決定論は虚妄か?
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一ノ瀬正樹『確率と曖昧性の哲学』(岩波書店、2011年)を読んだのだが、決定論を敵視するような言い方にひっかかった。その点にだけ絞って疑問点を述べてみる。この本は5章からなるが、私でも扱いやすい第3章と第5章だけを取り上げることにする。まず、「第3章 生命現象は偶然的か」について。
一ノ瀬は決定論について以下のように言う。
こうした議論に対して、決定論のサイドは、すべてのことは決定されている、けれども、私たち人間の認識能力には限界があるので、そうした決定の次第についてすべて認識できないにすぎないのだ、と言うだろう。けれども、この論法に私は納得できない。私たちの認識能力に限界があるのならば、まずもって、未来までもが決定されているなどという大それた命題こそ、そうした限界を越えた主張であり、私たちには知りえない命題だと論じるべきではないだろうか。認識能力の限界を強調しながら、なぜ明らかにその限界を越えた未来についての命題を臆面もなく堂々と主張できるのか、不思議である。どうも私には、決定論の原理は自己破滅しているとしか思えないのである。(97ページ)
一ノ瀬は「序 不確実性のリアリズム」で、「私は、文字通りの主張としての決定論なるものはクレージーな『虚妄』であると捉えている」(ⅷページ)とまで言っている。さて、一ノ瀬の糾弾に対しては、同じ言葉を彼に返し得ると思う。なぜ一ノ瀬はすべてのことが決定していないと言えるのか。一ノ瀬は「けれども、私たち生身の人間が、果たしてどのようにして、どのような資格で、未来にまでわたるすべてのことが決定されているなどと主張あるいは断定できるのだろうか」(ⅶページ)と言うのだから、人間の認識能力に限界があることは認めているのだろう。だとしたら、同じように、すべては決定されていない(あるいは、すべてが決定されているわけではない)などと「主張あるいは断定」できるのだろうか。せいぜい、すべてが決定されているのかどうかは分からない、としか言えないのではないか。
一ノ瀬の決定論についての態度は狭量である。
けれども、ちょっと立ち止まろう。客観的偶然性としての傾向性というのは、事物や出来事の現在における一つの物理的あり方を意味する。だとすれば、それ自体は一つの決定された確定的事態なのであって、そうした傾向性を有する事態が継起してゆくこと、それが偶然性と呼ばれるのだとしたら、それは決定されている事態が連なってゆくということであり、決定論の描く世界と変わりないのではないか。その意味で、決定論的偶然性という捉え方はやはり的を射ているのではないか。そうした疑問が出もしよう。しかし私は、こうした見方もやはり過去性の持つ決定論からのすり替えであって、全時間にわたる決定論を正当に導くことはない、と考える。現時点での一つの確定され決定された事態が見届けられても、次の未来の時点においてどのように新たに決定されるのかは確定しているとは言いえない。せいぜい、未来の時点でも世界は何らかの傾向を持つだろうと言えるだけであって、そうした物言いはほぼ無内容であるし、それ自体蓋然的であって決定論的語りとはほど遠い。これまでも決定論だと言うならば、決定論という考えの外延が野放図に拡散し、結局は無意味化してしまうだろう。以上より私は、決定論的偶然性という捉え方を以下、考慮から外してよいと判断する。(110-111ページ)
しかし、決定論が「ほぼ無内容である」し、「結局は無意味化してしまう」としても、それだからこそ私たちは決定論を受け入れることができるのではないか。すべてが決定していて、しかも私たちがそのことを認識できるとすれば、私たちの存在はいまあるようではないだろう。
では、決定論というのはどこに足掛かりがあるのだろうか。一ノ瀬は「進化の帰結としての確率」について述べているが、彼にならって「進化の帰結としての」決定論というものを考えてみよう。一ノ瀬は言う。
更新世の人類とて、獲物を捕獲するとき、いくつかの方法の成功率とか、眠る場所やねぐらの構造などの条件に応じた危険性の度合いとか、私たちのいう「確率」や「条件つき確率」の概念について、言語的な定式化とは言えないにせよ、何らかの理解は持っていたはずだと考えられる。こうした理解を正確に持つことは、生存や繁殖成功、つまりは適応度に深く関わっていたと考えることができる。(157ページ)
ここから一ノ瀬は、確率が「進化の産物」であり、「進化の過程になんらかの形で関与していた一種の形質として考慮の対象となってくる」とみなす。そこで、以下のように結論づける。
