信仰と理性
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『天使はなぜ堕落するのか 中世哲学の興亡』(八木雄二、春秋社、2009年)という本のことをたまたま知って、読んでみた。結果的には面白かったし、教えられることも多かった。こういう本とも思いもよらぬことで縁ができるのだ。
天使の堕落とは、絶対善である神がなぜ悪を生じさせているかを問うことの象徴である。以前に、『神は悪の問題に答えられるか 神義論をめぐる五つの答え』(スティーヴン・T・デイヴィス編、本多峰子訳、教文館、2002年)という本を読んだことがある。そこで述べられていたのが同じ問題の現代版であった。これを神義論ないし弁神論というようだ。
八木のこの本に教えられたのだが、中世の哲学においてはこれは重要な問題であった。それ以前はキリスト教信仰は論理的矛盾をあまり問題視しなかったが、中世ではソクラテス哲学の影響によりそれを放置しておくことができなくなったのだ。
私にはこの問題は別の意味で興味深かった。利己的な遺伝子からなぜ人間の利他的行動が発生したかという問題と、逆の対称をなしているからだ。もちろん、その解法は全く違ってくるが、論理が事実に試される姿は似ている。
ところで、冒頭に「結果的には」という限定をつけたのは、途中までは違和感があったからである。読む前は中世哲学の解説書と思っていたので、著者の考えが前に出すぎているのがわずらわしかった。しかも、事実関係についての疑義ならば素直に受け入れられるけれども、思想の解釈どころかその批判までするのは行き過ぎに思えた。西欧中世哲学について、海外の研究者を超えるような独自性など日本人研究者が出せるものだろうか。
しかし、読み進めていくうちに、著者の考えには賛成できかねるところはあるが、著者自らの視点を打ち出していることは評価すべきだと思うようになった。出自における言語や文化の違いがあっても、同じ対象を研究する立場に優劣の差はない。優劣は研究結果で判断すべきだ。私の乏しい読書体験でも、冨田恭彦『観念論の教室』(筑摩書房、2015年)や佐藤俊樹『社会科学と因果分析 ウェーバーの方法論から知の現在へ』(岩波書店、2019年)などは海外の研究者に比しても遜色ないように思える。
さてこの本を取り上げたのは、その内容紹介をするためではなく、その中での私の興味ある点について論じてみたいからだ。ただし、著者が示す歴史背景について、概略だけでも述べておいた方が理解の助けになるだろう。
そもそも中世は、八世紀を中心とした文化的な闇と、一四世紀から始まる文化的な減退の間に存在している。そのうち伝統的な中世哲学の期間は、一一世紀のカンタベリーのアンセルムスに始まり、一三世紀末のドゥンス・スコトゥスか、一四世紀前半のウィリアム・オッカムで終わる。それは闇と闇の間に存在しているので、他の時代からは、どうしても見いだしにくい時代なのである。(506ページ)
ローマ帝国の崩壊による混乱は、ギリシャ・ローマ文化の断絶と継承というまだら模様を中世にもたらした。
古代の終わりに位置づけられるアウグスティヌスには、ストア哲学、キリスト教信仰、新プラトン主義が混ぜ合わさっている。アウグスティヌスより少し後のボエティウスは、アリストテレスとプラトンのすべてを後世に残そうとしたが、アリストテレスの範疇論と命題論をギリシア語からラテン語に翻訳したところで、処刑による死で終えてしまった。その結果、中世に伝えられたのは、アウグスティヌスの信仰とアリストテレスの論理学だった。新プラトン主義はキリスト教と親和的であったが、アリストテレス論理学はキリスト教信仰を論理的に取り扱おうとする。ここから唯名論者と実在論者が対立した普遍論争が起きる。
この頃まではアリストテレスの形而上学が知られていなかったので、アベラールのようなアリストテレス主義者は、論理学者ないし〈唯名論者〉になるに決まっていたし、アンセルムスのようなプラトン・アウグスティヌス主義者は、〈実在論〉を採って神学者になることが決まっていた。(136ページ)
やがて一二世紀末にイスラム世界からアリストテレスの自然学と形而上学がヨーロッパに伝えられる。アリストテレスの哲学は世俗の大学で知識を求める若者を引きつけ、対抗上キリスト教会もアリストテレス哲学を神学に組み入れる必要に迫られた。
つまり、一二世紀に神学の形成を促したのは、アリストテレスの論理学に端を発した普遍論争であり、一三世紀に神学の組織的形成を促したのは、アリストテレスの自然学や形而上学であった。すなわち中世に神学を形成し、発展させた原動力は、どれもじつは「アリストテレス哲学」であって、アウグスティヌスでもなければ、カンタベリーのアンセルムスでも、トマス・アクィナスでもない。
むしろアンセルムスやトマスはそれぞれ、アリストテレスによって神学を形成する立場に追い込まれたのである。言い換えれば、若者の心を引きつけたアリストテレス哲学の奔流のなかで懸命にあらがい、神学運動を起こしたのが、時代の前半はカンタベリーのアンセルムスであり、後半にはトマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスなのである。(263ページ)
トマス・アクィナスによってスコラ哲学が確立したとされるが(ただし、著者はこのような一般的評価には批判的である)、後に続く、ペトゥルス・ヨハニス・オリヴィ、ドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカムによってキリスト教神学は解体されていく。
あまりに簡略すぎて分かりにくいであろうが、要は中世神学は「信仰と理性」の問題に取りつかれていたのである。そこから天使の堕落という問題意識が生じている。以下では個々の論者がその問題をどのように取り扱ったかを、著者の解説によって見てみよう。
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まずアンセルムスについて。
