情動の普遍性
1
リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる 脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(2017年、高橋洋訳、紀伊国屋書店、2019年)を読んだ。いろいろ教えられることは多かったが、著者の見解に疑問を持った点もあるので、検討してみよう。
著者は自分の立場を「構成主義的」と称し、情動の普遍性を主張する「古典的」立場(「本質主義」)と対抗するものと位置づけている。
この本では、まず情動の普遍性を証明したとする実験が取り上げられる。ある情動(例えば「怒り」)を表現させた俳優などの顔の写真を使って、被験者にその情動を判断させるという実験である。そこで得られた知見によって情動の普遍性が主張されてきたが、そのような実験には様々な問題点があることを著者は指摘する。
それを端緒にして、文脈を無視した定型的な情動というものはないという著者の主張が展開されていくのだが、非経験的な情動を否定する結論までにいたるのは飛躍があるように思われる。そのことについては後述するが、とりあえずここで問題になっているのは情動のコミュニケーションであろう。
情動には、「感じる」という相、「表現する」という相、他者のそれを「認知する」という相があると私には思われる。著者に言わせれば、それは明確な情動が存在するという「本質主義」的な考え方になるのかもしれない。そうだとしても、コミュニケーションにおいて重要なのは情動そのものではなく情動表現であることは否定できない。情動と情動表現の関係は複雑である。情動は「思わず」(自動的に)表現されてしまうので、その人の心の偽らざる状態を知る手がかりとなると信じられている。しかし、情動経験と情動表現はある程度切り離すことができる。情動を経験しているかいないかに関わらず、情動表現は意図的に可能であるのだ。それゆえ、情動表現の自然さが大事になる。故意に作られた情動表現に不自然さを感じるのは、私たちが情動のコミュニケーションに精通しなければならなかった進化的成果ともいえる。
確かに、著者の言うように、情動表現には個人的・文化的・社会的な差異がある。しかし、異文化交流においてさえ、私たちを悩ませるのは、情動表現を偽ったり隠したり大げさにしたりする他人の思惑なのである。当然、私たちは他人の情動表現を疑ってかかる。俳優が情動を表現しようとして作った顔つきの写真は、情動のステレオタイプとしては有効かもしれないが、情動の告知としてはあいまいさをもたらす。
著者も言うように、情動の把握は文脈に頼るところが大きい。であるならば、特定の文脈における情動の把握を、個人間・文化間・社会間で比較してみればいい。そこにはある種の普遍性が見出されるのではないか。著者が情動の非普遍性の例としているセリーナ・ウィリアムズの顔写真(恐怖の表現に見えるが、実は喜びの表現)も、テニスというゲームの世界的に有名な大会での優勝の瞬間という文脈を示せば、ほとんどの人が理解できるのだ。
2
情動における学習を重視する著者は、当然のことに、幼児が情動概念(著者にとって情動とは概念である)を獲得していく過程における経験、特に言葉を注目する。それによって情動概念の共有が可能になるからだ。さらに、社会、文化によって言葉や習慣が異なるのだから、情動概念も同様に社会、文化によって異なるという結論を導き出す。
このような著者の主張は言語獲得における経験主義的主張に似ている。たとえば、ロシア語には二つ、ドイツ語には三つ、標準中国語には五つの、英語の「怒り」に相当する概念(情動語)がある(176ページ)という指摘は、エスキモー(この言い方は古いが)には雪を表現する多数の言葉があるという往年の「伝説」を思い起こさせる。
著者の例示をいくつか検討してみよう。フィリピンの首刈り族イロンゴト族にはligetと呼ばれる情動があり、それは欧米人にとっては「たとえ部分的には経験できたとしても、快、覚醒、攻撃性、危険な行為を追及するスリル、グループの一員になることから得られる仲間意識を含めた完全なパッケージとして」(237ページ)経験することはできない、と著者は言う。しかし、この「熱狂的な攻撃性の感情」、「他集団と争い合う一群の人々が、危険な行為に及ぶときに生じる、極度の集中、熱情、活気」(236ページ)というのはおなじみのものだ。著者も「欧米文化のもとでもとても有用であろう」(238ページ)と言うが、「しかし、欧米の文化のもとでは、喜んで人を殺すことはおぞましいこと、恥ずべきことだと見なされている。そのような感情を吐露する人物に共感したり、同情を感じたりするのはいたって難しい」(239ページ)という点に文化的差異を求めようとする。さて、ビン・ラーディンの殺害に大統領以下大喜びしたのはどこの国民だったろう。