しかるに、ここに自己言及性が発生しているならば、進化理論が描こうとする自然選択のシナリオには根本的な次元で不確実性が入り込んでくる。本来的に偶然性が染みわたっている。その限り、自然選択と遺伝的浮動とを明確に区切ることはできない。換言するならば、自然選択という現象をなんらかの仕方で決定論的に語ろうとすることは、決定論それ自体が狂信的であるということを別にしても、一種の欺瞞なのである。(159ページ)
さて、一ノ瀬の推測に対しては推測でしか返せないのだが、「更新世の人類」は確率よりも決定論的な因果関係に頼っていたと考える方が妥当ではないだろうか。このことは現在の私たちの心理や行動の中に多くの証拠を見出せるはずだ。もしそうなら、決定論は「進化の産物」と言えるだろう。つまり、「進化理論が描こうとする自然選択のシナリオには根本的な次元で」決定論が「入り込んでくる」、「本来的に」決定論が「染みわたっている」ということになるのではないか。私たちが決定論的に考えるのは、そう進化してきたからであり、だから進化をそう考えるのだ、という自己言及になっている。
私たちが決定論的に考えがちであり、しかも、そのようにして生き伸びてきたということは、世界が決定論的であるのかもしれない。ただ、私たちの使える決定論はおおまかなので、世界の決定論的様相を全て把握できていない、そういう風に考えることは「クレージーな『虚妄』」なのだろうか。
2
次に、『第5章 自由は生命現象か――時制差と自由度の導入』を見てみよう。第4章の末尾で、一ノ瀬は、「『自由』概念の中心的な意義は、自発性の自由であれ拘束からの自由であれ、『他のものに強制や束縛をされていない状態』ということ」(230ページ)と言っている。さらに、「『自由』かどうかは実は当人には分かりにくい」、「自分で『自由に』振舞ったと思っていても、客観的には、誰かの誘導の元にあることなどが多々ある」(231ページ)と言っている。つまり、主体の主観的な経験は、自由を評価するのには信用できないデータである。それゆえ、自由の評価は第三者の検討に委ねなければならない、ということだろう。
そうであるとすると、たとえば主体がある行為をした場合、なぜその行為をしたのかということについての主体の意識している理由は、主体のなした行為となし得た行為との関係を説明できない、ということになると思われる。では、第三者はどのようにして主体のなし得たかもしれない行為を把握するのか。主体の置かれた状況(主体自身の身体的状況も含む)から判断することになろう。そこで、主体の自由が制限されていたというのは、主体の行為選択が、なし得た(なし得る)諸行為の範囲をすべて対象とはしていない、つまり、可能な範囲より制限された範囲を対象としていたということであると言えよう。しかし、それがどうして分かるのだろうか。違う行為ができたはずだと言うだけでは何の説明にもならない。主体の選択した行為が、客観的に見て何らかの不適切性があると判断されるからではないか。つまりある状況における最適行為というものが想定され、主体がそれを選ばなかったことが、自由の制限とみなされる。つまり、何らかの理由で主体がそれを選べなかったとみなすわけだ。しかし、主体の選んだ行為は、どのような条件下であれ、また結果がどうであれ、主体にとっては最適な行為と思われたとみなさなければならないはずだ。だとすれば、第三者によって他の可能性が見出されたとしても、それが主体の自由を評価する手立てにはならないのではないか。
一ノ瀬は自由を回顧的な自由(p-自由)と展望的な自由(f-自由)に分け、いずれも条件文として定式化できるとする。p-自由の場合は反事実的条件文となり、以下の三つ(a~c)の例があげられている。(d)はf-自由の条件文の例である。(241-2ページ)
(a)もしその特定の行為時にその気になったならば、あなたは別の仕方でも行為できたはずだろう。
(b)もしその特定の行為時の状況にもう一度舞い戻ったならば、あなたは別の仕方ででも行為できたはずだろう。
(c)もしこの現実世界にきわめて類似した可能世界にあなたがいたならば、あなたは別の仕方でも行為できたはずだろう。
(d)もし私がある外国に行こうと思うならば、いつでもその国に行けるだろう。
(a)の文のカナメは「その気」である。つまり行為の動機である。動機が変われば行為が変わるかもしれないのは当然だろう。では動機は何の理由もなく変えられるのだろうか。行為の動機がその人のその時点での最適行為の選択に結びついているのであるならば(動機と行為の間に何らかの過程があるとしても)、その人の状態も含めた状況に変化がなければ、動機も変わらないだろう。つまり、全く同じ状況ならば、そこでの「その気」とは別の「その気」は起こらないはずだ。
(d)にも同じことが言える。「思うならば」というのは「思いついたならば」を連想させ、気まぐれな判断というような意味で自由をもたらしているように見える。しかし、これも動機に関わることなのだ。「ある外国に行こう」という決断はどこから出現するのだろうか。それは「私」が「私」の状況において最適な選択として判断するからこそ「思う」のではないか。状況が変わればその判断も変わるだろう。
