井本喬作品集

空中の椅子

 ヨーロッパのスキー場ならこんなときに滑る奴はいない、と知ったかぶりの文明批評家が言うような天候だった。限られた休暇の日数と、どっちにしても支払わなければいけない費用のことを考えれば、この程度の天候で滑るのをあきらめたりはしない、日本人なら。急斜面と緩斜面の二つのコースがあれば、急斜面を選ぶのはアメリカ人と日本人だという話があるように、ガッツの差なのかもしれない。とにかくゲレンデは吹雪いていた。これ以上強くなればリフトが止まるぎりぎりの風だ。フードをかぶり、ゴーグルに、あればフェイスマスクをつけて、凹凸の定かでない斜面を他人にぶつからないよう滑らなければならない。それでも滑っているときはまだしも、風に吹きさらされながらリフトで空中を進むのはたまらない。午後になるとさすがに人はまばらになった。

 第三ゲレンデの上のリフト降り場で、二人の青年が仲間を待っていた。一人は海老茶のジャケットにグレーのパンツ、もう一人はモスグリーンのジャケットに黒のパンツ。雪面にすわり込むのは寒すぎるので、二人ともボードから片足を外して立っていた。リフトのうち人が乗っているのは一割もなく、空のリフトばかりが上がってくる。そのうち待っていた娘が乗ったリフトが現れた。パステル調の水色のジャケットに薄い黄土色のパンツ。浅く座って足が伸ばされ、フードをかぶった頭が垂れている。海老茶が声を出した。

「危ない」

 降り場の斜面の上に来たとき、垂れ下がったボードが引っかかったのか、娘の体がリフトから投げ出された。荷重を失ったリフトがゆれながら娘の体の上すれすれに通り過ぎる。娘の体は雪の斜面を滑り落ち斜面の途切れた下へ消えた。監視所の中にいた係員がリフトを停め、飛び出してきた。二人の青年はすぐさまボードを装着し、娘の落ちたところへ滑り降りた。リフト降り場はゲレンデの端にあるので、娘の落ちたところは深い雪の中だ。しかも降り場から落とした雪が積もっている。二人はボードを外し、ラッセルをして娘のところへ行った。海老茶が声をかけた。

「大丈夫か」

 娘は答えない。海老茶は娘の体を揺すった。反応はなかった。

「意識がないようだ。頭でも打ったのかな」

「どうしよう」

「動かさない方がいい。助けを呼ぼう」

 そこからはリフト降り場は見えず、係員もどこにいるか分からない。海老茶がモスグリーンに言った。

「リフトの電話で連絡してもらってくれ」

 モスグリーンはゲレンデに出て、リフト降り場へ登っていった。係員は降り場の端から下を見ていた。滑るので斜面までは行けない。リフトは止まったままだ。

「医者を呼んで下さい。ケガしてるようだ」

 係員は監視所に入り、電話で話をし始めた。モスグリーンはいらいらして待っていた。何かやり取りがあり、誰かの判断を待っている間があった。やがてリフトが動き出し、係員が出て来て言った。

「パトロールがすぐ来ます。下へ降ろします」

「リフトには乗れませんよ」

「スノーボートを持って来ます」

 モスグリーンはゲレンデを下り、娘のところへ戻った。海老茶は仰向けに横たえられた娘の傍らにひざをつき、胸を押していた。娘はゴーグルがはずされて顔をあらわにしていた。

「小川さんじゃないか」

「そう。服装は岩崎さんだけど。それより、様子がおかしいんだ」

「悪いのか」

「息していないみたいだ」

「まさか」

「手伝ってくれ」

 モスグリーンは海老茶の傍にかがみこんだ。海老茶は位置を変え、娘の口に息を吹きこんだ。海老茶に代わってモスグリーンが娘の胸に手を置いた。

「どうしたんだろう」

「分からない」

 二人はパトロールが来るまで心肺蘇生を続けた。

 リフトから落ちた娘の死が事故ではなく、犯罪であることが分かったのは、検死によってだった。娘はスノーボートでゲレンデの下まで運ばれたが、既に死亡しているので病院には搬送されず、警察による検死が行われた。検死で絞殺と判断され、翌日の解剖で確かめられた。二人の青年は事情聴取され、スキー場関係者や近辺に宿泊している利用客への聞き込みが行われた。

