羽入達郎、ミネルヴァ書房、2002年)をあげている。

 その本を読んでみると単純に面白かった。ただ、ウェーバーを仰ぎ見るような心情とは私は無縁なので、この作品が著者自身が言うほど衝撃的なのか、よく分からない。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『倫理』論文と略す)は読んだが、一素人として、説得力は感じなかった。だから、その論理展開に重大な欠陥があると聞いても、そうなのかという素直な驚きしかない。

 この作品における羽入の論理は緻密で、参照文献も多くかつややこしい。そこで羽入の論理展開の順序は一応無視して、ウェーバーが『倫理』論文をどのように書き上げていったかを、羽入の推論に基づいて再構成してみよう。

 背景にあるのは、ある時期における、資本主義的な活動に従事する者の中のプロテスタントの比率の多さ、という認識である。ウェーバーは、フランクリンの『自伝』の、おそらくミュラーによる独訳を読み、そこでフランクリンによって引用された「箴言」22・29の中にBeruf(原文の英語はcalling)という言葉が使われているのに注目した。そして、ルターの独訳聖書がBerufという言葉を採用していることに結び付け、両者の間のつながりを証明しようとした。つまり、「資本主義の精神」を体現する世俗的なフランクリンと、「プロテスタンティズムの倫理」の権化であるルターとのつながりを証明しようとした。なぜBerufという言葉をウェーバーが重視したかは羽入の原著を読んでいただくことにして、多くの論争を引き起こしたそのつながりの証明について、羽入は文献学的に疑義を呈している。

 まず、ルターは「箴言」22・29においてBerufという言葉を採用しておらず、geschefftとしていた。そして、フランクリンのcallingをBerufと訳したのは独訳者であり、ルターのBerufが英訳聖書を介してフランクリンのcallingに至ったというルートがもしあるとしても、それは不明のままである。

 ウェーバーはそれらのことを説明する必要に気づいていた。そこで、Berufという言葉のルター的意味について、そして、Berufとcallingの関係について、ルターの独訳聖書から読み解こうとした。具体的には、ルターがBerufを採用した箇所である「ベン・シラの知恵」11・20、21や「コリントⅠ」7・20を使って証明しようとしたのだが、致命的なミスをいくつか犯している。たとえば、「ベン・シラの知恵」11・20、21のBerufをcallingと訳している英訳本はないこと、「コリントⅠ」7・20ではルター自身はBerufとは訳していないこと、など。その原因は、ウェーバーがルターの原書ではなく改訂されたその普及版を参照したこと、また、ウェーバーが英訳聖書におけるcallingの用例を、原書には当たらず、The Oxford English Dictionaryから得ていたこと、などにあると羽入は推測する。

 さらに、羽入はウェーバーによるフランクリンの解釈と引用についても疑義を述べている。ウェーバー批判の多くは、フランクリンにピューリタン的要素が見られないことを論拠にしているが、それはかえってウェーバーを利することになっていると羽入は言う。ウェーバーの論理展開は、宗教的要素の見られないフランクリンとルターを結びつけることに眼目があるからだ。もし、フランクリンにピューリタン的要素が見出されるのであれば、彼の性格は「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」の混合したものであり、ルターとのつながりが見出されたとしても、それは「プロテスタンティズムの倫理」でつながっているのであり、「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」のつながりを証明したことにはならないからだ。

 だからこそ、フランクリンの『若き職人への助言』からの引用をウェーバーは操作したと、羽入は批判している。その引用はフランクリンの非宗教的倫理性を示そうとするものであったので、その末尾のカルヴァン的な予定説を述べている部分を、たぶん故意に脱落させている、と。この脱落については大塚久雄も不審を述べていたのであるが、大塚にはその理由が分かっていなかった。フランクリンに宗教的要素があることは、たとえそれが残滓のようなものであっても、ウェーバーの論理展開にとっては支障をきたすのである。

 むろん、フランクリンのその文章は、フランクリンに宗教的要素があったことを明確に証明するものではない。単なる慣用的な言葉でしかないかもしれないからだ。しかし、だとしても、そのことを無視するのではなく、明示して、予想される反論に答えておくべきではないだろうか、と羽入は言う。

 ところで、フランクリンとルターに全く共通の要素を見出せないとしたら、それもウェーバーには困ることになる。そもそも両者のつながりが『倫理』論文の主眼なのだから。

 そこでウェーバーは、ピューリタニズムには無縁であるところのフランクリンに「啓示」が訪れたことを、彼の『自伝』を引用して示そうとした。しかし、羽入はそれをウェーバーの誤読だと指摘している。誤読の大きな要因は、ウェーバーが『自伝』を独訳でしか読んでいなかったことではないかと羽入は推論している(ただし、羽入は言及していないが、Berufがcallingの訳だということをウェーバーは知っていたのだから、少なくともその部分は確認したはずだ)。また、そもそものBeruf(calling)という言葉が注目される端緒になった部分についても、ウェーバーの解釈は間違っていると羽入は言う。

 さて、以上のような羽入の批判は説得的であり、彼の文献学的指摘についてはもちろん、そこから導き出される推論につても、根本的な異論は成立しにくいだろう。『倫理』論文の着想はよさそうに思えたのだが、立論に取りかかると穴だらけになってしまった、というのがウェーバーの状況だった。羽入の言うように、ウェーバーはフランクリンを「資本主義の精神」の体現者にするのをあきらめるべきだった。別の誰かを探すか、別のやり方で書き直すべきだった。しかしそれは難しく、結局は『倫理』論文を破棄しなければならなかったろう。ウェーバーはあきらめきれなかったのだ。些細な欠陥はあるけれども、何とみごとな構築物だろう。欠陥はいずれ修正できる、いまはできなくとも、適当な資料を見つければ修正も補強も可能になるはずだ。そう自分に言い聞かせて、とりあえずの改訂で取り繕おうとし、ある程度は成功した。

 ウェーバーへの崇拝と反発は、一部は誤りの上に成立した。ウェーバーがそれを望まなかったかどうかは分からないが。

[ 一覧に戻る ]