井本喬作品集

能力の世界

 『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治、新潮社、2019年)という本が評判になっていたことは知っていたが、読む気にはなれなかった。ケーキを等分できないのは、他人と分かち合うという視点が持てないからであり、それが犯罪行為の基底ともなっている、というような内容だと思っていたからである。発達障害者が対人関係を苦手とすることと結び付けて、共感とか協調とか客観的視点といったようなものの重要性を説いているのであれば、新味はなく、また、そんなことで問題解決にはつながらないだろうと反発する気持ちあった。

 ところが、そういう内容ではなかった。WEB記事『もっと教えて!「発達障害」のリアル』(2020年6月10日)の中の著者(宮口)のインタビューを読んで、この本は発達障害と関連付けて読まれることが多いが、実は知的障害者を扱ったものだということを知った。読んでみると、教えられることが多かった。

 著者によれば、非行少年がケーキを等分できないのは、エゴイストであるからではなく、認知機能が弱いからである。つまり、単純に図形の意味が理解できていないのだ。認知機能が弱ければ、問題行動に対する治療法である認知行動療法は有効ではない。そもそも認知ができないのだから、行動を変えようがないのだ。

 認知機能は学習能力を支える基盤である。認知機能が弱ければ、そもそも数字や字を扱うことが困難なので、いくら計算や読み書きを勉強しても身につかない。それゆえ、学校の授業についていけない。小学校は何とか卒業できても、中学校では落ちこぼれて非行に走ったりしてしまう。仕事に就いても、簡単な計算や言葉のやり取りが壁となって、長続きしない。生きていくためやストレスの発散のためなどで犯罪に手を染めてしまうこともある。

 知的障害とされる人々の認知機能の弱さは分かりやすいので、他者の援助を受ける可能性が高い。一方、認知機能の弱さは境界知能とされる人々にもみられる。しかし、そのことを他者が理解しそこなうために、彼らは適切な助力を得られないことが多い。IQが正規分布であることを機械的に当てはめると、境界知能(IQ70~85)は14%を占めることになる。小学校の35人クラスに5人がいることになる。この数の多さには驚かされる。著者は認知機能を向上させるための訓練(コグトレ)をあみだして少年院や学校で実践し、またその普及にもつとめているとのことである。著者の熱意や努力には頭が下がる。

 この本を読みながら、私は別のことを考えていた。自由市場においては労働の報酬は業績の対価である。業績が大きければ報酬も多くなる。業績を上げるためには単に知能が高いだけでは不足で、対人関係のあり方や、意欲や、感情や、もちろん運などの要素が総合して作用する。しかし、ある程度の知能は必要条件である。ということは、知能が比較的低ければ、業績をあげる能力は比較的低くなり、報酬の高い地位にはつきにくいということだ。自由市場が格差を生むのであれば、知能の差は能力差となって、層の形成を必然とするだろう。特に下層の人々にはほとんどチャンスがないことになる。しかし、機会の喪失はそれだけではないようだ。

 『河合薫の新・社会の輪 上司と部下の力学』(2020年6月14日)というWEB記事では、非正規労働者の50歳男性の生涯未婚率が6割越えになったことを取り上げていた。これは日経が2020年国勢調査を基に分析したものである。これも驚くべき数字だが、ということは、それに対応する女性の未婚者がいるということである(単純に男女同数と考えれば)。50歳の未婚率は、男性側では非正規の60.4%、正規の19.6%、女性側では非正規の10.3%、正規の24.8%である。男女別の非正規・正規の割合、夫婦の年齢差と世代別の男女比率、専業主婦、被雇用者でない未婚の人など複雑な要素はあるのだが、ざっくり言えば、正規にしろ非正規にしろ、結婚相手は主として働いている人間になるだろう。

 共稼ぎには二つの形態があると考えられる。一つは男女がそれぞれ自分の能力を職業において発揮したい場合、もう一つは共稼ぎをしないと生活ができない場合だ。

 もし、低所得であることが結婚を妨げているのであれば、そして、低所得であることを改善できないのであれば、共稼ぎを一つの生活スタイルとして定着させるような施策が必要なのではないか。つまり、婚姻率を上げるには共稼ぎでの生活がしやすい環境を作ることが必要であり、また出生率を上げるには共稼ぎで子育てがしやすい環境を作ることが必要である、ということだ。

 市場が労働力の移動を求め、市場以外では経済を発展させることができず、人々が経済の発展を望むなら、労働市場での賃金格差は当然視される。そのことを日本人はなかなか認めたがらない。河合の同記事によれば、雇用形態と未婚率が有意に関連を示しているのは日本だけであるとのことだ。非正規雇用の男性は結婚の対象として不適とされるのだが、非正規化がさらに進めば、女性の結婚相手はますますいなくなってしまう。非正規雇用が正常な働き方であると社会的に容認されれば、そして共稼ぎが同様の扱いを受ければ、非正規雇用男性の婚姻率は上がるであろう。格差社会がどうにもならないのであれば、そこで生きていく方法を見つけなければならない。

[ 一覧に戻る ]