井本喬作品集

パース対パース

 チャールズ・サンダー・パースについて知りたいと思い、解説書を図書館で探してみたが二冊しか見当たらなかった。『パースの記号学』(米盛裕二、勁草書房、1981年)と『パースの思想 記号論と認知言語学』(有馬道子、岩波書店、2001年)である。40年前と20年前の発刊である。パースは、少なくとも日本では、忘れられた存在なのだろうか。

 パースに興味を持ったのは、ある小説的なアイデアを思いついたからである。AIが意識を持つとしたらどういう場合だろうかと考えたとき、そもそもAIはそのことを観察者に告げなければならないことに気づいた。AIの動作をいくら詳しくモニターしても、それが意識を持っているかは分からない。AIに意識があるかどうかは、AIに聞いてみないと分からない。そのためにはAI が喋れなければならない。AIにそのように言わすようにプログラムするのではなく、AIが自発的に喋れるようにプログラムした後に、AIに聞いてみるのである。そう考えると、意識は言語機能を前提とすることになる。そこから少し飛躍すれば、言語機能が意識を生み出すというアイデアになる。

 意識についてはさて置いて、AIが自発的に喋れるようになれば、人間との差はつけにくいだろう。もちろんAIは物質的構成としては人間と全く異なるのであるが、チューリングテストには合格する。

 言語機能は他の動物にはない機能として人間を特徴づけることになるのだろうか。人間を他の動物から区別する機能としては、言語の他に、二足歩行、道具の使用、火の使用、集団的営為などが挙げられるが、不思議なのは言語のような複雑なシステムが人類の発生当時から備わっていたことだ。言語が人間を人間たらしめている要素であるという考えはデカルトを思い起こさせる。音声を含めた記号操作は他の動物でも確認されている。しかし、体系としての言語を備えているのは人間だけである。

 そういうことを考えているときに、たまたま、パースが「人間は記号である」と言っていることを知った。記号と言語の違いについては後で検討するとして、とりあえずパースの考えを知りたいと思ったのである。

 しかし、上記の二冊の本を読んで混乱してしまった。それらは全く異なったパース像を提示していた。パースの考えは複雑であり、また、時とともに変化していることもあって、彼の著述は統一されていないまま残されているようなのである。そのため、解釈者によってパース像が異なってくるらしい。

 それら(パース哲学の多様な側面または立場:引用者注)は存在を見るいくつもの違う視座であり、存在の諸相において取り得るいくつもの立場である。そしてわれわれがパースから学びたいことの一つは、存在を見るそのような多角的な視座である。能力さえあれば、われわれも豊かで複雑な存在のさまざまな相を、幾多の違う視座から――たとえば記号学的観点からあるいは実在論的観点から、論理学者としてあるいは形而上学者として、規範的当為的見地からまた経験主義的見地から、実験科学者の目でまた思弁的思想家の目で、自然主義者としてもしくは超越論者として――見たいものである。(『パースの記号学』)

 米盛がわざわざ「能力があれば」と断っているのは、パースのような人でなければ難しいからである。米盛自身も解説の内容を「主にパースの記号学およびそれに関連する学説」(『パースの記号学』)に限っている。それゆえ、米盛が見るのはパース理論の論理的・合理的側面である。

 一方、有馬はパース理論の心理的・社会的・宗教的側面に興味を持っている。有馬がパースの考え方との共通性を見るのは、ウォーフ(サピア=ウォーフ仮説)、ベルグソン(持続)、デリダ(差延)、そして仏教や老荘思想である。ただし、有馬がパースについて直接語っているのはこの本の内容の半分もなく、後は自身の思想を展開しているので、『パースの思想』という題は適切とは言い難い。

 いずれにせよ、米盛と有馬ではパースの解釈が違っているのであるが、二人が全く別のパースを見ているというのではなく、ほぼ同じパースを見ていながら違った文脈に位置づけているようなのだ(もちろん、パース自体を読んでいない私の憶測に過ぎないのだが)。そこで、アプダクション、直観、シネキズムについての両者の見解を比較してみることで、私の憶測を確かめてみることにしよう。

