デカルトと科学
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冨田恭彦『観念論の教室』(筑摩書房、2015年)を読んで、教えられることがあった。
冨田は言う、「西洋近代に、原子論が『粒子仮説』(corpuscularian hypothesis)として復活するとともに、科学がもともと持っている二重存在の考え方が大きく知識人の考えを支配することになります」。冨田によれば、科学者が物質を研究するとき、微細な粒子という色も味も匂いも熱さも冷たさもない仮説的な存在からなっていると考える方が都合がいい。デカルトもそのような考え方の影響下にあったようである。(ただし、『哲学の原理』によれば、デカルトは粒子という考えには否定的で、物質はいくらでも分割可能であると考えていた。)
もし、物質がそういうものであるなら、色や味や匂いや熱さや冷たさを私たちが感じるのはなぜなのか。デカルトは、私たちが感覚として捕えるものは観念として心の中に生じているものであり、科学者が対象とする物質とは切り離して考えるべきだとした。つまり、デカルトの二元論は、一方で科学者としてのデカルトがモノの世界の本質を「延長」とみなし、他方で哲学者としてのデカルトが主観主義的な心の世界を確信することによって構成されている、と理解される。
ここからはしばらく冨田から離れて考えてみよう。デカルト二元論への現代的批判は、心を特別扱いした点に向けられている。デカルトにとっては、心はモノと精神を結びつける場なのである。したがって、心の身体器官的機能は半分だけであり、残りの半分は精神のためにある。それに対して、現代の科学は心を脳と同一視する。つまり、心は身体というモノの一部とみなされるべきであり、モノとして理解可能であるとみなす。
ただし、心的現象とモノの世界の関係を究明するという科学者の態度は、デカルトと共通していると言える。デカルトにおいては、外部世界の情報は身体の物理的メカニズムを経由して心に至る。デカルトの考えたそのメカニズムは現在の知見からは否定されるものであるが、モノの作用として捕らえようとしたのは科学的と言えよう。
ところが、さらにデカルトは言う。身体の情報伝達機能には何らかの支障があって、外部世界の情報は感覚情報という混乱したものになってしまっている。一方で、精神は外部世界の正しい姿を把握できている。そういうデカルトの見解は、科学者には受け入れ難い。精神や感覚も含めた心的現象の全てがモノ(肉体、脳)の作用に還元できるというのが科学者の一元論的な立場である。
ただし、科学者の一元論とはなじまない「意識」という問題がある。なぜ外界が意識の内容として認識されるのかという疑問である。精神を意識とみなせば、デカルト的二元論はいまだ解消されていない。
デカルトの二元論は、精神とモノによって構成され、心的作用としての感覚・心情はモノのうちに含められている。モノの世界を見る外的存在としての精神と、精神によって関係づけられる、モノとしての「外界」と「心身」。つまり、外界と心身の二元論は、精神とモノの二元論の下位の二元論であり、二重構造になっていると考えられる。
日常的世界観が一元論的であるというのは、上位の二元論が抜け落ちている(非反省的)という意味においてである。そして、日常的世界観が下位の次元において一元論かというと、そうでもないのではないか。モノと心の二元性は日常的世界観にも組み込まれている。デカルトはその二元論を解消しようとしていたとも言える。
デカルトは、心にもたらされる感覚のデータのうち、信頼できるものとできないものを精神によって見分けることができるとしている。ただし、あやふやなデータの提供者ではあっても、感覚が備わっているということは、無用であるとか有害であるとは考えられていない。冨田によれば、「デカルトによれば、感覚は本来、心と体が合一した人間にとって、何が都合のいいものであり何が都合の悪いものであるかを知らせるものであって、外のある物体の本質を認識させるものではないのです」(196ページ)。
冨田はデカルトを次のように評している。
デカルトが、一切を疑問に付していったんすべて廃棄し、「我あり」という第一原理から始める公式的路線をとりながら、その背面では、蓋然的なもの、他分野で獲得されたものを言わば縦横に組み込むという仕方で、彼の形而上学は成り立っていました。厳しい言い方をすれば、彼の第一哲学は、その強烈な学問観にもかかわらず、実際にはそれとは異なるある信念のネットワークを提示したという点で、そのもくろみに関する限り、破綻しています。(297ページ)。
ですから、本当のところを言えば、「明証性の規則」が原理として本当に大丈夫かどうかなんて、実際にデカルトがやっていることからすれば、結果的にはどうでもよいことになっているんです。「明証性の規則」が妥当するかどうかとは関わりなく、彼は、自分が真であると確信しているものをどんどん積み上げて、神の存在証明をするのです。
