井本喬作品集

再会

 約束の時間には早すぎた。潔は晶子がまだ来ていないのを確かめると、本丸まで登り高台から街を眺めた。ここからだと街の北半分が見渡せた。すぐ傍に県庁と市庁のビル。その辺りにビルがかたまっていて、あとは瓦屋根が広がっている。彼の通っていた大学は城跡の南側にあるのでここからは見えない。日ざしがきつく暑い。潔は石段を下りて戻り、木陰に入って晶子を待った。

 晶子は追手門の方から三の丸広場を横切って来た。白い半袖のブラウスに薄茶色のスカート。帽子が額まで隠し、目はつばの陰の中だ。潔は笑顔になり手を振った。晶子も手をあげて答え、近づいてくる。

「待った」

「少しね。でも、退屈はしなかった。ここはなつかしいから」

「卒業してから初めて」

「そう、三年ぶり」

「よくここへ来たわね。四人で」

「君は変わらないな」

「そうかしら。自分では変わったつもりだけど」

「僕の目には変わっていない。この街もね」

「そうでもないのよ。ずっと住んでいれば分かるけど、最近は結構いろいろ変わって行く」

「君はこの街を離れないの」

「たぶん。分らないけど」

 二人は二の丸の石垣にそって並んで歩き出した。中年の女性の乗った自転車が彼らを追い越した。城跡を通り抜ける道は堀を迂回するより近道になっている。

「ここは暑いな。どこか涼しいところへ行こう」

「いつも行ってたあのお店、つぶれちゃったわ」

「キーウエスト」

「そう、キーウエスト」

「じゃあ、アネモネは」

「アネモネはまだある。でも私あそこはあまり好きじゃない」

 二人は堀を橋で渡り、大通りに出た。

「あの奇妙なものは何」

「新しく出来た複合施設。コンサートホールとか会議室とか展示場がある。レストランもある」

「やっぱりここも変わっているんだなあ。あそこはどう」

「いいわよ。喫茶室がある」

 二人は信号のところで大通りを横切り、市庁の斜向いにあるガラスを多用したドームのような建物に入った。入ったところは四、五階分ほどが吹き抜けになって天井まで達している。中にいる人間を圧倒するために作られたとしか思えない構造物の露骨な骨組みを見上げて、潔は言った。

「贅沢な使い方をしてる。予算がないのによくこんなものが作れたな」

「バブルの頃の計画を、誰も見直そうとしなかったのじゃない」

 中央の広場の周囲にいくつかの部屋と通路がある。一画に喫茶室があった。とくに囲いはなく、十脚ほどの机と椅子が並べてある。ガラスの壁から外の芝生の庭が見える。客はこの施設の関係者らしい三人連れの一組だけだった。壁際の机を選び、二人ともコーヒーを注文した。

「こちらへは何か用事」

「ゼミの同窓生の結婚式があって」

「そういうことでもないかぎり、来ることはないのね」

「たぶん、もう、来ることはないだろうな」

「話したいことって何」

「特にないんだ。何だか会いたくなって。どうしているかも知りたかったし」

「声をかけてくれてうれしかったわ。あのことがあってから、お互いに避けていたけど」

「そうだな。ずっと一緒にこの街にいたら、君や和彦とは会わないようにし続けたかもしれない」

「離れているとなつかしくなるのね。どうしてた」

「ご覧の通りさ。どう見たってサラリーマンだろう」

「好きな人は出来た」

「付き合っているのはいるけど」

「そう。どんな人」

「普通の娘。君はどうなの。和彦とは会うことはあるの」

「ときどきは帰ってきているみたい。でも、会うことはない」

 潔は話題に迷い間をあけた。その間を埋めるように晶子が言った。

「明のお墓には参った」

「いや。墓に行かなくてもあいつの存在は感じられるよ」

「そうね。今でもこの街のどこかに明がいるような気がする」

「君はまだ明のことを忘れられないのか」

 晶子は答えなかった。子供の声が響いたので潔はそちらに目を向けた。二、三歳ぐらいの子供が走っていくのを、もっと小さいもう一人の子供を抱えた母親が追いかけている。同じような何組かの親子連れが広場を横切って通路の方へ歩いていった。