 アプダクションとはパースの提示する論証の三分法のうちの一つである。すなわち、演繹(ディダクション)、帰納(インダクション)、アプダクションが三組セットとなっている。パースは三分法を記号分析の基礎としていて、それを構成する各項目を第一次性(性質)、第二次性(個体的事実)、第三次性(一般的法則的なもののあり方)と名づけている。たとえば、記号の表意様式は類似記号(第一次性)、指標記号(第二次性)、象徴記号(第三次性)と分類され、記号とその解釈内容との関係は名辞(第一次性)、命題(第二次性)、論証(第三次性)と分類される。ところが、論証の三分法については各項目がどのカテゴリーに属するかは明確にされていない。考えられるのは、アプダクションを第一次性、演繹を第二次性、帰納を第三次性とみなすか、演繹を第一次性、帰納を第二次性、アプダクションを第三次性みなすかのどちらかである。米盛は後者を取る。それに対し有馬は前者の立場のようである。有馬がアプダクションについて触れているのはわずかな箇所であるが、そこでは次のように言っている。

  パースは観察者としての人間がコンテクストに既に組み込まれていること、そしてつねに動き続けるそのコンテクストに辻褄のあうような推論としてのアプダクションがあることを見出すことによって、その推論の中核をしめる直観のはたらきが重要であることに気づいていた。いわば自然としての身体の直観を通じて人間の心と自然は連続している(シネキズム)ということである。(『パースの思想』)

 この文だけでは分かりにくいが、有馬は二つの文脈にパースを位置づけている。一つは、自然言語を含む文化が人間の認識を規制しているという文化制約論的な観点によるもの。この文脈でウォーフが評価されている。もう一つは、人間の心は「『人間社会の約束事である言語』を越えた非合理的な実在の自然、カオスとしての自然」と結びついているという観点によるもの。アプダクションないし直観はこの結びつきに沿ったものとされる。当然、アプダクションは第一次性に属することになろう。この文脈ではベルグソンや仏教、老荘思想との関連が重視されている。

 米盛の解釈は有馬とは全く違う。米盛はパースがアプダクションを第一次性に属しているとみなすような表現をしていることは認める。そうであるならアプダクションは心理学の主題に属しても論理学の主題にはなりえないことになる。しかしパースはアプダクションを論証の一つの様式として分類しており、論理的な過程ないし方法とも言っている。それゆえ、米盛は、パースの本来の反心理主義の立場に従って、アプダクションを第三次性に属するものとして捕らえる。

 米盛によれば、アプダクションは「意外な事実の観察から出発し、その事実がなぜ起こったかを説明し得ると考えられる仮説の提案を行う」のである。したがって科学的探究の過程では、アプダクション、演繹、帰納という順序になる。「仮説を構成するということは、言いかえれば、われわれの側から積極的に自然に問いかけることによって自然から正しい解答を引き出す手続きを意味する」。「しかし自然にうまく問いかけて自然から正しい解答を引き出すにはもちろん熟練した思考の技術を要する」。この「熟練した思考の技術」が有馬の文脈にはめ込まれると「直観」となるのかもしれない。

 このようにアプダクションについての有馬と米盛の解釈は全く異なっている。それは直観についても同様である。有馬の言う直観は論理を経由しない認識である。しかし、米盛はパースがそのような直観を否定していることを強調している。我々が存在を意味あるものとして認識するには記号作用を伴わざるを得ない。「人間は記号である」というのはそういうことなのである。そして、パースの言う習慣というのは、人間の記号作用の歴史的集積のことである。有馬に言わせればそれが文化的言語的制約であるのだろうが、米盛によるパースは、それこそが認識そのものであるとする。いや、それは制約などではなく、真の制約となっているのはより根源的な記号的論理である。

 有馬によれば、その制約を解消しようとするのがシネキズムという概念である。米盛はシネキズムには触れていないが、有馬にとってはパース理解のキーとなっている。シネキズムによれば、すべてが連続しているのであるから、人間の心も身体を媒介として自然とつながっている。それゆえ、論理を越えた直観も可能になる。