 警察では捜査会議が開かれた。事件の状況が担当ごとに説明され、全体像が明らかにされる。被害者は小川麻美といい、情報機器メーカーの営業部門に勤めている。三人の同僚と一緒に遊びにきていた。舟木(海老茶のジャケット)と長谷川(モスグリーンのジャケット)という二人の青年と、岩崎由紀という娘。四人は午前中から滑っていたが、天候の悪さと技量の違いでバラバラになりがちだった。事件の起きたとき、ケイタイで連絡を取って、第三リフトの上で集合することにした。最初に長谷川が着いた。しばらく待っていると舟木がリフトで上がってきた。二人が待っていると小川麻美が上がってきてリフトから落ちた。岩崎は小川から第四ゲレンデ下のレストランで待つように言われて、ずっと待っていた。

 リフト乗り場の係員は、状態のおかしい女性がリフトに乗るようなことはなかったと証言した。たとえ誰かが支えたとしても、死体をのせるようなことをしたなら分かると主張した。リフトに乗った人間についての記憶はあいまいだった。ゴーグルをつけ、フードをかぶっていては顔は分からない。たとえ分かっても、いちいち記憶することはない。服装にしてもよっぽど変わったものでなければ気にとめない。事件の起きたときも、乗客は少なかったが、詳しくは憶えていない。被害者らしき女が男と二人で乗ったような記憶はあるが不確かである。一人で乗って行った人間は何人かいる。

 有力な情報が一組の客から寄せられていた。事件のあった時刻前後に、第三リフトから男が飛び下りたのを目撃したというのである。目撃したのはアベックで、初心者の女性を男性が助けながら林道コースを降りていたときだった。リフトが林道コースを越えるとき山側の斜面に近づくところがあり、リフトに乗っていた二人のうちの一人の男が、リフトにぶら下がり、雪面に飛び下りた。男は転倒したが、すぐ立ち上がってコースを滑り降りていった。服装は黒っぽかった。リフトは反動でゆれたがそのまま動いていった。リフトに残っていたのは水色のジャケットの女のようだった。

 これらの証言を総合すると、被害者はリフトの上で男に絞殺され、犯人はリフトから飛び下りて逃走したという経過になる。動機については今のところ不明だが、あんな場所で強盗や強姦をするとは考えられないので、顔見知りの犯行と思われた。しかし、スキー場へ来て知り合ったのかもしれないし、リフトという密室でいたずらをしようとした可能性も否定できない。

 ただ、おかしな点が二つあった。一つは、被害者が岩崎(もう一人の女性)と同じ服装をしていたこと。服装を交換したのではなく、わざわざ揃えたものを持ってきていたらしい。そのことは他の三人は知らなかった。事件のあった日も、ゲレンデに出るときは、違う服装だった。さらに念のいったことに、被害者は、岩崎がレストランの前に置いていたボードを、自分のと交換していた。第二の疑問は、被害者が岩崎に間違った情報を伝えて、現場から遠ざけていた。被害者は第三リフトでの集合よりも早い時点で岩崎にレストランで集合と伝え、第三リフトでの集合を彼女に伝えることを引受けながら黙っていた。つまり、被害者は岩崎に成り代わって、第三リフトの近辺で誰かと会うつもりだったのではないかと考えられる。そのことについては岩崎には心当たりはなかった。

 捜査員は意見を述べあった。

「ストーカーということは考えられませんか。岩崎にストーカーがつきまとっているので、被害者が岩崎に変装してストーカーを誘き寄せようとして、逆に殺されてしまった」

「それならば、岩崎や一緒に来ていた男達に言うはずだろう。一人きりでそんな無茶をやるはずがない」

「岩崎からは、ストーカーの話はありませんでした。でも、こちらから聞いたわけではないので、確かめてみる必要はあるでしょう。岩崎が皆に隠して悩んでいるのを、被害者が知って義侠心を出したということも考えられないでもない。そうすると、ストーカーがスキー場まで追いかけて来ることを被害者は知っていたことになる」

