井本喬作品集

ハイデッガーをきっかけに

 ハイデッガーは一度読みかけたことがあるのだが、案の定すぐに挫折してしまった。読んだのはもちろん『存在と時間』(1927年)である。読みかけたままで放棄していることがずっと気になっていた。

 ただし、私が読もうとしたのは辻村公一訳の『有と時』(河出書房、1967年)で、通常「存在」と訳すところを「有」、「時間」を「時」としている。したがって「現存在」は「現有」となる。ちょっとなじまないが、訳者にはこだわりがあるようだ。

 ところで、訳者自身によるこの本の解題には、西谷啓治『ニヒリズム』(1949年)があげられ、「訳者のハイデッガー理解は最も多く且つ長くこの短い章に負うている」とある。「この短い章」とは「第六章 哲学としてのニヒリズム(ハイデッガー)」である。それゆえ、『存在と時間』を再読する前に、まず『ニヒリズム』(西谷啓治著作集第八巻、創文社、1986年)を読んでみることにした。

 『ニヒリズム』の第六章は簡潔にまとめられたハイデッガー解説である。西谷の解釈が正しければ、ハイデッガーの考えがよく分かる内容のはずである。ただ、ハイデッガーが述べているのがこの程度のことなら、わざわざ原著を読む必要はないような気もした。

 『ニヒリズム』の他の章も読んでみた。感想の第一は、扱われているのは「ニヒリズム」ではなく「ニヒリズムの克服」であるということだ。ここで言及されている思想家は、ショーペンハウエル、キェルケゴール、フォイエルバッハ、ニイチェ、スティルナー、ハイデッガー、ドストエフスキイなどであるが、いずれもがそういう観点から述べられている。

 著者の叙述を私なりに解釈すれば、近代ヨーロッパにおけるニヒリズムはドイツ的な現象である、となろう。なぜなら、「ヘーゲル以後になって、神とか『真実在』の世界とかを基礎とした形而上学やモラルの急激な崩壊が始まった」(12ページ)からである。ヘーゲルの影響はドイツに限られてはいなかったが、ドイツにおいては圧倒的であった。それゆえ、その失墜への対応が、時代に適応しようする思想の目標となった。それらはヘーゲル的理念などというものはないと主張することで必然的にニヒリズムの立場に立たされることになるのだが、そこに留まるだけでは物足りなくなるのである。ヘーゲルとは違った方法でヘーゲル的秩序を再び打ち立てようとするのだ。

 詳細は省略するが、彼らはヘーゲルと対決することで、ヘーゲル的な宇宙に捕らわれてしまっていると言える。あまりに理念的なのである。むろん、時代的地域的制約があることをいまの時代にいる私たちが批判してみても仕方がない。また、西谷自身がやはり時代的地域的制約のもとで解釈していることを批判してみても詮無いことである。とはいえ、私が抱く根本的な疑問を、ハイデッガーを例にして指摘しておこう。

 著者によるハイデッガーの解説によれば、現存在(人間)のあり方の本質は、「存在するもの」の一つとして自らを捕らえるのではなく、存在するものを超越して「存在」そのものを把握することにある。存在そのものを把握するということは存在の「有限性」を把握することであり、つまり「無」に直面することである。しかし、そのような認識を持つことはすべての人に可能であるのではない。私たちには二つの道がある。つまり、「我々は無のうちへ本来的(・・・)に自らを挿し入れて、有限者になり切り、かくして自己自身であるか、或いは世人として非本来的にあり、有限性を自らに誤魔化し、自分自身を失ふか」(171ページ)という選択である。

 しかし、そのどちらにあるかを判断するのは誰であろうか。ハイデッガーなのか。それともハイデッガー信奉者なのか。彼らが他人に対してそのような判断を下せる根拠は何か。他人はその判断を受け入れないかもしれない。その時は他人が間違っていると糾弾しようというのか。あるいは、他人はその判断を受け入れるかもしれない。その場合は、その受け入れが正しいかどうか(本来的であるか非本来的であるかを正しく把握しているかどうか)をどうやって確かめようというのか。人間を二種類に分け、一方を本来的であると賞賛し、他方を非本来的であると排斥するような哲学を信頼できるだろうか。

 著者(西谷)は次のようにも言う。

 併し実存や生の哲学は、さういふ「形而上学」と戦ったのみではない。それは「科学的」な立場とも対決しなければならなかった。といふのは、ヘーゲルの形而上学を破壊した実証主義や自然主義の哲学は、科学を盾に取った新しい独断的形而上学であったからである。(144ページ)

 「実証主義や自然主義の哲学」が何を指しているかは分からないが、バランスをとるためにドイツ以外の哲学に当たってみようとするなら、ラッセル『西洋哲学史』(1945年、市井三郎訳、みすず書房、1970年)は最適に思える。出版時期は『ニヒリズム』とあまり変わらないし、イギリスの哲学者による西洋哲学史なのだから。この本は日本ではあまり評価されていないようだが、私は大きな影響を受けた。