日本文化の場合としては「上げ劣り」(245ページ)という聞いたこともないような例が挙げられている。この例から類推すると、他の言語の例も怪しいものだ。また「ありがた迷惑」(同)という例も持ち出されているが、これに相当する言葉が見当たらないとしても、この情動(?)概念を経験できない「欧米人」がいるとは信じられない。
他の文化のことに言及するときにはよほど慎重でなければならない。現地の情報提供者であっても、自分の文化などというものをどれほど理解しているのか分からないのだ。著者の主張は、ルース・ベネディクトの『菊と刀』を思い起こさせる。「恩」や「義理」というものが日本文化独特のものであり、人を助けることに見返りを求めない欧米文化には見られないとベネディクトは主張した。もちろん、欧米にだって「恩」や「義理」に相当する行為は普通だ。正確に対応する言葉はなくても、文化というあいまいなものに眼をくらまされていなければ、誰にでも分かることである。
3
では、著者は情動がどのようにして生じると言っているのか。著者の理論の全体像を理解するために、少し長いが著者の要約を引用しよう。
構成主義的情動理論は、顔、身体、脳に一貫した生物学的指標を持たずに、どのように情動を経験したり知覚したりできるのかを説明する。脳はつねに身体内外から受け取る感覚入力を予測し、シミュレートしている。だからそれが何を意味し、それに対して何をすればよいかを理解できるのだ。予測は皮質を伝わり、内受容ネットワークの身体領域から一次感覚皮質へと流れ、脳全体に分散されたシミュレーション(そのそれぞれが概念のインスタンスである)を生む。そして目下の状況にもっとも近似するシミュレーションが勝ち、それが経験になる。また、勝利したシミュレーションが情動概念のインスタンスであった場合、この経験は情動概念となる。これら全過程がコントロールネットワークの支援のもとで生じ、身体予算を調整して生存と健康を維持する。その過程で、無事に生き残って自己の遺伝子を次世代に伝えられるよう、周囲の人々の身体予算に影響を与える。かくして、脳と身体によって社会的現実が生み出され、情動が現実のものとなるのだ。(251-2ページ)
細かい点は省略しよう。構成主義情動理論を提唱している著者は、普遍的な情動を否定して、「インスタンス」という概念を提示する。訳者解説によれば、これは「個々の具体的な経験に対応する心的構造物」である。様々なインスタントがまとめられて「情動概念」となる。幼児は他者との経験、とくに言葉によって情動概念を形成する。いったん形成された概念は、今度は予測として使われて、様々なインスタンスを選別する。これだけの説明では分かりにくいので、著者の用いた具体例を使ってみよう。
著者の娘のソフィアがショッピングモールを歩いている。彼女はすでに形成されている様々な概念によって予測を行い、過去の経験に照らして多数のインスタンスを生成する。それらのインスタンスは無数の感覚入力と照合されて、適不適のふるいにかけられ、現状に最適なインスタンスが情動概念として経験される。
例えば、ソフィアが「大好きなケヴィンおじさんと会う」というインスタンスを予測として形成したとする。
私(引用者注:著者はソフィアと自身を同一化している)の脳がこの予測を発したのは、類似の状況で彼を見かけ、「幸福」として分類される感覚を経験したことがあるからだ。この予測は、たった今入って来ようとしている感覚入力とどれほど正確に合致するのだろうか?それが他のすべての予測より正確に合致するのなら、私はこの「幸福」のインスタンスを経験するだろう。さもなければ脳が予測を調整して、実は「失望」のインスタンスを経験するかもしれない。場合によっては、脳が予測と感覚入力を強引に合致させ、ソフィアのように見知らぬ人をケヴィンおじさんと誤認することもある。(200ページ)
著者が軽率に述べた言葉尻を捕えてどうこう言うのは気が引けるのだが、これではあまりにも強引ではないだろうか。「失望」のインスタンスが予測されるのは、ケヴィンおじさんに会うというインスタンスの予測があることを前提にしているはずだ。少なくとも、会えるかもしれないという予測と会えないかもしれないという予測が同時に起こるはずだ。そこで、どちらかのインスタンスが経験されたとしよう。そうすると、もう一方のインスタンスの予測は棄てられてしまい、情動経験にはならないのだろうか。会えるかもしれないという期待、あるいは会えないかもしれないという不安は、予測の段階で経験されているのではないだろうか。それは情動でなく感情であると言われてしまえばそれまでだが。
