二元論入門
二元論などというものはとっくに片が付いているものと、私は思っていた。しかし、そうでもなさそうである。心身問題ないしその一部である心脳問題というのは解決が難しいものらしい。心脳問題とは、脳という物理的なものの現象と、主観的であり物理的な実体のない心的な経験とを、どう関係づけるかという問題である。
とっかかりとして、『脳がわかれば心が分かるか 脳科学リテラシー養成講座』(山本貴光・吉川浩満、太田出版、2016年)を読んでみた。この本は、題名からも分かるとおり、脳科学によって心が解明されるという見解を安易なものとして批判している。
心身を一体であるとみなすのが一元論である。一元論には唯心論と唯物論がある。唯心論とは、あるのは心的経験だけであり、物理的現象というのは心的経験でしかないと主張する。唯物論は逆に、あるのは物理的現象だけであり、心的経験というのは物理的現象に何らかの形で含ませることができると主張する。
現在では唯心論の論者は珍しい。一方、唯物論は常識的な見解であるように思える。しかし、心的経験を物理的現象として説明するのは、私たちが思っているほど簡単なことではないようだ。それゆえ、厳密さにこだわる人は二元論を持ち出してくる。脳の物理的現象と心の主観的経験は全く別のものであると主張するのだ。むろん、二元論ですべてが解決できるというのではないが、唯物論的一元論で心脳問題が解決できない以上、二元論を認めざるを得ないのではないか、というわけだ。
山本・吉川によれば、現代の一元論の主なものとして、「脳心因果説」(脳を心の原因とし、心を脳の結果とする)、「脳還元主義」(人間の心というものは脳内の分子運動にすぎない)、「心脳同一説」(脳と心は同じものの別の見方、別の記述の仕方にすぎない)などがあるが、いずれも十分な説明になっていない。
二元論の克服ということで山本・吉川が推奨するのが、大森荘蔵の「重ね描き」という理論である。山本・吉川によれば、この理論によって、心脳問題自体が存在しないことになる。つまり、心脳問題が解決されるのではないが、解消されてしまうのである。
そこで、大森の『知の構築とその呪縛』(大森荘蔵著作集第七巻収録、岩波書店、1998年)を読んでみた。大森によれば、科学的な見方は、日常の自然的な態度としての見方(略画)を細密画化したものであり、本来両者に矛盾はない。しかし、科学は、感覚や感情などの扱いにくい現象を主観的現象とみなして、科学の扱う客観的領域から追放してしまった(つまり、二元論的状況を作った)。そして、科学は、その世間的な成功によって、自らの見方を私たちに押しつけ、私たちは感覚・感情による自然的な見方を放棄させられてしまっている。しかし、二つの見方を重ね合わせるという簡単な方法によって、その問題は回避することができる。
大森は、科学がデカルトの二元論を継承して、客観的なものと主観的なものの区別の上に論理展開しているとみなしている。大森は言う。「痛み、色、音、その他の感覚的性質はガリレイ・デカルト以来の近代科学において『物』から排除されてきた。だから現代科学の『物』を語る言語ではそれらを『描写』できないのである」。あるいは、「一方、知覚因果説ではガリレイ・デカルト以来、この『物』と『知覚像』とは別種のものとして分離され、『物』は客観世界に、『知覚像』は主観的意識にと別居しているものとして考えられてきたのである」。
大森自身は一元論者である。二元論は、科学が、いや、近代科学の発生時の特殊事情(デカルトなどの存在)が作り出したものである、と大森は言う。だから、心とモノの二元論は大森にとっては見かけだけのものである。本来一体であるものを、科学が二分したのだ。感覚・感情が心的なものとされるのは、科学のでっち上げである。
大森の主張に対しては、二つの疑問が生じる。一つは、デカルトの二元論についてである。デカルトにおいては、モノに対立するのは理性的精神なのだ(そのことはデカルトについての大森の解説でも触れられている)。二元論で言い直せば、大森がデカルトや科学に見ようとしているのは感覚・感情対モノの二元論であるが、デカルトは理性的精神対モノの二元論なのだ。デカルトにとって一元化できないのは、感覚・感情ではなく、理性的精神なのである。
大森はデカルトの「人体機械」について言及しているが、もし人間に限りなく近いロボットが作れたとして、完全に人間そっくりにするには、何が欠けていることになるだろうか。デカルトは理性精神とみなした。コンピュータの出現により、機能としての理性は機械によって代替できることが予想されるから、私たちはデカルトが誤っていたとみなす(ただし、精神、つまりは意識についての謎は依然として残っている)。では、感覚・感情はどうだろうか。これこそ人間的なものだろうか。しかし、感覚や感情も、デカルトが予想した通り、機能としては機械化可能である、というのが科学者の言い分だろう。心的なものは、機能としては、つまり、外から見る限りは、ロボットに備わることが、理論的には可能である。