 晶子が言った。「あの夜、何があったの」

 約束した手紙を書きます。君はあの夜のことが知りたいと言った。僕は口では話せないから、手紙を書いて送ると約束した。本当は、そう言って引き延ばしておいて、やはり黙ったままにしておこうと思っていた。でも、この前君と会ったとき、君がいつまでもあの夜のことに捕われていて、違った明日に向かい合うことをしていないのではないかという気がした。そうならば、あの夜に起こったことを君に知ってもらうべきではないかと考え直した。

 でも、あの夜のことは、それ以前のことから書き起こさないと説明ができない。君もその場にいたことも多いから余計なことかも知れないけど、そもそもの初めから書いていきたい。

 僕がこの街の大学を受験したのは、この街に一時住みここを小説の中の挿話の舞台に使ったSという小説家に影響されて、高校生のとき旅行し気に入ったからだ。僕の学力レベルにも合っていた。親や友達からは物好きに見られたが、生まれ住んだところから離れて生活してみたいという気持ちが強く、移るのなら気に入った場所を選びたいと思っていた。幸い合格したので、知り合いのいないこの街で一人暮しを始めた。

 県下の高校から進学して来た者達は同じ高校の顔見知りがいたが、僕のように県外から来た者はまず話し相手を見つけなければならなかった。語学クラスで席が隣だったり、クラブ加入の申込にいって一緒になったり、あちこちでぶつかっているうちに、顔を見ればあいさつをするような相手ができる。そんな連中や彼らの手づるを伝って知り合った中から、お気に入りの仲間が出来ていく。入学式のあと数日して、選択科目の申込などの手続きも済んで毎日のスケジュールも決まり、ようやく大学に通うのに馴れ出した頃のこと、そんな風にして知り合った一人から花見に誘われた。帰っても一人で何もすることもなし、少し寂しく思っていたから喜んで承諾した。城跡の桜の下に暮れ方集まることになっていて、場所取りの連中が先に行っているからすぐ分るはず、不安なら買い出しに一緒についてきてもよい、と言うのでそうすることにした。学食で待ち合わせ三人でスーパーに買い物に行ったが、もう一人が明だった。法律は別にしろ大学生になったから公然と飲めると、桜の下にひいたビニールシートに車座になりビールを飲んで騒いだが、何せ寒かった。隣にすわっていた明とお互いの経歴めいたものを話して親しくなった。桜、桜と騒ぐのに反発して、大した花でもなし色は薄くてただむやみに数多く咲くだけではないかとあなどっていたが、闇を背景に雪洞に似せた外灯に照らされた花を振仰いだあのときの桜は美しかった。

 君たちと知り合ったきっかけもよく憶えている。五月の連休過ぎの頃、既に何度か来ている僕の部屋へ明を誘った。僕のアパートは街の北東のはずれの山際にあった。自転車の後ろに明を乗せてアパート近くまで帰ったとき、君と和彦に会った。君らはSの旧居を探していた。後で分かったが、おかしなことにSの旧居を知っているのは県外出身の僕だけだった。僕がこのアパートを選んだのもSの旧居の近くだったからだ。

 僕が口で教えるのに苦労しているので、案内してあげたらと明は言った。Sの旧宅へ歩きながら話してみると、なんとなく予想していたように、君らも同じ大学の新入生だった。Sの小説を読んだばかりなのでいい機会だから訪ねようとしたと君は言った。Sを読む人は近頃あまりいない。僕は君に興味を持った。Sの旧宅は保存され公開されている。ついでだからと僕と明もカネを払って入った。平屋の日本家屋でどこといって特徴はなく、昔のままの作りが残されているだけが取り柄だろうか。「文豪」という古臭い権威で見る人を感心させている。きれいに手入れされている小さな庭に面した部屋の多少波打ち気味の畳にすわり、この家に関するSのエピソードを僕は話した。Sの全集を持っていると僕は誇ってみせた。借りてもいいかと君が言い、帰りにアパートに寄ったのが僕らがグループとなった始まりだった。