「考えにくいな」

「入れ代わりをやって男どもをびっくりさせてやろうとしたのではないですか」

「スノーボードまで黙って交換するなんて、いたずらにしてはタチが悪すぎる」

「何か魂胆があったのでしょうね。それが殺人と関係があるのか」

「どういう理由で変装したにせよ、間違えて殺された可能性はありますね」

「顔見知りなら、リフトに隣り合わせに乗れば間違えるはずがない。依頼殺人ならそういうことも考えられるが」

「被害者の服装が殺人に関係あるのか、別の事情があって偶然事件と重なっているだけなのかは、今のところ不明なので保留にしておこう。痴情か怨恨の線が強いが、通り魔やストーカーという可能性もある。スキー場周辺の聞き込みを継続することと、被害者および同行の友人の近辺を洗ってくれ。居住地の警察には協力を依頼しておく。凶器はひものようなものだが、発見は難しいだろう。現場の再捜索は春まで無理かな。被害者がウエアを購入した店も当たっておくように。葬儀にも誰かつけておいてくれ。他に何かあるか」

 事件からしばらくたって、長谷川は自分のアパートに舟木を招いた。二人は酒を飲みながら事件のことやその後のことを話した。長谷川はあまり飲まなかった。長谷川は舟木に言った。

「小川さんがなぜ岩崎さんに扮装したのかをずっと考えていた。どこかで彼女は岩崎さんと入れ替わるつもりだった。リフトから下りて僕らと会えばすぐバレてしまう。僕らの視界から外れたのは、リフトから落ちたときだ。僕らが駆けつけるまでの短い間、彼女には入れ替わる機会があった」

「しかし、小川さんはあそこに倒れていた」

「そうだ。だから、もし入れ替わりがあったとして、論理的に考えれば、リフトに乗っていたのは小川さんじゃなくて岩崎さんだった」

「馬鹿馬鹿しい」

「入れ替わりがあったと仮定したときの話だ。岩崎さんが死んだ振りをしてリフトから落ちる。そこには小川さんの死体がある。岩崎さんはボードを交換してゲレンデを滑り降りる。そのあと僕らが駆けつける」

「あそこは雪が深かったから、抜け出すのに時間がかかる。そんな時間はなかった。ボードが滑った跡もなかった。それに、死体があればリフトから見えたはずだ」

「死体は隠してあった。たぶん、リフト降り場の下に。あそこの周りにはリフト降り場から落とされた雪が積もっていたから、外からは隠されていた。岩崎さんに逃げ出す時間がなければ、死体と交代にリフト降り場の下に潜り込めばいい。死体が運び出されるまで隠れていれば、あとで逃げ出すことができる」

「岩崎さんが何でそんなことをする」

「そう、これでは確かにおかしい。岩崎さんがそんなことをするとしたら、小川さんに扮装するはずだ。小川さんに自分と同じ服装をさせて、入れ替わりをするなどという面倒なことはしない。だとしたら、やはりリフトに乗っていたのは小川さんだ。そして、小川さんの落ちたところには本来なら岩崎さんの死体があったはずだ。そこで入れ替われば、岩崎さんがリフトの上で殺されたという偽装工作ができる」

「馬鹿馬鹿しい」

「何でこんな手の込んだことをするかというと、アリバイ作りのためだ。もしリフトの上で殺人があり、犯人がリフトから飛び下りたとしたら、犯人は死体より先にリフト降り場には来られない。ゲレンデを登るにはリフトを使うしかないからね。だから、僕ら二人にはアリバイがある。逆にいうと僕ら二人は犯人の可能性があるわけだ」

「それは岩崎さんが被害者であるという仮定の話だろう」

「そう。しかし、これはずさんな計画だ。岩崎さんの死体をあそこに運んで来るのは無理だから、犯人は岩崎さんと二人でリフトで登って来て、リフト降り場の近くで殺害する必要がある。殺害場所はリフト降り場の下だろうが、そこへ入るところをリフトから目撃される可能性がある。隠し場所が不完全で、死体が見つかるかもしれない。君が言ったように、入れ替わりの時間が足りないかも知れない。隠れていた小川さんが見つかるかもしれない。小川さんが落下のときにケガをするかもしれない。小川さんが怖がって落下出来ないかもしれない。実行するには不確定要素が多すぎる。しかも手順が狂ったら、死体だけが残る」

「そういうことは起こらなかった」

「そうだね。だが、小川さんが岩崎さんになりすましていたということは、このシナリオが進行していたと考えられる。シナリオの半分だけが。主犯が死体を準備しておくことになっていた。小川さんは死者を装ってリフトから落ちる。ところが、死体はなかった」

