生得か学習か
今井むつみの本(『算数文章問題が解けない子どもたち』)が面白かったので、著者が編者である『心の生得性 言語・概念獲得に生得的制約は必要か(共立出版、2000年』を読んでみた。立場の違う論者による論文集だが、かなり前の出版である。今の時代に20年超という時間は致命的な遅れだろうが、それでも私には大いに参考となった。
生得か学習かという問いは不毛であるというのが穏当な意見のようである。行動主義の「タブラ・ラサ」的主張は反論されて当然だろうが、学習ないし経験の役割を過小評価するのは他方の側への行き過ぎである、というのである。しかし、生得主義に反対する研究者は、生得的機能といったものをぎりぎりの小ささに縮めたがるようで、生得か否かという議論は続いているらしい。このことについて、筆者の一人である大嶋百合子はBraineの見解を紹介している。
Braine(1994)は、生得主義をとる研究者と非生得主義をとる研究者で何を科学的研究の本質的な課題ととらえているかが異なるからであろうと分析している。(中略)生得主義をとる心理学者にとっては人間の認知において最も基本的なプリミティブの特定であり、それはどの言語を獲得するにも必要で普遍的なものであり、生得的に備わっていると仮定する。一方、非生得主義の研究者は、科学的な研究の最も重要な課題は、ある時点(できない状態)からある時点(できる状態)への発達的変化がどのようにして起こるのかという変化のメカニズムの解明にあると考えている。ここでは、プリミティブを仮定すれば、それがどのように創発する(emerge)かということの説明の必要性がでてくるので、その負担を最小にするためにプリミティブをできる限り少なくしようという動機づけが起こるのである。このようなアプローチの違いが、生得性についての執拗な論争を引き起こしているというわけである。(172-173ページ)
ちなみに、大嶋はコネクショニストである。大嶋によれば、「コネクショニズムのモデルは脳の並列分散処理システム内での興奮と抑制というような神経情報処理の原則に基づいてつくられるコンピュータモデルである」(175ページ)。コネクショニズムについて、今井は序説部分で次のように評価している。
普遍的に見られる現象を安易に生得性に帰せず、モデルにおいて一つ一つ制約条件を操作して学習によって普遍的な現象(知識)が形成される要因や要因間の相互作用を明らかにしようとする試みは科学として非常に健全な方法論であり、重要なものであるが、モデルにおける仮説が真に人間の学習システムを反映しているか否かという評価基準からすると、コネクショニズムアプローチにはまだ多くの問題が残されているような印象を受ける。(xiページ)
私自身は生得説の信奉者だが、この本を読んで「安易に生得性に帰」すことの粗雑さに気づかされた。いずれにせよ、機能とその発生の詳細を研究する必要があるのだ。
ただし、素人的な感想であるのだけれども、学習の機能自体が生得的な制約下にあると考えれば、反生得主義をことさら強調する必要はあるのだろうか。もちろん、その過程の詳細は研究されねばならないけれども、個々の人間の発達の差が一定の範囲内のばらつき程度であり、そして、そのばらつきを経験の違いによって説明するのが困難であるならば、機能の発達の違いとして理解する方が生産的であると思う。反生得主義というのは反「生得主義」であって、「反生得」主義ではないということなのだろう。
さて、各論者の主張はそれぞれに興味深かったが、アネット・カミロフ-スミスの『知識の生得性を再考する――人間の表象変化の理解に発達はなぜ必須なのか』の記述が気になった。再び、今井による評価を引用しよう。
Karmiloff-Smithは、Johnsonらと同様、領域固有な生得的知識の存在を否定するが、彼女のユニークな点は発達を2種類の表象変化としてとらえようとしている点であろう。第1の表象変化は、領域固有のアーキテクチャーと計算アルゴリズムのレベルにおけるバイアス(内的制約)と環境の構造(外的制約)から領域に特殊化した知識が前進的に創発される際の表象変化である。第2は、知識の再記述のプロセスである。ここで興味深いのは彼女が後者の変化について「最初の大域的な表象には暗黙的な形でしか含まれていなかった知識を表象し直し、明示的なものに変えていく」と述べている点である。(x-xiページ)。
上記論文の中では空間認知と言語獲得の二例しか挙げられていないが、子供が課題を与えられると、以下の三段階を経るとされている。すなわち、T-1(Time one)「課題に熟達」、T-2「深刻な間違い」、T-3「再び正しい行動」。「T-1とT-3は行動レベルでは等しくても、表象レベルでは等しくない」。子どもは「行動レベルで十分にできるようになると、うまくいっていた手続きを分析し、構成要素部分へと分割していく」。その過程で間違いを犯すのである。「その結果、学習の速度は遅いが柔軟なシステムが生み出される」。
私はカミロフ-スミスの理論の詳細は知らないが、彼女の主張には納得するところがある。だが、同時に疑問もある。T-1からT-3の段階的変化はすべての子どもにおいて一様に見られるのだろうか。そうであるならば、それを生得的といっても差し支えないのではないか。あるいは、個々人によって差があり、T-1の段階に留まる子どももいるのだろうか。その場合に、その違いを経験の差によって説明できないのであれば、能力という要素がからんでくるであろう。そこでまた、学習か生得かの論争が始まってしまうのではないか。カミロフ-スミスは「構造化された表象は、発達の結果として創発しうる」といっているが、その「創発」とは何なのだろうか。