 だから、最初グループは僕を経由して結びついていた。僕と明は友達で、君と僕とは読書という共通の趣味で接近し、君から和彦につながる。ただ、和彦にしてみれば自分の恋人に近づく僕を目障りに思っていただろう。和彦が僕を受け入れたのは打算からだった。大都会と違って男女が秘密で会える空間は少ない。それに学生の小遣いでは頻繁に利用できない。通学生の君らには僕の部屋が格好の場所に思えた。和彦からそういう申し出があったとき、自分の部屋が汚されるのは嫌な気がして躊躇したが、結局は承知した。そうすることで君に対する野心がないことを示せば、和彦は君との友情を認めてくれるだろうと判断したからだ。和彦にも僕を試そうという気持ちがあったのかもしれない。むろん明には話した。彼は意外に思ったようだ。「君は晶子が好きなのだろう。そういうことをされてよく平気でいられるな」

 そのうち、グループの中心は僕からずれていった。変化は君と明に起こった。君が明の方に目を向けがちになるのをいつ頃気づいたか。僕が気づくぐらいだから、和彦はとっくに分かっていたろう。ところが明の方はそんな君を無視して和彦と親しくなっていた。四人で歩いて、君と僕が本の話をして先に行き、明と和彦がついてくるときなど、君はときどき後ろを向いて話しかける。すると和彦と明は君を見る。君は二人を交互に見て顔を戻しまた僕と話をする。けれども先程とは違ってなぜか応答がいいかげんになる。君と明と和彦の三角関係から僕は外れていた。

 三角関係。表に見えるのは君と和彦の関係だ。それを蝕むように、君は明に魅せられ、明は和彦を誘惑していた。

 美少年というのは明のことを言うのだろう。親しくなってから聞いたのだが、明は小さいときから女だけではなく男たちの誘惑に悩まされてきた。明は内気であり、自分の容姿をあからさまに誇るような態度は示さなかったが、彼がナルシストになってしまうのは当然だった。彼はいつもどこでも誰かに見つめられてきた。通りすがりの人間も彼を見ると見続けてしまう。僕らも彼と話をしていると、青年期の衒いや稚気に満ちた会話の内容と、それを口にしている明の姿にチグハグな感じがしてならない。単にハンサムというなら、属性の一つとして、他の属性、例えば運動能力とか、知能とか、性格とかと併置できる。明の場合は、彼の姿形以外に属性は必要なく、逆にそんなものは邪魔にさえ思える。

 明には恋人はいなかった。彼を愛玩物扱いしようとする女性ならいたかもしれないが、明はそういうことを拒否できる年齢になっていた。彼は恋愛をしたがっていた。しかし、彼にはそれは難しいことのようだった。明の心理については彼自身から聞いたことがないので推測するしかないのだが、自分の容姿が重荷になって動きがとれなくなっていたのではないか。彼自身も自分の容姿に圧倒されてそれにひれ伏すしかなかった。心理的には彼が愛することのできるのは自分しかいない。それを具現化するためには、彼を愛するものを媒介として自分自身を愛する他なかった。これが女性の心理に近いのかどうか僕には分らない。しかし、女性はそんな複雑な心理で愛するのではなさそうだ。どんな美人でも自身の体のことは相手を引き付ける道具以上にはみなしていないと思える。道具である以上、よすぎるからといって厄介になることはない。

 要するに、明は同性愛者として自分を自覚しようとしていた。生理的な欲望と、心理的な屈折と、思春期のロマンティシズムによって、複雑な愛を成就しようとしていた。彼が望んでいたのは単なる肉体的な快楽ではなく恋愛だった。だから同性愛者を相手にするつもりはなかった。これが同性愛者として正常(おかしな言い方かもしれないが)なのかどうか。

 明が和彦を愛の対象として選んだのはやむを得なかったとしても、後から考えれば不幸なことだった。君も承知のように、和彦は女性にもてるタイプだった。ハンサムで、スポーツマン、そして単純。頭が悪いというのではない。平板さが明るさになっている。そんな彼に君が満足できはしないだろうと僕には予感できた。しかし、明はそこにひかれた。その単純さに。彼の恋愛には余計な翳りをもたらす鬱屈は邪魔でしかなかったから。

 和彦を明の恋愛に引きずり込むのは難しかったと思う。和彦は男性同性愛者のことをホモだとかオカマだとかいって嘲弄するタイプだった。そんな和彦の気を引く駆け引きを明は恋愛の過程と錯覚することができたのかもしれない。和彦が明の誘いに乗ったのは、好奇心と、誰にでも多少はある倒錯的なものへの嗜好のせいだろう。だから、第三者に知られてしまうと、和彦は自分を恥じ、明を恥じることになった。

