井本喬作品集

集団選択と意識化

 デイヴィッド・スローン・ウィルソン著『社会はどう進化するのか 進化生物学が拓く新しい世界観』(2019年、高橋洋訳、亜紀書房、2020年)を読んだ。著者は、集団選択を基礎にして、人間社会の理解と改善を説いている。ただし、著者の集団選択論は、個体と集団という二層ではなく、遺伝子から地球までのマルチレベルで捕らえなければならないというものである。

 集団選択については、進化論者の間では否定的な意見が主流なようだが、肯定する論者もいる。進化論では、利他的と見える行動も実は遺伝子の目的に沿ったものとされ、多くの場合結局は行動主体とって利益になると解釈される。主流派も非主流派もそのことは承知している。ただ、集団を介した利益の効果というものが可能かどうかで意見が分かれる。

 私自身は、集団選択は理論的基礎づけの余地があると思ってはいるが、安易な導入には賛成できない。だから、著者の主張には違和感がある。著者は、はっきりとは述べていないが、集団選択によって道徳や同情心を肯定的に位置づけたいという思いがあるようだ。つまり、利己心を自制し、他者を思いやり、他者のために貢献することの意義を進化論的に基礎づけようとしているのだろう。しかし、進化論に基づく限り、行動主体が不利益になるような行動が遺伝的に継承されるということを主張できない。そのためか、著者は個人レベルの心情と集団的利益の効果の関係をあいまいなままにしている。

 利他行動は行動主体に負担をもたらすので、そういう行動が現実になされることが、かつては謎となっていた。進化論(進化心理学)の答えは、文化人類学などで「互恵的交換」と言われているものの利己主義的解釈である。つまり、負担は将来の見返りを期待して担われるというのである。いわば負担は債権であり、被援助者に債務を課していることになる。時期がずれた交換であり、経済的交換と何ら変わりがない。

 では、被援助者が特定されないとき、つまり、集団成員の不特定多数が利益を受けるとき、言い換えれば集団全体の利益とみなされるとき、利他行動はどう解釈されるのか。そのような行動主体が成員である集団は、そうでない集団よりも存続する可能性が高く、その結果成員の生存や生殖に利することになる。したがって、そのような行動が支配的になる。これが集団選択理論である。

 ところで、利他行動が結局は行動主体の利益になるとして、そのことを行動主体は認識しているのだろうか。もしそのことを知っているなら、それを利他行動と呼べるのだろうか。「情けは人のためならず」という表現はめぐりめぐって見返りがあるだろうという不確実性を含んだものになっているが、「損して得取れ」となると道徳の言葉としてはどうなのだろうか。そもそも、利他行動が見合うものであるならば「利他」という言葉を使うのはおかしい。お互いに利益を得ているという点では経済的交換と変わらないのだから。

 真なる利他性を進化論的に説明しようとすると、集団選択を使いたくなる。しかし、集団選択においても利他行動は結局はその行動主体にとって利益になるということを認めている。集団が選択されながらその成員が選択されないということにはならないからだ。その場合、その利他性に「真なる」という形容をつけることにどのような意味があるのだろうか。

 主観的な認識や感情において、「客観的には」自己利益となる行動を利他的とみなすということはあり得る。その行動のもたらす利益に気づかないので、負担だけが目につく場合である。その場合にその行動がなされるのであれば、それを利他的とみなし得るかもしれない。だとすれば、利己性と利他性の違いは、その行動による利益が行動主体に明白であるかどうかの違いに過ぎなくなる。

 そこで、二つのモデルを考えよう。著者にならって一つを自由放任モデル、もう一つを集団選択モデルと呼ぶことにする。自由放任モデルは、集団の各成員が許された範囲内で自己の利益を追求すれば、結局それが成員全体の利益になると主張する。集団選択モデルは、集団の各成員が利他的と思われる行動を適切に取ることによって、成員全体の利益を生み出していると主張する。

 さて、各モデルの集団の成員に、「客観的に見れば」あなたの行動は集団全体の利益を通じてあなた個人の利益にもなっていると告げたら、どうであろうか。自由放任モデルの成員は、そう告げられたことでますます自己利益追求行動に励むであろう。集団選択モデルの成員も、負担と思われた行動が実は利益を生じていることを知れば、喜ばしく思うはずだ。