そこで、疑問の二つ目になるが、科学は二元論を容認してはいない。科学は二元論を解決しようとしてきたのである。科学は主観的なものも客観的に捕えようとしているのだ。科学が唯物論的一元論に立っているからこそ、科学ではとらえきれない心的経験が問題になるのだ。
大森の科学批判は、そのことに無頓着である。科学が一元論をとることを認めれば、一元論者である大森には批判の必要がなくなる(一元化の仕方に異論はあるだろうが)。大森の批判は、あくまで科学が二元論を作り出したことに向けられている。
科学による感覚・感情の扱いについては、大森は「知覚因果説」として批判する。二元論と知覚因果説を組み合わせることによって、大森の科学批判と、その乗り越えとしての重ね描きが出てくる。大森によれば、私たちは、科学に誤解させられて、無色・無音・無感の粒子の塊である客観的な「物」(大森の例でいえば鉄原子集団)を、色や音や感触のある「知覚像」(大森の例では黒い鉄片)として主観的に捕えている、と思い込んでいる。つまり客観と主観の二元論に陥っている。しかし、鉄原子集団と鉄片は同じものであるとして重ね描きをすることで、この二元論は解消する。
しかし、大森も認めているように、誰も(科学者でさえ)こんな風に知覚を扱ってはいない。誰も二元論に陥ったりはしていない。科学者は素朴実在論者なのだ。だからデカルトの懐疑論にも無縁である。
ここで問題になっているのは、科学の能力についてなのだろう。大森に代わって、山本・吉川はそのことを詳しく述べている(大森が同意見とは限らない)。山本・吉川は科学が二元論を克服できないことの理由を、科学的方法の「一般化」と日常的経験の「個別性」の、あるいは科学の「同一化」・「固定」と日常の「流れ」・「持続」の、対立・矛盾に求めている。しかしながら、山本・吉川が言うように、日常生活が「流れ」・「持続」(そもそもこの二つは相反しないのか?)と親和的であるということを、当然視できるのだろうか。簡単な例をあげてみよう。山本・吉川は「音楽は持続するメロディのなかだけにあって、これを音符という同一性で切り取ってみてもメロディは消失してしまいます」と言っている。しかし、デジタル録音した音楽を再生したとき、それを「持続」としての音楽ではないと私たちは判断できるだろうか。アナログとデジタルの違いが分からない私たちにおける「持続」とは何だろうか。
山本・吉川は、言語が「変化する現象」を切り取って「同一性」としてしまう、つまり「持続」を取りこぼしてしまうものと見なしているが、これは科学においても日常生活においても変わりはないのではないか。言語を媒介せずに「物と自然」に直接対峙するのが理想なのであろうが、それだけではどうしようもない。主観的経験の表現には言語が必要なのだ。
山本・吉川の議論は、本来はもっと厳密なものであるのだろう。しかし、この本で示された内容では説得力がない。言葉の使い方だけも次のように反論できるだろう。そもそも、「同一性」を保持するためには、「同一性」が「持続」されなければならないのではないか。「同一」「一般」「固定」「個別」「流れ」「持続」などの言葉は融通がききすぎる。それらで科学と日常生活を対照させようとするのは粗雑すぎはしないだろうか。
山本・吉川は、科学の権威を借りた信念が人々に植え付けられ、そのような信念によって人々の行動が影響を受けるのではないかという疑念を呈する。そのような信念に毒されることなく、本来的な行動をすべきだというのである。
このような主張には検討すべき点が二つある。一つは、科学的信念を排除した(あるいはそれに影響される以前の)本来の行動とはどういうものであるのか。思いつくのは、個人の実感に基づくということである。科学は、個人が「感じる」内実や、個人的な経験を無視していると考えられているのだから、それらを活用しなければならないのだろう。はたして、このような実感信仰は科学信仰に比べてましなのだろうか。
もう一つは、信念は科学からもたらされるだけではないということだ。宗教や、権威者や、身近な他者の意見や、個人的経験の検討などからも信念は形成される。それらの信念に比べて、たとえ疑似的であるとしても、科学的な信念は弊害の大きいものなのだろうか。
つまり、科学の越権行為から守らねばならないと思われるのは何なのだろうか。自主的な思考だろうか、素朴な実感だろうか、豊かな情感だろうか。そもそも、そういうものが実際にあるのだろうか。それこそが、山本・吉川も懸念する、「信仰」や「渇望」の対象ではないのだろうか。