  シネキズムはあらゆるコンテクストとテクストを結び、イコンとインデックスとシンボルを結び、連続的に螺旋状に発展して生命の営みを続けていくが、この螺旋状の運動における統合力が大きいとき、すなわちより遠い非習慣的な異質なコンテクストとテクスト、より非習慣的なイコンとインデックスとシンボルが統合されるとき、連続運動(シネキズム)におけるより大きな躍動があり、したがってより大きな「生きている感じ」としての生命力の高揚が生ずることになろう。それに反して、そうした結びつきがきわめて習慣化したパタンに惰性化してしまうとき、連続性はその螺旋状の動きを低下させ、反復運動に近いものとなり、生命力の弱いものになってしまう。というのも、この統合力(結びつける力)こそ、生命力にほかならないものと思われるからである。(『パースの思想』)

 このような見解(パースのものというより有馬のもの)に対しては、米盛は強く反対するであろう。有馬の見解はむしろジェイムズに妥当するのではないだろうか。米盛はジェイムズのプラグマティズムとパースのプラグマティシズムの違いについて、以下のように述べている。

 ジェイムズから見れば、抽象的な記号は単なる名目であり、生きた現実的実在の蒼ざめた輪郭に過ぎないものであろう。かれにとって、言語はその一般化抽象化機能によってわれわれを生きた具体的実在から遠ざけ、さらに言語はその固定的カテゴリーによって、不断に流動し変化して止まない実在を静止的に区画化し形骸化するものにほかならないであろう。記号と言語はつまり「抽象的で、一般的で、無気力なもの」の元凶である。しかしパースの見方は全く違う。かれにおいては、反対に、実在は普遍的一般的法則的なものの在り方である。実在とはすなわち科学が発見する真の一般原理、法則のことであり、したがって実在は抽象的な性格を有し記号の性格を有するものである。(『パースの記号学』)

 あくまで記号主義者としてのパースにこだわる米盛とは違って、有馬は晩年のパースの考えが宗教的なものに近づいていることに注目している。私はパースについて何も知らないのだが、米盛のパース像の方が好ましい。なぜなら、論理によって思考を統制しようとする態度が信頼できるからだ。

 とはいえ、私は米盛の提示するパース像に全面的に共感するのではない。「人間は記号である」というパースの主張は、よく考えると最初に思えたほどインパクトがない。なぜなら、人間以外の生物の一部もまた記号であると言えるからだ。魚や昆虫の警戒色や擬態は自分が餌ではないことを知らせようとする記号といえるが、捕食者はそれをその通りに理解する。メスにアッピールしようとするオスの身体的装飾や、発情期を知らせるメスの身体的特徴も同様にその相手に理解されている。植物でさえ花の鮮やかさで蜜の存在を伝え、昆虫はそれを理解する。だとすれば、記号であること、あるいは記号を使うことは人間だけの特性ではない。だから、「人間は記号である」というのは、「人間だけが記号を理解する」ではない。人間を人間たらしめているのは記号一般ではなく、言語ではないだろうか。言語の特徴は文を作ることだ。鳥やクジラ類には言語に似たコミュニケーションが見られるらしいが、彼らが文を作ることはないだろう。言語は記号だが、他の記号にはない特徴がある。それゆえ、「人間とは言語である」と言い方が適切だろう。

 さらに、パースが見落としている(と思われる)のは、記号は嘘をつくということだ。毒のある虫に自分を似せる虫は、捕食者を誤解させる記号を使っていることになり、捕食者は騙される。そもそも、記号がそれ自身ではない何かを意味するのであるとしたら、そして、その何かを意味する記号を偽造ないし模造するコストが低ければ、偽造や模造が生じるのは当然である。そもそもそれを偽造や模造と言うのもおかしい。記号としての機能を正しく使っているからだ。だとすれば、意味に対して記号は多すぎるのかもしれない。

 私たちは何かを表現しようとして適当な言葉を思いつかないことがある。そういう経験からすると、表現しようとするものに対して記号の方が少ない気がする。しかし、表現しようとするものとして認識されるものもまた記号であるとすれば、記号(言葉)によって記号を表現するということになる。だとすると、詭弁めいてはいるが、記号の方が多いことになるのではないか。

 もちろん、パースの理論が記号論の完成形というのではない。パースも言うように、理論は開かれていて発展するものである。パースの理論もそういうものとして理解すべきなのだろう。

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