 しかし、利他的と思われる彼の行動が集団全体の利益を通じてその行動の負担を超える利益を彼自身にもたらしている(それが集団選択理論である)と聞かされたら、その行動を誇りに思うだろうか。利他的と思われた行動が実は利己的だと指摘されたのである。利他的と思われる行動がその負担のゆえになされているのであれば、それが実質的には負担になっていないという指摘は、その行動への熱意を失わせるかもしれない。

 なぜ利他的な心情があるのかと言えば、利他行動がもたらす利益を行動主体が把握しきれないからだと言えるだろう。もし、行動主体が自らの行動がもたらす損益の計算を確実になし得るのであれば、利他行動はそれがもたらす利益を目指してなされるであろう。しかし、私たちはそのようには進化してこなかった。結果として自己の利益となる行動であっても、結果を知ることなく(理由もなく)なそうとするのである。利他行動はそれが欲せられるからなされるのだ。利他行動の結果は主体には分からず、また知る必要もないのである。このようなメカニズムを進化心理学者は自己欺瞞と呼ぶ。欺瞞という言葉は意識の介在を思わせるが、行動主体は単に知らないだけなのである。

 一方で、集団が成員の利他行動によって支えられているという言い方は粗雑である。成員全員が他の成員のために行動していながら、利益を得る成員が一人もいないように見えるということなどあり得るだろうか。集団がその成員に貢献だけを求め、成果による利益の還元を知らせないままであるならば、その集団にとどまり続ける理由は見いだせない。集団の成員であることの利益は認知されなければならない。

 実は、道徳論もその点において困っているのである。いかに厳しい道徳論であっても、道徳に従う負担は何のためかと問われると、結局は何らかの意味でその人のためになると言わざるを得ないのである。

 集団の存続によって利益を得ることを承知して、集団のために負担を担う(得られたかもしれない利益をあきらめることも含めた)行動を利他行動と呼ぶべきではないだろう。そのような行動についての指針を道徳と呼ぶとすれば、それは一種のルールである。集団そのものが何のためにあるか十分には分からないとしても、集団をその成員のための利益製造装置のようなものとみなすことは可能である。集団の適切な運営が成員に利益をもたらすと理解されるなら、集団のルールはマニュアルのようなものでよいことになろう。しかし、通常、集団のルールは強制を含んだ違反者の摘発に主眼がある。なぜだろうか。

 集団が成員にもたらす利益はそれを生み出す個々の行動に直接結びついてはいない。利益は貢献には関係なく成員の誰にでも得られるのだ。つまり、集団はそれが成員にもたらす利益という面からは、公共財とみなし得る。集団が公共財としての利益をもたらすから、強制が必要になるのだ。集団が成員に利益をもたらすなら、それを破壊するような行動は自発的に控えられるだろう。しかし、その利益が負担(貢献)に連動していなければ、成員はできるだけ負担を避けようとするだろう。集団にとっての危険な成員は、集団的行動の否定者(彼らの排除は比較的容易である)ではなく、フリーライダーなのである。この本の著者も集団運営の原理としてそのことは指摘している。

 さて、道徳を善の実現のための行動指針ではなく、集団運営のためのルールであるとみなしてしまえば、利他的な心情は必要ないかもしれない。しかし、「真の」利他行動にはそれが必要であるはずだ。利他的に見える行動が利他的であるのは利他心によって支えられているからこそなのだから。

 著者は、集団のための個人的な貢献は報われるという言い方で一種の道徳を説くのだが、それは二つの意味で破壊的な効果をもたらすかもしれない。一つは、他人への援助を純粋に貢献だと思っていた人々に、利己性という不純さを吹き込むことになる。第二に、自らの負担の見返りがなければならないと思わせることで、不正確な損得計算による行動を引き起こすかもしれない。

 著者は行動主義を評価しているので、人間の扱いが操作的になる傾向が見られる。著者の立場は改良主義的進化論とでもいうべきであろうか。

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