 君については僕がとやかく言う必要はないのだけれど、君には明の不自然さが心理的な深みのように見えたのだろう。みんなが明に塑像の素材のような均質さを見ていたのに、君はあの美しさに相応する何かが明の中にあると思い込んだ。実体は内気な十八の青年でしかなかったのに。

 もちろん当時はこんな認識を持ってはいなかった。後になって分かったことだ。いや、これも単なる僕の憶測で、的外れなのかもしれない。あの頃の僕は新しい環境に夢中で、君たちに起こっていることも青春の一様相として興味があっただけだ。僕は君と生硬な議論をし、明とたわいもない冒険ごとを楽しんでいた。和彦とは二人きりでいることはほとんどなく、いつも君か明が一緒だった。四人でいることも多かった。

 君も一緒に体験したことだから、わざわざ書く必要はないのだろう。でも、どうしても書きたい、書かざるを得ない気持ちだ。四人で過ごした半年の出来事。しかし、いろいろ断片は思い浮かぶのだが、それらは前後の脈絡なく並び重なり合って、分けることのできない塊になっている。君や明や和彦が、この街のあちこち、キャンパス、城跡、駅前の商店街、古い街並、N川にかかる橋、市庁前の大通りなどで、喋り、笑い、歩き、走っている。

 僕らはいろいろなことを話した。あの頃、自分の能力の限界というのが分かってきてはいたが、可能性はまだ僕らのものであった。僕らは何かになれるかもしれないし、なれないかもしれない。それはまだ決まっていない。僕らがよく話題にしたのは、遺伝子が僕らをどの程度支配しているかについてだった。しかも、僕らの興味は性的なことの占める部分も多かったから、そういう領域に入り込むことが多かった。君はその時読んでいた本からの知識でこう言ったことがある。「美男美女がもてるのは、彼らとの間にできた子供もまた美男美女としてもてるから。つまり、美男美女を配偶者にすれば、自分の遺伝子を残すチャンスが多いから」それに対して、明が疑問を投げる。「もし、そうなら、人間は美男美女だらけになっているはずだ。そうなっていないのは、人間の生殖はそういう戦略に基づいていないことの証明ではないか」和彦がそれに答えようとする。「美男美女の程度は相対的なものだろう。美男美女がたくさん生まれてもその程度に正規分布のようなばらつきがあれば、上位だけが美男美女となってしまう」僕が和彦に反論する。僕は和彦にはいつも辛辣になってしまう。「そうだとしたら、美男美女を選ぶという戦略は有効ではなくなる。やはり美男美女には絶対的な基準があると思う。人間の容貌が均質化しないのは、社会的な要因で美男美女でなくても子供を持てるからだ。たとえば、労働力として必要とされるといった理由で」君が悲観論を持ち出す。「では、人類は社会制度を持ったおかげで進化をやめてしまったわけね」僕は楽観論で切り返す。「いや、容貌だけの進化をしなかったのが幸いだったのさ。容貌以外の様々な性質が消されずに残されるから、ここまで繁栄したと言えるのではないか」こんな議論をよくしたね。

 あるとき君が言った。「独身でいるという傾向は、その人が子供を残さないから、子孫には伝わらない。だから、そういう傾向は、もし出現しても速やかに消されてしまう。では、なぜ独身志向が広まっているのかしら」明がすぐ反応した。「遺伝子と生物個体は違う原理で動いているのさ。生殖には結びつかないセックスがあるだろう」僕は明が何を言おうとしているのか分かった。しかし、和彦が違う方向に行ってしまう。「知っている女性が子宮筋腫になって、手術で子宮を取ってしまった。彼女は言うんだ、避妊の手間がいらないから便利になったって」和彦の思わせぶりな言葉に僕らはどう反応していいか分らず、黙ってしまった。君は人間の愚かさを嘆くように言った。「生殖のできない、あるいは生殖をしない個体は遺伝子にとって不要なはずなのに」