予測は現在の感覚入力を過去の記憶と照らし合わせることによって可能であるとするならば、過去の経験における因果関係とでもいったものが問題となる。ショッピングモール(あるいは大勢の人出の中)でケヴィンおじさんに出会ったというソフィアの記憶は、ショッピングモールという感覚入力だけでケヴィンおじさんとの遭遇のインスタンスの予測を形成できるだろうか。ケヴィンおじさんがそういうところにいる可能性が高くなければ、その予測は無駄でしかない。もし、過去のケヴィンおじさんとの遭遇が予想外の経験であったとすれば、予想外の経験を予測するというのはどういうことだろうか。過去の予測(確率が低いので遭遇を予測の対象とはしなかった)を修正するのかもしれない。あるいは、予想外であったということは確率の低さを否定するものではなく、逆に度々は会うことはあるまいという予測を強化するかもしれない。いずれにしても、ショッピングモールに行くこととケヴィンおじさんに会うことの因果関係(あるいは確率)が検討されることになる。
著者の本意はそういうところにあるのではないだろう。情動の予測とはむしろ警戒とでも表現すべきものであって、はっきりした予測がつかない状況での対応ではないか。ソフィアは母親に連れられてショッピングモールを歩いている。単なるぶらぶら歩きであるならば、(何かが起こるかを具体的に予測するのではない)待機状態とみなすことができるだろう。そこに、突然ケヴィンおじさんが現れる。思いがけない出来事(感覚入力)が情動経験となるというのは日常のことである。思いがけない出来事にどのように対処するかを瞬時に決定するためには、あらゆる出来事に対応するための事前準備を(無意識的、自動的に)しているはずだ、というのが著者の主張の妥当な受け取り方ではないだろうか。
4
情動は意識的な経験であると著者は述べている。一方で、情動が経験されるまでの過程は無意識的(自動的)であることを認めているようでもある。
では、意識されるということはどういうことであろうか。予測(概念)としてのインスタンスが感覚入力と合致し、その予測が実現する(予測としてのインスタンスがその情動概念に分類される)ことが情動の経験であるのなら、それが意識されるということは認知的な現象なのであろうか。
ある予測の連鎖が、到来する感覚入力をうまく説明できれば(カッコ内略)、私の脳は、友人に結びついた感情に関連する、一つの「幸福」のインスタンスを生成する。つまりおじさんの姿をひと目見たとき、この予測の連鎖の全体が、「幸福」概念のインスタンスになり、私は幸福を感じるのだ。(203ページ)
脳は、分類が完了する以前でさえ「幸福」のインスタンスをシミュレートしている。また、動かすという主体の感覚を覚える前に、顔や身体の動きを準備し、到来する前から感覚入力を予測している。だから実際には、外界と身体の状態によって制約を受けつつ、脳が能動的に経験を構築しているにもかかわらず、情動は「生じている」かのように思えるのだ。(204ページ)
前の文章で著者はインスタンスの経験が情動を「感じる」ことであると言っている。また、後の文章では、インスタンスを予測から実現にまで到らせる過程が無意識的であると言っていると受け取られる。後者の過程では意識に「感じ」が生じるのは認知活動の終結としてである。それゆえ、無意識的過程こそが認知的な過程とみなし得ることになろう。
著者は次のように言う。
とはいえ、一つだけ確実に言えることがある。それは「自己の制御に対する気づきが存在しない瞬間」を情動と名づけることにいかなる科学的な根拠もないことだ。(369ページ)
これは誤解されやすい言いまわしで、著者は情動には「自己の制御に対する気づきが存在」すると言っているのではなく、情動には「自己の制御」が「存在」すると言っているのだ。つまり、「気づき」のない「自己の制御」があり、「気づき」がないからといって「自己の制御」がないことにはならない、と言っているのである。「気づき」と「自己の制御」は別問題なのだ。(この文の前後の文を参照すれば分かる)。わざわざ著者がそう言うのは、情動における「自己の制御」が無意識的であり自動的であるからだろう。
では、なぜ経験は意識的でなければならないのだろうか。認知の過程が無意識的・自動的であるならば、その末端だけが意識的であるのは不思議である。さらにその意識的経験のうち、情動(と感覚の一部)だけがなぜ「感じ」られるようになっているのか。著者の言い方を借りれば、情動だけを他の予測を伴う過程から区別するのはなぜなのだろうか。
ところで、そもそも私たちは何の意図もなしに、単に予測をしてそれが当たるかどうかを待ち受けているだけなのだろうか。欲望なり欲求なりにも予測の要素がある。そのような予測も実現(経験)すれば情動経験になるだろうし、予測が外れて実現(経験)しないときにも情動経験は起こるだろう。ソフィアがケヴィンおじさんとまた会いたいと望んでいたとしたら、その情動経験を求めていたということになる。待ち受けているだけではなく、追求することになる。そうであれば、会いたいという気持ちは、情動概念の適用やインスタンスの予測などのどこに含まれるのだろうか。予測や分類は認知的な作用であり、欲求や欲望の入り込む余地はなさそうである。