 しかし、当てが外れたことに、『西洋哲学史』が取り上げているのは『ニヒリズム』の中の思想家のうちショーペンハウアーとニーチェだけである。キェルケゴールはまだいいとして(彼はデンマーク人でもあるし)、ハイデッガーに言及がないのである。現象学や実存主義はイギリスではあまり注目されなかったのだろう。

 さて、ラッセルは近代西洋哲学をロックの系統とルソーの系統に分けて、前者を評価し後者を批判している。ラッセルの批判は『ニヒリズム』で取り上げられている思想家たちにも当てはまる。

「高貴」だと呼ばれるような種類の倫理は、ひとびとをもっと幸福にするよう努めるべきだ、というような現世的な見解ほどには、世の中を良くしようとする試みとつながってはいない。これは驚くべきことではない。幸福が他のひとびとのものである場合には、それが自分自身のものである場合よりは、幸福を軽べつ(、、)することがより容易になる。通常、幸福の代替物はなんらかの形態の英雄主義である。それは権力欲に無意識的な吐け口を与え、残酷な行為に豊富な口実を提供する。(636ページ)

 この常識的な見解に私は賛成する。超人になりたければなるがいい、しかし、凡庸であることを責めるのはやめてくれ。超人であろうと凡人であろうと、本人がそれで満足ならそれでいいではないか。第一、誰もが超人になってしまえば、誰も超人にはなれないのだ。超人は見下すための凡人を必要とする。超人とは自らがエリートであることを確認するための装置にすぎないのだ。

 西谷啓治『ニヒリズム』の内容を「ドイツ的」と表現したのは、西谷の視野が限られていることを指摘したかったからである。しかし、それは西谷個人の問題というよりは、当時の日本の「哲学界」の問題であったようだ。

 『西洋哲学史』の「訳者あとがき」にこうある。「わたしが本書の邦訳によって願うことは、左右ともに主としてドイツ観念論の息吹の下に育った日本の哲学界に、このようなイギリス的新風を吹き入れる端緒をつくりたいことでもある。」別の個所には「わが国の哲学界がドイツ観念論の偏重の下に育ってきた」ともある。この訳書の初版は1954~6年に出版されており、『ニヒリズム』とほぼ同時期と言っていいだろう。つまり、『ニヒリズム』が書かれた時点でも、「ドイツ観念論の偏重」は続いていたのである。「ドイツ観念論の息吹の下に育った」人間が、敗戦を経験したからといって、そう簡単に信条を切り替えられるはずもない。

 ところで、「ドイツ的」であるのは単に「哲学界」だけの問題ではなかったようだ。たまたま読んだのであるが、『文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校』(高橋里惠子、松籟社、2001年)という本に次のような記述があった。

  世紀転換期のドイツでは、「真の教養」(あるべき未来)と「偽りの教養」(憂うべき現状)という対比のもとに文化批判的発言が盛んになされたという(ニーチェの教養俗物批判がその典型である)。それは、自然科学や技術の発展、資本主義の進行、教育・文化の大衆化に伴い、自分たちのよって立つところの価値が下落し、危機意識を募らせていた教養市民層の猛烈な巻きかえしの動きである。(略)日本的教養主義が受け継いだのは、社会に対するこのような態度そのものであり、それが左右どちらかの動きであるかはもはや問題にはならなかった。正統的ブルジョワ文化も、それに対するカウンター・カルチャーも、近代も反近代も、教養も教養批判も、日本的教養主義(とりわけ昭和期教養主義)はゴッチャに受け入れてしまった。(略)そうした多様な(?)日本的教養主義の読者を統一するのが、社会や世間に対するいくぶん(・・・・)批判的な態度であった。むろん、それが弊衣破帽に代表されるような、エリート学校でのみ謳歌できる(いやったらしい)ものにすぎないことを忘れてはならないが。(190~1ページ)

 つまり、西谷啓治のドイツ哲学に関する解説は、教養主義的な言説の一つとして解釈すると理解しやすいのである。昭和十年前後の教養主義の復活期において、ドイツ文学者はカロッサ、リルケ、ヘッセの紹介、そして一方でナチス文学の紹介に活躍した。『文学部をめぐる病い』には、昭和期教養主義を担った一高経由東京帝大独文科出身のドイツ語教師として高橋健二(1902年生)、芳賀檀(1903年生)が挙げられているが、西谷啓治(1900年生)も一高出身者である。西谷は京都帝大哲学科へ進んだので二人とはコースが違っているが、同じような文化圏に属していたと言えよう。