 僕は四人で龍が池に行ったことをよく憶えている。あれは六月の中頃だった。天気はよく、やや暑かった。東へ向かって走り、山脈の中を登り、林道をたどって小さな駐車場に着く。和彦、君、明、僕の順になって山道を歩いた。既に若葉から濃い緑に変わっている林間の道は陰を作り、風が吹くと心地よかった。なだらかな登りを二時間程行くと岩壁が現れた。岩につけられた危うい道を所々四つん這いになって登る。和彦はもちろん確かだが、君と明も案外平気で、崖の端に立って辺りを眺めたりしていた。岩壁の草付きにニッコウキスゲの黄色い花が咲いていた。右手の方に白い一筋の水が滝となって流れ落ちていた。岩壁を登り切ると漏斗状の台地になっていて、そのくぼみの中心に龍が池があった。池の周りを木々が取り囲み、水面まで枝を延ばしていた。水辺にあるわずかな平地に下り、そこで遅い昼食を食べた。水面に伸びた枝にやや茶色がかった白い塊がいくつもついていた。花のようにも見えた。モリアオガエルの卵だった。池の中を見るとイモリが岸近くにじっとしていた。君は教えてくれたね。イモリはモリアオガエルのおたまじゃくしが落ちてくるのを待っていて、食べてしまう。そうやって、おそらく何万年もモリアオガエルとイモリはこの池に一緒に住んでいる。この池には流れ込む川はないから雨水が水源となっている。はるか昔、地殻変動でこのくぼみができ、雨水がたまって池になった。モリアオガエルとイモリの先祖たちはどこかからやって来て住みついた。僕らは自然の営みの不思議さに感嘆していた。雲が出てきて風が強くなった。池は暗くなり波立った。龍が住むという伝説を思い起こさせた。僕らは岩壁を下りて戻った。

 その日は近くの旅館で泊まった。同じ部屋に四人で寝た。君は僕らの目を気にせず着替えたり、半裸で動き回った。ビールを飲むと昼間の疲れでみなすぐ寝てしまった。女性が一緒にいるなんて緊張感はまるでなかった。

 次の日に青池高原に行った。なだらかな起伏の草原を四人で歩いた。牛が寄ってきたが君は恐がりもせず頭をなでていた。牛は君の上衣を食べようとしたのか、だ液でグチャグチャにしてしまった。林の中に入るとウグイスがまだ完成しない鳴き声をあげていた。青池でボートに乗った。和彦と明、君と僕という組み合わせだった。僕はドライサーの『アメリカの悲劇』のことを話した。金持ちの娘との結婚の邪魔になるので、妊娠させてしまった娘をボート事故に見せかけて殺そうとするというストーリーなので、ボートに二人で乗っている状況に似ていたからだ。石川達三の『青春の蹉跌』も似たようなストーリーだと君は言った。僕は主人公の青年は、やり方が下手なので失敗したのだと言った。世故に長けた男なら、誰かに助力を求めるかして穏便な方法で処理出来たはずだし、殺人を行うならもっとうまくやらねばならない。君は言った。そういう男ではこの物語の主人公にならない。自分のやることに迷ったり、後悔するからこそ、主人公の資格があるのだ。僕は言った。今どきこんな失敗をするやつはいない。コンドームもしないセックスなんて、エイズが恐くてできやしないだろう。君は答えなかった。僕が君を見ていると、君は赤くなった。僕が君と和彦のことを考えていると思ったんだね。その通りだったよ。しかし、君は僕の部屋には何の跡も残しはしなかった。使った後は掃除までして、かえってきれいになっていた。フトンやシーツだって自分達のを持ち込んでいた。僕は君たちの痕跡として髪の毛一本でも見つけることはできなかった。

 こんなことを書き並べていても仕方のないことだね。君が知りたいのはあの夜のことだ。どうやら僕はそれを書くことを引き延ばしているようだ。

 光り輝いていたようなあの時期が短く終わってしまうとは思ってもみなかった。あのとき以来、君とは会うことがなかったから、六、七年ぶりだったんだね。もちろんキャンパスで見かけることはあったが、お互いにできるだけ避けていたから。あの事件のせいで、僕の学生生活は魅力のないものになってしまった。とにかく早く卒業して、この街から出ていきたかった。転学も考えたくらいだ。今でも触れたくないが、何とかやってみよう。

 夏に四人で海辺のホテルに遊びに行くことを提案したのは誰だったか憶えていない。明はその機会を捕らえようとした。出発の前日、明は僕の部屋を使わせてくれと頼んだ。僕は承知した。明が部屋を使っている間、僕は図書館で時間を過ごすことにした。しかし、僕は好奇心を抑えられなかった。僕は隠れてアパートを見張り、明の相手が君だということを確かめた。