「だとすれば、彼女はおかしいと思うだろうな」

「死体との交代は、主犯が他の人間を遠ざけてから一緒にやることになっていたので、小川さんは死んだふりを続けていた。ところが、死んだふりをした小川さんが死体になってしまった。そのとき傍にいたのは君だけだ。君が小川さんを殺したのだ」

「馬鹿馬鹿しい」

「そう言うのは三度目だね。しかし、動機はある。君は岩崎さんとだけではなく、小川さんとも付き合っていた。小川さんとのことは隠していたようだけど、僕は知っていたよ。君は岩崎さんと結婚するつもりだったので、納得しない小川さんが邪魔になった。最初は小川さんの死体になりすました誰かがリフトから落ちるシナリオを考えたんだろうが、さっきも言ったように実行には問題が多すぎる。最大の問題は岩崎さんに共犯を頼むことができないということだったんだろう。逆に、小川さんなら共犯を引き受けるに違いないことに君は気がついた。そこで、何かの話をでっち上げて岩崎さん殺害のシナリオを小川さんに持ちかけ、その裏に小川さん殺害のシナリオを仕組んだ。そのシナリオならば、全ての工作がうまくいったことを確認してから犯行を実行することができる。どこかに不都合があれば、殺害はやめて、ことの言い訳を何か考えればいい。問題は、殺された小川さんが岩崎さんの服装をしていることだが、その解釈は警察に勝手にさせておく。うまく行けば捜査を混乱させることになると判断したんだろう」

「君は小川さんを好きだった。だから僕に悪意を持っている。全て憶測だ。証拠はない」

「状況証拠ならいくつかある。まず、天候の悪いことが多いこの時期を選んだこと。次に、あまり仲のよくない小川さんと岩崎さんを一緒に連れて来たこと。君は僕が小川さんを好きなのを利用して、小川さんに僕を誘わせた。岩崎さんには、僕と小川さんと結びつけるために一緒に行くと説明した。小川さんが僕に親しげにする態度は不自然だったよ。それに、第三リフトでの集合の件だ。君はその提案を僕と小川さんにはケイタイで連絡したが、岩崎さんにはしなかった。岩崎さんに第三リフトの辺りをうろうろされたのでは困るからね。岩崎さんには小川さんから伝えるということにした。小川さんは岩崎さんにレストランで待ちぼうけをくわせた。そこでボードを交換し、そのあと君が岩崎さんを誘い出して殺害する段取りと小川さんは思っていた。君が小川さんに第三リフト集合を伝えたのは、替え玉作戦のスタートの合図だった。小川さんはたぶん休憩所のトイレで着替えたんだろう」

「みんな君の妄想だ。犯人はリフトから飛び下りている」

「あれは君だよ。あのゲレンデは曲がっているし、リフトも尾根を越すから全部が見渡せない。おまけにあの日は吹雪いていて視界は悪かった。だから、時間的な経過があいまいになってしまう。君は岩崎さんに化けた小川さんと一緒にリフトに乗り、途中で飛び下りた。小川さんはポンチョを着て僕の目を誤魔化してリフトを下り、リフト乗り場まで滑り降りる。君は先にリフトに乗り、降り場に着いて僕と一緒に待つ。小川さんはリフトの上でポンチョを脱ぎ、岩崎さんになりすまして君と僕の待つ降り場へ来て、死体のふりをしてリフトから落ちる」

「まいったね。よくそこまで話を作ったな。君はショックでおかしくなっている。僕だってつらいんだぞ。腹が立つけど、我慢してやる。ただし、そんな話をあちこちでするようなら、ただではおかない」

「僕は小川さんが好きだった。小川さんが君と付き合っているのは知っていた。岩崎さんに乗り換えた君が小川さんを持て余していたのも知っていたし、そういう君を小川さんがあきらめきれないのも知っていた。それでも僕は彼女が好きだった。僕は小川さんを殺した君を憎む。小川さんを殺すことに僕を利用したことで憎む。君は証拠がないと言ったな。だが、証人がいる。この僕だ。僕はこう証言する。小川さんがリフトから落ちたときにはまだ生きていた。ちゃんと呼吸していた。だから小川さんを殺したのは君だ、と」

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