 彼らに共通するのは、俗人としてのうのうと生きることへの批判である。望ましい生き方とはエリートのものであろうが、エリートであれば何でもいいのではなく、非世俗的エリートであることを勧めるのだ。『文学部をめぐる病い』が指摘するのは、その背景にあるのが、単に帝国大学卒業だけではもはやエリートとはみなされなくなった教育の大衆化である。それゆえ、俗世(そこには教育機関も含まれる)を批判することでエリート性を確保しようというのであるが、その際に持ち出されるのがドイツ文学であり、ドイツ哲学なのだ。

 敗戦によって、ナチスとの関連を疑われた教養主義は転落し、エリートは民主主義によって放逐された。しかしながら、ドイツ哲学は現象学や実存主義に関連してしばらく影響力を保ち続けたようである。『ニヒリズム』はその証拠の一つであろう。

 ところで、私はヘッセの諸作品を愛読し、カロッサの『ルーマニア日記』(1924年)やリルケの『マルテの手記』(1910年)も読んだ。マンの『トニオ・クレーゲル』(1903年)、『魔の山』(1924年)も好きである。児童文学ではケストナーの『飛ぶ教室』(1933年)にも感動した。それらの作品にドイツ的な特徴を探し出すこともできようが、より普遍的な要素が私たちを引き付けるのだと思う。その中には、あえて言えば、俗を超えるという心情も含まれている。それを教養主義的というなら、私にも教養主義的な傾向がある。これらの作品を読んでいる(そしてそれをひけらかす)ということ自体まさに教養主義的であろう。

 ラッセルにもエリート意識はあったろうし、優越的であることに関して何の根拠もない私にさえある。でないとこんな大口を叩けない。「弱者」への援助活動をしている人々にもそれはあるだろう。エリートであるという思いが困難な状況を耐え、乗り越えることを支えることもあるはずだ。だから、他のものごとと同じように、きれいに割り切って断じてしまうことはできないのは心得ておかねばならない。

 『西洋哲学史』について補足する必要を感じたので、追加的な感想を書いておく。ラッセルの考えをごく常識的にまとめるとすれば、それは主観性よりも客観性、感情よりも論理を重視するものである。もちろん、人間の知識の限界性から、すべてを客観的・論理的に説明することはできない。特に実践面においては、論理では解決しえない領域においても決定を下さねばならない場合がある。そういうときには、信念といったあいまいなものに頼らざるを得なくなる。自由、平等、人権といったものの価値をラッセルが尊重するのは、彼の信念に基づいてである。

 だとしても、その場合においてさえラッセルは客観性や論理を重視する。それは他人との協調のためなのだ。ラッセルがロマン主義的な激情を批判するのも、それが自己の感情に捕らわれるあまり、他人のことを気にしなくなるからである。たとえその感情が低俗とみなされる欲望からのものではなく、自己を高めるなり、豊かにするなり、鍛えるなりするという目標を目指すものであっても、それだけでは正当化できないのだ。ラッセルは言う。「人間は孤独に住む動物ではなく、社会生活が残存する限りは、自己実現ということが倫理の至高原理となることはできないのだ」(677ページ)。

 ラッセルが近代西洋哲学の潮流をどのように見ていたかを知れば、彼の考えがより一層明確になるであろう。ただし、ラッセルの記述は系統的に整理されているとはいえず、やや複雑である。イギリスの経験論と大陸の合理論という通常の分類に従って、ラッセルは前者をロックからJ・S・ミルに至る系譜とし、後者をデカルトからヘーゲルに至る系譜とする。合理論とは経験を越えた存在としての理性や理念のようなものを想定する立場である。

 一方で、ヒュームの懐疑論が合理的な判断の根拠を棄損したことにより、「心情は理性より優れている」という思想が拡大していったことをラッセルは指摘する。そのことにおいてはルソーの影響が大きく、ルソーを起源としてロマン主義が発生した。イギリス経験論はロマン主義とは無縁であったが、大陸の合理論は再編成を迫られた。カントやヘーゲルは理性による主観と客観の再統一を目指したが、成功したとは言えない。

 理性が信頼できないのであれば、より確からしい感情や欲望や意思に身を任せることの方が望ましい生き方となるのではないか、そういう考えが当然出てくる。ただし、もう一つの方向として、性急に理性を放擲するのではなく、理性の限界を見極めるというやり方がある。理性の能力に疑いが持たれようとも、それが有効に使える範囲を確かめることができれば、その範囲内で理性は信頼しうるものとなる。ラッセルはこの対立をルソー対ロックという形で提示している。

 このような見取り図によれば、『ニヒリズム』で取り上げられた思想家たちは、ロマン主義の一形態であったとみなすことができよう。そして、ラッセルがロマン主義を厳しく批判していたことから、ショーペンハウアーとニーチェ以外の思想家への評価も、もしなされていたとすれば、同様であったろう。

 ラッセル(の当時の意見)に同調するかどうかは各人の判断による。しかし、判断を下すのなら、『西洋哲学史』を読んでからにすべきである。その読書があなたの意見を変える可能性は高くないかもしれないけれど。

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