著者の言うように、情動経験が、起こるかもしれないあらゆることの予測の帰結であるならば、欲求や欲望の目標とはならないであろう。欲求や欲望による予測は、目標に縛られている。目標となった事態が実現するにせよ実現しないにせよ、その確率を高めるように行動するのである。情動概念による予測がそういうものとは違っているならば、情動経験とは意識にとって不意打ちであるに違いない。私の考えでは、情動は突発的状況への反応であり、それに対処する行動を起こす(あるいは準備する)ものとみなす方が適切である。
著者の言うように情動概念によるインスタンスの予測が常に行われているのであれば、それは欲求や欲望による目標追求行動とは並行した独自な機能であろう。そう考えれば、情動経験が目標追求行動のあらゆる過程で起こることになる。行動の達成に対する期待や不安、様々な状況変化や追加情報への反応、行動の成果への満足や失望などにおいて。だとすれば、欲求や欲望による行動とその目標達成(あるいは未達)そのものは情動に関して中立的であることになる。
5
著者の見解では情動のコミュニケーションは協調的な過程であるようだ。「情動のコミュニケーションは、あなたと私が同期して予測し、分類するときに起こるのだ。」(322ページ)と著者は述べている。各自の情動概念を照らし合わせて、共有的なものとして「共同で構築」(323ページ)することになる。普遍的な情動というものがない以上、各自の経験を統合して、共用し得る情動概念を形成し維持していくことがコミュニケーションの役割になるのだろう。一方で、他者の情動の把握の難しさを著者は強調する。
私が言いたいのは、他者の心の状態に関する自分の知覚が「正しい」と確信することが(あるいは「正しくありうる」と考えることさえ)、誤りであるということだ。(321ページ)
他者の情動を知覚する能力を向上させるためには、他者が何を感じているかが自分にはわかるという思い込みを捨てなければならない。(321-322ページ)
私たちは自己と他者の情動の共通性について、著者が指摘するほどに懐疑的であるわけではない。むしろ、共通性を無頓着に前提して情動のコミュニケーションを行う。しかし、そういう「確信」や「思い込み」が何か弊害をもたらすのだろうか。逆に、そのことが人間関係の構築に積極的に作用しているのを理解すべきではないか。
また、情動のコミュニケーションが協調的であるとは限らない。協調は、「他者と折り合って生きていくこと、自己の利益を得るために他者を出し抜くことという、人生における二つの大きな課題」(508ページ)のうちの一つに過ぎないのだ。
情動がなぜ表現されるのかといえば、明らかに他者に告知するためであろう。情動は主体の心的状態を表していて、それは他者の行動を含む状況への評価(反応)となっている。さらに、それは他者への要求となることもある。つまり主体の情動がそのまま放置されるならば、他者に対する何らかの主体の行動が起きるという予告にもなる。他者は主体の情動によってその行動を予測し、何らかの行動(反応)を起こす。もし、他者のその行動が主体にとって好ましいものであるならば、主体の情動表現は他者を操作する道具といえる。
では、私たちはいつでも自由に情動を使って他者に影響を与えることができるであろうか。そのようにはなっていない。情動の出現は自動的であり、偶然的である。私たちは情動を起こそうと思って起こしたり、起こすのをやめようと思って起こさなかったりすることはできない。だからこそ、他者は主体の情動を重視するのである。
しかし、既述のように、情動表現(情動ではなく)は意図的に行うことが容易である。他者を動かすのは主体の情動そのものではなく、情動表現である。それゆえ、他者による好ましい行動を引き出すために、情動が経験されていないにもかかわらず、情動表現を使うことがある。一方で、そのように操作されることを他者が容認したままでいるはずはない。他者は主体の情動表現が真に情動を現わしているものかを疑い、見極めようとする。その意味でなら、情動表現の認知というのは単純ではない。
例えば以下のような込み入った状況はどうだろうか。ある状況である情動が起こることが予期されるが、その情動をあからさまに表示しないことが規範となっているとしよう。しかし、その情動が起こることは予期されているので、何らかの形で表現しなければその情動が起きていない人間とされてしまう。そこで、その情動が起きているかいないかにはかかわらず、起きているが大げさな表現を抑えていることを表現するということがあり得るだろう。さて、情動表現の抑止という表現が効果的であるならば、それがまた型として規範化されるかもしれない。私たちが情動表現の型に次々にはまり込んでしまうとき、一体情動をどう評価すればいいのか。これが芥川の『手巾』のテーマである。