動機というあいまいな要素を隠したとしても、問題は解決しない。(b)と(c)はちょっとした誤魔化しをしている。(b)では「舞い戻った」という言い方をしているが、もし現在のあなたが過去に「舞い戻った」としたら、過去のあなたと同じ「仕方」で行為しないかもしれないのは当然である。現在のあなたは過去のあなたが知らなかった情報を得ているからだ。「別の仕方でも行為」するためには、過去のままのあなたでは都合が悪いのだ。(c)では、「きわめて類似した」という言い方をすることで「同じ」と言うのを避けている。まったく同じ状況なら「別の仕方」で行為する理由はないだろう。「きわめて類似した」と言う言い方は、何らかの要素に違いがあるがそれは大したことではないと強引に認めさせようというのだ。
一ノ瀬の例文を、できるだけ意味を保つようにして以下のよう書き直せば、同義反復的になってしまう。
(a)もしその特定の行為時にその気になったならば、あなたはその気になって別の仕方でも行為できたはずだろう。
(b)もしその特定の行為時の状況のあなたが別の時点のあなたであるならば、あなたは別の仕方ででも行為できたはずだろう。
(c)もしこの現実世界とは多少とも異なった可能世界にあなたがいたならば、あなたは別の仕方でも行為できたはずだろう。
(d)もし私がある外国に行こうと思うならば、行こうと思っていつでもその国に行けるだろう。
さて、一ノ瀬は「自由度」という考え方を提示する。自由か自由でないか(決定されているか)という問いは不毛であり、どの程度の自由さなのかを問うべきであるというのだ。一ノ瀬の主張を正確に理解できたのかどうか分からないが、私なりに解釈すると、自由度とは選択しうるオプションの多さと広がりによって計られるもののようだ。ただし、自由度に関わるオプションとは、社会的な適切性、つまり規範に関わるものであり、そうでないオプションがいかに多く、また広くても自由度とは関係ない。
自由度は、p-自由において、責任の度合いと関連づけられ得る。自由度が大きければ、責任度も大きくなる。つまり、多くまた広いオプションを選択し得る上でその行為を選んだことについて、より大きい責任が問われることになる。自由度が小さければ逆になる。
自由度の計り方について、一ノ瀬は「第三者の観察者の視点に立った上で、物質的証拠や脳状態などについての科学的あるいは医学的方法、主観的確率によるベイズ主義的手法などを総動員して」(255ページ)行うべきだと言っている。
一ノ瀬は動機といったような主観的な要素をできるだけ排除したいようである。しかし、客観的に見ていかにオプションが多様であろうと、そのことと選択の決定が関連しているとは必ずしも言えないであろう。たとえば、ある選択がなされたとして、もしその際に追加のオプションが提示されていたらと仮想した場合、必ずしも選択が変更されると想定されないであろう。また、オプションの追加によって選択が変化するのであれば、オプションの幅が広がったことに注目するより、追加されたオプションの性質に注目すべきであろう。オプションは動機との関係をみなければ本来のオプションにはならない。
では、オプション間の差異を小さくして、選択の対象となるオプションを増やしていけば、自由度が増すことになるであろうか。しかし、動機はオプション選択を迫るのであり、最適なオプションを選ぶことにおいて迷う必要がない状態が好ましいのである。つまり、動機にとっては決定論的な方が好ましい。オプション間の選択が困難なとき、つまり、どのオプションを選んで結果に差がないとみなされるとき、動機の観点からは好ましくない。どのオプションでも選べるということが自由なのであれば、自由というのは、選択ができるのではなく、選択ができない(迷う)ということになってしまう。何でもできるということは、何もできない(何か一つのことを差別化できない)ということなのである。
では、自由というものを私たちが感じるとすれば、それはどういう心の状態なのであろうか。オプションは勝手に(自動的に)与えられるものとは限らない。オプションは主体によって見出されるものでもある。ある状況下で最適なオプションを見出したとき、自由が感じられるのではないか。むろん、選択した行為によって必ずしも予期された結果が得られるわけではない。場合によっては予期したよりもよい結果を得ることもあるだろう。また、結果の不確かさのため、確実さを求めて目標の水準を切り下げるということもある。しかし、いずれにせよ、決断のときには結果は未定であり、結果によって判断を評価することはできない(むろん。過去のこととしての評価はできる)。自由とは決断できるということではないだろうか。予期することも、決断することも、予期と結果がずれることも、決定論との齟齬にはならない。