アンセルムスは、天使がそのようなこと(傲慢:引用者注)になる理由を、つぎのように説明している。
神は理性的被造物に対しては、有益なものを望む意欲と、正義を守る意志という二つの意志を与えている。正義を守ることについては、それを捨てることができるように選択権を理性的被造物に与えた。ところで有益なものは、有益であればあるほどそれを得る幸福は大きなものとなるので、当然、より大きな有益を理性的被造物の意志は望む。しかし、正義が守られなければ、その幸福も正しいものではありえない。したがって正義を守り通したものは天使にとどまったが、より大きな有益を望むことによって正義を捨ててしまったもの(神と同等であろうとしたもの)は堕落してしまい、正義を自力では取り戻せない状態となった。
しかし、なぜ天使が正義を捨て、有益さを限界なしにどこまでも求めてしまったのか、アンセルムスはその理由を説明していない。(205~6ページ)
次にトマス・アクィナスについて
トマスによれば、知性は必然的に真理に従う。ところで、意志のはたらきは知性によって規定される、とトマスは説明する。つまり知性が判断したのちに、その判断にしたがって意志の選択がある。しかし、そうであるなら、意志の自由な決定をする「自由決定」は少しも自由がない、という矛盾したことにならないか。これが問題となった。
(中略)
この問題は天使の堕落問題において明瞭になる。なぜなら、天使においては知識に問題がなく、知識の理解にも問題はない。トマスによれば、天使の知性には生来的な知識が神によって与えられている。いうまでもなく、天使は人間とは比較にならない知的能力をもつ上に、身体性がない。ではなぜ、天使の一部であれ、天使は選択を誤り、堕落したのか。
天使の堕落によって悪魔が生じた理由は、神に背反する「自由決定」があったからだとしかいいようがない。しかし、トマスの説明を検討してみても、「自由決定」があるのは意思決定においては偶然が起こるからだ、ということでしかない。(314~5ページ)
著者が見る天使の堕落問題の難しさの原因は、中世神学がギリシア哲学に従って精神と肉体を切り離し、天使を純粋に精神的な存在とみなす一方で、堕落の原因を身体的なものに求めようとするからである。つまり、精神における堕落という視点をもてなかったからである。著者によれば、理性はその能力不足により自己認識が十分ではなく、自己の能力の限界を知ることができない。それゆえ、自己の能力を超えた力が自分にあると思い込む傲慢さに陥ってしまう。天使が純粋に精神的存在であっても傲慢になる必然性はあるのである。
いずれにしろ、トマスの主知主義によっても、天使の堕落を説明することは可能性の説明にとどまっていたし、それはアンセルムスの主意主義においても同じであった。その理由は、両者いずれも理性的被造物の「自己知の不足」という問題に気づいていないからである。そして、あらかじめ述べておけば、可能性の説明については、その後の発展があるが、新たな原因の説明は、中世を通じてほとんど生じなかったのである。(317~8ページ)
ただし、著者も自分の意見の欠陥には気づいている。
このように、「自己を知る力不足」を理性的被造物の本性的欠陥であると見るのなら、天使も堕落しても何ら不思議ではない(もっとも、なぜ神はその力を十分に与えなかったのか、という別の疑問は起こるだろうが‥‥。しいていえば、それは被造物であるかぎり限界がある、ということで理解するほかないだろう)。(212ページ)
肉体的要素であろうが、精神的要素であろうが、そこに堕落の種があるのなら、それをまいたのは神である。神の全能と悪の存在を両立させる困難から逃れるためには、神の全能性を否定するか、神の善性を否定するか、どちらかしかないと私は思う。
ドゥンス・スコトゥスについては、著者は以下のように述べている。
スコトゥスはこの近代への道を切り開いた哲学者であった。スコトゥスは、科学の対象である「普遍」と、価値として考えられる「完全性」を、まったく無関係なものとして理解できる道を切り開いた。スコトゥスを経て、普遍的真理を追究する科学は、善を追求しているのではなく、それとは無関係に普遍的真理を追究するものである、と言えるようになった。近代哲学において、真理と価値のずれが問題になるのは、それゆえ、スコトゥスによるともいえる。(449ページ)
スコトゥスの神学では、意志の主体的な決定力(自由)が最大限に認められる。知性は対象の状況を理解させるが、行動に結びつく決定、判断をするのは、知性ではなく意志であるとみなされる。それゆえ、トマスにおいては神学は観想的な学問、すなわち安定した恒久的な神の真理を見つめようとする科学であるが、スコトゥスにおいては、人間の誤りうる意志を正しく導くために、神の認識を提供する実践的学問とされている。(511ページ)
天使の堕落についてのスコトゥスの見解は、著者の説明によってもよく分からないのだが、私なりの解釈をすれば、スコトゥスにおいては天使の人間化(身体化)が起こっているからではないか。しかも、それはもともとキリスト教が持っていた天使像が顕在化したものと言える。つまり、アリストテレスの影響からようやく脱け出そうとしている中世哲学・神学の姿を現しているのではないか。
ところで、著者は「あとがき」でこんなことを言っている。
中世の時代までに、ずいぶんと多くのことがすでに考察されていたのである。デカルトが書いた『省察』などは、中世の一流レベルから見たら、検討にすら値しない内容のものである。大学生の卒論程度なのである。(586~7ページ)
確かに、デカルトによる神の存在証明はおざなりとも思える。ではなぜ、スコトゥスやオッカムではなくデカルトが近代というエポックとなったのであろうか。それはデカルトがちょうどいいところにいたからだ。デカルトが科学に影響されたのであり、その逆ではないからだ。思想と社会の関係は一方的ではないが、思想が社会を後追いしている様相の方が主であるように思える(そのことはこの本にも描かれている)。