井本喬作品集

カントについての補足

 以前にカントの著作の感想を書いたことがあるのだが、そのときはカントについての詳しい解説書を読んでいなかった。そのため、カントについての私の感想にどの程度の妥当性があるかがずっと気になっていた。たまたま、デカルトに関する冨田恭彦の著作を読むことがあり、彼がカントについても書いていることを知ったので、『カント批判――『純粋理性批判』の論理を問う』(勁草書房、2018年)を読んでみた。

 冨田は『純粋理性批判』におけるカントの論理展開の問題点を容赦なく暴いている。そして、「自然科学をも基礎づける真正な形而上学(純粋哲学)の準備をしようとした」というカントの意図は失敗したと断じている。私はカントの立論はいい加減なものと思えたので、『純粋理性批判』のこまごまとした部分は流して読んだ。だから、冨田の厳密な証明には感心しつつ、多少うんざりするところもあった。なぜなら、カントのしようとしたことについては、同感する点があったからだ。

 カントは人間がタブラ・ラサではないこと、経験のみによって知識を得るのではないことを示そうとした。しかし、彼はそのことをうまくできなかった。その原因は、彼が、そして彼の同時代人が、無意識と生得性についての後代の知見を(当然ながら)利用できなかったからだ。冨田の著書に引用されているカントの言葉を再引用してみよう(65~68ページ、強調・訳注は省略)。

 もろもろの表象をもつことと、にもかかわらずそれらを意識しないことの間には、矛盾があるように思われる。というのも、もしわれわれがそれらを意識しないのであれば、自分がそれらを持っていることを、どうしてわれわれは知ることができるのか。(『実用的見地における人間学』)

 『批判』は、天賦の表象や生得表象を決して認めない。『批判』は、あらゆる表象を、それが直観に属するものであろうと知性概念に属するものであろうと、すべて獲得されたものとみなす。(『純粋理性の新たな批判がすべて古い批判によって無用になるという発見について』)

 しかし、カントはロックなどとは違い、「萌芽」「素質」「原始取得」というような概念を使って、生得性のようなものを想定しようとしている。

 というのも、われわれの認識能力は、両者のいずれをも、客観自体そのものにおいて与えられたものとして客観から取ってくるのではなく、それらを自身そのものからアプリオリに実現するからである。しかし、右の諸表象が他のようにでなくそのようなものとして生じ、その上いまだ与えられていない客観に適用されることを可能にするそのための基礎は、主観のなかになければならず、この基礎は少なくとも生得的である。(『純粋理性の新たな批判がすべて古い批判によって無用になるという発見について』)

 冨田はカントのこのような考えを、「経験」の偶然性を排そうとするあまり、人間という種の事実性に頼ることになってしまい、「必然性」「普遍性」を確保しようとする目的にはそぐわないと批判している。しかし、逆に、人間という種の特性を認めることによって、単なる経験によっては得られない能力を示すという道が開かれているのである。例えば言語がそうである。そして、その特性が「発見」されているということは、それを私たちは意識しえていなかったということなのだ。

 「モリニュー問題」という視点からのカント批判も、生得能力は初期の経験をトリガーとして必要とするという現在の知見を使えば、クリアーできるのである。「モリニュー問題」とは、先天的に失明していた人が、手術などによって視力を得たとき、空間を三次元として把握できない、という指摘である。つまり、三次元的な世界把握は視覚単独によっては得られず、他の感覚との協調的経験(学習)が必要であり、カントの言うようなアプリオリな空間把握はありえないという批判である。「視覚情報と触覚情報の記号関係的結合が成立するために不可欠の『経験』の役割」をカントは無視していると冨田は言う。しかし、視覚による三次元的な空間把握が学習のみによって獲得できたとは思えない現象がある。例えば視覚における錯覚である。経験的データは不可欠であるとしても、それだけで視覚能力の全てがカバーしきれないのだ。

 カントはその時代の科学的知見に影響された「隠れ自然主義者」であったと冨田は言う。そうであっても、カントはそれを乗り越えようとしたのではないか。ただ、乗り越えのためにはやはり科学が必要であった。カントの成さんとしたことを科学が成し遂げようとしているのを、私は興味深く思っている。

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