 だから、出かける朝になって君が断りの連絡を入れて来たのを僕は意外には思わなかった。首尾よく君が明を手に入れたのなら、和彦の恋人という役割は耐えられないからね。けれども、僕は違う風にも考えた。明は君を本当に望んでいたのだろうか。もしそうなら、もっと早くからそう出来たはずだ。明は無理したのだと思う。こんな想像をするのは下劣かもしれないが、たぶん明は君の役に立たなかったはずだ。明にしてみればそれでもよかった。君はそのことで明を馬鹿にして平気でいられるような人ではない。君はそのことに傷つき、恥じるだろう。次の日に平気な顔をして明や和彦と一緒にいられないだろう。明は君を和彦から引き離せばよかったのだ。

 僕らは三人でH海岸へ行った。浮かぬ顔の和彦に明は気を使っていた。いい天気だった。車の中はクーラーがきいて、素敵なドライブだった。和彦はすぐに君のことを忘れて楽しんだ。海につくと泳いだ。明の小さな海水パンツは彼のきれいな体をほとんど隠していなかった。

 宿へ帰ると、明は僕のいびきがうるさいから和彦の部屋で寝ると言い出した。ツインの部屋を二つ取っていて、本来なら、君と和彦、明と僕という組み合わせのはずだった。僕は自分のいびきは分らないからどうとも言えなかった。和彦は何も言わなかった。入浴と食事をすませ、和彦の部屋で三人でビールを飲んだ。来る途中買って来た梨をむいて食べた。明がもう寝ようと言った。

 僕は部屋に引き上げた。ベッドに横になったが寝られなかった。本でも読もうとして、さっき和彦の部屋に持っていって置いてきてしまったことに気づいた。僕は起き上がり、部屋を出て、和彦の部屋へ入った。入ったところからはベッドは見えなかったが、音が聞こえた。ベッドの軋む音、抑えた悲鳴のような声。僕は中へ進んだ。ベッドに二人が重なっていた。

「何をしてるんだ」

 僕がそう言うと和彦は動きを止め、顔をあげて僕の方を見た。僕がいることが分かって和彦は明から離れた。僕は部屋を出て、自分の部屋に戻った。残った二人がどういう話をしたのかは知らない。僕は灯を消してベッドに横になった。しばらくして和彦が僕の部屋に来た。彼は「ここで寝る」と言った。

 僕には二人がそういう行為をしていることがそんなに意外だとは思わなかったし、僕に知れたとしても気にすることはないだろうと考えていた。僕がそんなことで馬鹿にしたり、吹聴したりはしないことは二人とも分かっているはずだ。同性愛は市民権を得つつあった。でも、やはり偏見というのは残るし、自然の摂理に反する異常な行為という感じはなかなか消しがたい。男色というのは昔からあったはずだが、性行為と言うのは公に話しづらいだけに、真面目な話題とはしにくい。特に地方都市は保守的だろう。和彦が僕に知られたことで動揺し、そういうことに誘い込んだ明に何かひどいことを言ったのかもしれない。和彦にしてみればほんのいたずら心のつもりで、自分を同性愛者などと思いもしなかったろう。明には和彦を篭絡する自信があったのだろうが、所詮和彦はそのような微妙な心理の持主ではなかった。明は相手を間違えたのだ。

 どの位たったろう。僕はいつの間にか眠っていたが、気配で目がさめた。闇の中をうかがうと、和彦の寝ているベッドの傍に誰かがいた。僕はベッドの枕元にあるスタンドの灯をつけた。

「明か。何をしてる」僕は小さな声で言った。和彦が起きたようだった。そのとき僕は明の手に刃物があるのに気づいた。「やめろ」僕は叫んだ。

 明は毛布の上から和彦を刺した。和彦が何かわめいた。明は部屋の外へ逃げていった。僕は和彦の毛布をはぎ取った。和彦は腹から血を出していた。電話でフロントを呼び、救急車の手配を頼んだ。タオルを和彦の腹に当て、押さえた。果物ナイフが毛布に残っていた。「痛むか」と僕が問うと、「気持ちが悪い」と和彦は答えた。