情動のコミュニケーションというのは、単に情動概念の共有のためになされるのではないだろう。そこには、コミュニケーションの重要な機能である他人の操作という要素が含まれているはずだ。
6
著者も言うように、情動と社会の関係でいえば、特定の情動を表現する適切な状況というものが規範化されていることが多い。規範化されているということは違反者がいるということである。情動がいわば社会化によって形成されるものであるならば、なぜ違反が生じるのであろうか。下位グループの存在、状況把握の失敗、個人それぞれの(より細かい)特定の状況の存在などが理由としてあげられよう。中には情動形成の失敗というという例もあろう。
しかるべき時にしかるべき情動を表示する(あるいは表示しない)という規範は、情動概念が共有されていることとは正確には重ならない。その状況である情動が起きるということは共有されていても、それを表現していいかどうかは別の問題であるからだ。ただし、その状況下で当然起こるだろうとされている情動がある個人においては起こらない、あるいは、その状況では起こるとはされていない情動がある個人においては起こるとき、周囲の人間は困惑し、場合によっては負のサンクションが与えられる。それは情動表現とは別の、情動そのものに対する規制である。そういういわば情動の醇化を潜り抜けて、社会・文化次元とは異なる個人次元の情動が形成されるのはなぜだろうか。
そもそも、情動が社会的に形成されるなら、社会的に望ましくない情動概念を形成しないようにすればいい。そうすれば望ましくない情動のインスタンスは形成されないのだから、それを禁じる必要もない。あるいは、社会的に望ましい情動概念を形成するようにすれば、それをさらに奨励する必要はない。違反をあげつらう規範があるというのは、社会が情動形成にうまく成功していないということではないのか。
私たちが情動について理解を深めるのは、同じような状況にいながら個々人で異なる情動が認知される場合である。精神を語るときに重要なのは、社会・文化間の差異ではなく、個人間の差異の方であるというのが、私たちが得た貴重な教訓ではなかろうか。
7
問題をさらに複雑にしているのは、情動経験が欲求や欲望の対象となり得ることである。情動そのものが目的化してしまうのは、情動が「感じる」ものであるからだろう。
情動経験を任意に起こすことはできなくとも、情動経験が起きるような状況に自らを置くことはできる。その状況が架空のものであっても情動は経験できるのだ。感覚刺激には文字・映像・音声情報も含まれる。情報が現実を反映しなくてもかまわない。虚偽情報であっても私たちは情動を経験する。虚偽情報であると分かっていてさえも、である。
情動を操作するということはもちろん著者も認めるところであり、生活の改善策として推奨さえしている。しかし、著者は情動の「感じ」が情動ごとに違っているとは考えない。むしろ神経を通過する情報としては痛みやストレスなどとさえ区別はつかないものとしている。分類するのは概念であって、感覚ではないのである。
では、著者の理論を使えば、情動を求める過程はどうなるだろうか。ある情動概念のあるインスタンスを過去の経験から選び、そのインスタンスをもたらすのと同じような感覚入力を求める、ということになろうか。あるいは、ある感覚刺激を異なる情動概念のインスタンスとして自由に分類が可能であるという強い構築力が情動にはあるとすれば、どのような感覚入力も仮想の情動経験に利用できるであろう。通常の情動と異なるのは、広く薄くインスタンスが予測されるのではなく、確率の高いインスタンスだけが予測されることである。そして予測されたインスタンスが経験されるためには、分類や感覚入力が操作されることになる。しかし、そのような操作でインスタンスが経験できるのであれば、情動概念の予測と操作とはどのような関係になるのであろうか。情動の仮想体験について著者は述べていないが、取り上げられるべき課題であろう。
私は著者の研究にいちゃもんをつける気はないが、本質主義を悪者にする論法は生産的ではないと思う(著者は「生得か学習か」という不毛の対立を乗り越えると言っているが)。著者の主張の核は、情動には自然のはっきりとした区別はない、という点にある。それゆえ、情動は学習によって形成される、ということになる。そして、著者の見解に沿わない考え方をなんでもかんでも本質主義というゴミ箱に投げ込むのだ。それらの考え方同士の違いは気にせずに。そのことで失われるものの多さを気にせずに。