しかも、その神の存在証明は、神の善性(つまり、神は欺く者ではないということ)を証明するためのもので、この手続きは、物体の存在を回復するために、きわめて重要な役割を果たしましたよね。私自身は、デカルトの第一哲学の論理としては、そちらのほうがはるかに重要だと思っているのです。(281-2ページ)
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デカルト的二元論の批判者として大森荘蔵がいることは別のところで述べた。デカルトが粒子仮説的な考えの影響下にあったのならば、大森の批判は正しかったのだろうか。デカルトが世界から色などの感覚情報を追放してしまったことは事実であるのだから。
大森から言わせれば、外界が意識内容として把握されるのは、外界の性質と意識内容は一体なのだからであり、そこに齟齬はないということであろう。(しかし、後述するように、齟齬は見出されるのである。)
大森は、日常的な世界では心とモノは一体であるのに、デカルトに影響された科学者が心とは別のモノの世界という見方を人々に押し付け、人々の世界観を分裂させていると言う(ここで非難されている科学者は、デカルトを批判する一元論者ではない)。大森は、デカルト(とデカルトに影響された科学者)が、感覚を心の中の現象に過ぎないとして、モノの世界から追放し、モノの世界を味気ないもの、情感のないものにしてしまった、と考えている。つまり、大森のデカルト批判は価値論的でもある。
大森は科学的世界観が日常的世界観を蝕んでいるとみなした。大森の批判点は、感覚・心情が主観的なものとされてしまうことと、その結果、本来モノに備わっている「感じ」がモノから剥奪されてしまうことにあると思われる。そこから導き出されるのは、科学的世界観を棄てて、心とモノを分離しない日常的世界観に戻れ、ということになるはずであるが、大森はそうせずに、二つの世界観を「重ね描き」することを主張する。大森が科学的世界観を排除しないのは、それが持つ有用性を無視できないからであろう。ということは、大森自身も、日常的世界観と科学的世界観との並立を認めていることになる。そして、その並立を克服しようとする「重ね描き」において取り落とされてしまったのが、心とモノを結びつけようとするデカルトの試み(そして科学者の一元論)なのである。
ところで、大森が言うようには、世界は私たちと一体化しているわけではない。たとえば、色がモノに固有の性質であるとはいえない。光が遮断された場所ではモノの色は失われる。違う色の光に照射されればモノの色は変わる。他の動物と私たちが見ているモノが同じでも、そのモノの色はそれぞれで異なって見えていることが推察されている。厳密に言えば、私とあなたが同じ色を見ているかどうかも分からない。
進化の過程で外界に適応する際、生物は外界そのものを認識するのではなく、独自の方法で把握することを選んだ。彼らは生き延びるのに最適な方法を選んだ(正しくは最適な方法を取った者が選ばれた)ということなのだ。そのため、感覚の特化が、ときに錯覚を現象させる。錯誤がシステム的に組み込まれているのだ。
その意味では、大森が言うように、人間にとって世界はあるがままのものなのである。しかし、その場所にとどまっていられなかったのが人間なのだ。人間は自分自身が限界づけられた認識者であることを知り、その限界を越えようとする。その営みの最有力なのが科学である。
さらに、科学はデカルトの時代の様相のままに留まってはいない。科学は技術を伴いながら発展し、技術によって私たちの感覚も操作しうるようにもなっている。様々な機器による感覚体験は無垢な現実体験とは区別されるものだろうか。科学は思考(観念)だけでなく、感覚にも影響するのである。大森が科学的世界観と日常的世界観を重ね書きしようとするなら、このような現象をどこに含ませるのだろうか。
重ね書きするためには発展する科学技術についての継続的理解が必要になる。そもそも、人々は知らず知らずのうちに科学的世界観を植え付けられているという大森の考えは妥当なのだろうか。科学はとっくに私たちの常識から乖離している。科学は学ばないと手が届かないのであり、大森の心配するようには私たちを支配できてはいないのである。
大森の重ね書きの前提として、科学が日常的世界観を心的なものとみなし、客観的世界と分離したという認識があり、それに対しての、日常的世界観こそが客観的世界であり、観念(心的なもの)であるのは科学的世界観の方である、という批判がある。つまり、どちらが事実でどちらが観念かという二元論間の争いにすぎないのではないか。だから重ね書きの結果としては、事実と観念の二重像という、どちらが事実でありどちらが観念であってもかまわないということになってしまう。
そして、デカルトの二元論が、世界とそれを認識する精神の二元論であるならば、大森においても同じことがいえるのである。つまり、日常的世界観と科学的世界観が現象している世界を大森の精神が見ていることになる。
私が大森に反対するのは、心とモノが一体であるとしても、その一体性の中でどのようなメカニズムが作用しているかを追求せず、ただ情緒性を受け入れるだけで済ませてしまおうとする点である。科学的世界観に欠けているものがあると批判するならば、欠けたものを補うという知的な営みが必要なのではないか。