 ホテルの従業員が来たので、刃物で刺されたことだけを言い、僕は明のいた部屋に入った。明はいなかった。僕は建物の外へ出た。駐車場の僕らの車はそのままだった。海岸を見下ろすと浜に明がいた。僕は走って浜へ下りた。僕が近づくと明は言った。「死んだんだろう」

 ここまで書いてみたが、やっぱりこれを送るのはよそうと思う。この手紙は破いてしまおう。君には何も言わず、約束を守らない不実で怠惰な友人でいよう。君だっていつまでも過去に捕われているわけではあるまい。明のようにあの夜に人生が終わったわけではなく、終わったとしたら僕らの人生の明に関わる部分だけなのだから。

 とうとうあなたは手紙をくれませんでしたね。やはり教えてくれる気はなかったのですね。何だかそんな気がしていました。

 私も知らないままの方がいいかなと思いました。もうあのままにして、忘れることはできないとしても、風化させてしまえばいい。でも、無理でした。やはり決着をつけずにはいられない、そう決心したので、思いきって和彦に聞いてみました。和彦は全てを打ち明けてくれました。私はある程度予想していたので、そんなにショックは受けませんでした。和彦はあの事件で自分の果たした役割の重大さに押しつぶされたままです。でも、私にはお人好しの和彦には見えなかったことが見えました。

 和彦が疑問に思いながらも深く考えなかったことがあります。それは、明と一緒にいたときも、あなたの部屋に行ったときも、和彦はカギをかけたということです。なのに、あなたは和彦の部屋に入り、明はあなたの部屋に入って来た。和彦は明とあなたが何かのときに、たとえば部屋を出入りしたときにカギをかけ忘れたのではないかと思っていました。和彦はそれを見ていませんが、それ以外に考えられないようでした。

 でも、そうでないとしたらどうでしょうか。二つの部屋ともカギはかかっていたが、あなたも明もキーで開けたのだとしたら。つまり、和彦の部屋にはあなたの部屋のキーがあり、あなたの部屋には和彦の部屋のキーがあったとしたら。キーが交換されていたとしたら。そういうことが出来たのはあなたしかいません。あなたは和彦の部屋でしばらく時間を過ごしてから、自分の部屋に引き上げた。そのとき、あなたはキーを取り替えた。あなたには和彦を誘惑しようという明の意図が分かっていた。頃合を見計らって、すり替えたキーを使って和彦の部屋へ入り、二人のやっていることをとがめた。そうして和彦を恥じさせ、明を嫌うようにするのがあなたの狙いだった。あなたが巧妙なのは、キーを元のように戻さずそのままにしておいたことです。一人取り残された明は、あなたが入ってこれたことを不思議に思って推理したか、たまたまキーを見て分かったか、とにかくあなたの部屋のキーがあることに気づいた。明はそこであなたのたくらみを悟るべきでした。しかし、傷つけられたことで頭が一杯の明は、あなたの部屋に入ることができることだけに捕われてしまった。明のいた部屋にはあなたが置いておいた果物ナイフがあった。明はナイフとキーを持ってあなたの部屋に向かった。

 そうだったのではないでしょうか。むろん証拠などありません。もしキーが交換されていても、あの事件の騒ぎの中であなたが元のように戻してしまったに違いありません。あなたは明を言葉で使嗾したのではない。だから、明が何を喋っても平気でした。たとえあなたのしたことを証明できても、明が逆上してあんなことをするかどうかは確実ではなかったでしょうから、あなたに罪を問うことはできないでしょう。あなたはあなたの仕組んだワナがどう働くかを待っていればよかった。そして、ワナはとてもうまく明を捕らえました。あなたがどこまで期待していたのかは分りません。明の最後はあなたにも予想外だったはずです。

 でも、どうしてそんなことをしたのですか。私があなたに興味を示さないことで和彦と明を憎んでいたのですか。そんな自惚れを持つ必要はないですね。私には分かっていました。あなたは隠していたけれども、魅せられた者は自分の感情を隠しきれはしない。あなたは明が好きだった。明と和彦の仲をさくことで、明を取り戻したかった。だから、本当にあの事件で打ちのめされたのはあなたのはずです。あなたは明を自分のものにしようと思ったのに、明を失ってしまった。

 それとも、それがあなたの狙いだったのですか。明を誰にも渡さないということが。あのとき、明が海に入ってしまったとき、あなたは明に何を言ったのですか。

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