カントについての補足 2
生成AIが注目されている。その弊害を指摘する論者として今井むつみがいる。今井はAIには直観と意味が欠けていると言う。生成AIについて私は詳しいことは知らないのだが、ネットの中の膨大な文章を学習し、最も頻度の高い組み合わせを選び出して文章を作っているらしい。その文章はもっともらしいが、正しいかどうかの判断を下しているのではないということのようだ。そのような情報に接しているうちに、カントの「理性」のことに思い至った。
カントは感性・知性・理性の機能分担を想定している(知性と悟性は訳し方の違いに過ぎず同じ言葉とのことなので、分かりやすい知性を使う)。私の理解した限りでのカントの説明では、感性が得た外界(物自体の世界)のデータを知性が概念化する。概念の形成には理性は関わらない。AIは利用可能な言葉を使って文章を形成するが、その言葉がネットに書き込まれる過程については関知しない。カントの理性は経験とは無縁な理念によって推論をするが、理念と概念を混同してしまうことで超越論的仮象という誤りをもたらす。AIは言葉を使ってもっともらしいが正しいかどうか分からない文章を作る。この並行性が何を意味するかは、はっきりしないけれども。
そこで、カントについてもう一度調べてみることにした。以前に、冨田恭彦の『カント批判――『純粋理性批判』の論理を問う』(勁草書房、2018年)を読んだのだが、この本は『純粋理性批判』を部分的に取り上げているだけだった。今回は同じ著者の『カント入門講義 超越論的観念論のロジック』(筑摩書房、2017年)を読んでみたが、中身は同じようなものだった。冨田の興味の焦点は認識のプロセス(あるいはロジック)にあるらしく、物自体、感性、知性の関係に叙述を絞っている。冨田の叙述は第7章の表題である「アプリオリな総合判断はいかにして可能か」を説明することで終わってしまって、その先(カントの「超越論的弁証論」と「超越論的方法論」)には進まない。
一方、冨田は次のようにも言っている。
第一版の序言冒頭で、カントは私たち人間の「理性」(Vernunft フェアヌンフト)がある特殊な運命にあることを指摘します。それは、人間の理性が、目で見、耳で聞き、触ってみられるこの経験の世界を超え出て多様な考えを案出し、その経験を越えた考えは、経験を超えているものですから、その当否が経験によってチェックできないようなものになるという運命です。こうして、経験によってチェックできない勝手な発言が、バトルを繰り返します。「この終わりのない争いの場こそ、形而上学と呼ばれるものである」(AVⅠⅠⅠ)とカントは言います。
こうした状況を打開するため、理性の妥当な主張を保護し、根拠のない主張を退ける「法廷」が必要だとカントは考えます。(144頁)
私の興味はまさにそこにあり、理性が間違えるということのカントの説明を冨田がどう解釈するかが知りたかったのである。冨田以外に信頼が置ける解説者を知らなかったので、いくつか資料を参考にして、私なりに考えてみた。
カントは知性を経験と関わらせたが、経験とは無縁の概念がなければならないと考えたようだ。そこで、知性とは異なる理性という機能を持ち出してくる。理性は考える(推論する)ということに特色がある。なぜ理性は思考するのか。実践のためであろう。認識と実践をつなぐのが思考のはずだ。では、思考する理性とは実践理性なのか。そこのところはあいまいである。理性は実践とは関わりなく考えるようにもなっているのだ。
理性の思考によって理念(理性概念)が形成される。理念は全体性をめざすから、個別的なものである概念とは異なる。それゆえ理念は直観もしくは現象とは直接関わらない。理念には概念のように対応する物自体はないのである。
ただし、知性と理性が何の関係もなく並立するのでは、混乱するだけである。理性は知性の上にあらねばならない。しかし、上にあるためには何らかの支配を及ぼす必要がある。名目だけの上位者では上にあることの実質が伴わないからだ。そこで理性は知性に介入することになる。知性は構成的原理によって知性概念をまとめるのであるが、理性は統制的原理によって知性の機能をコントロールする。
不思議なことは、理性が概念の使用にも関わることだ。概念を個別性から全体性に転化するという、知性とは違う仕方ではあるが。理性が概念と関係を持とうとすることは理解できる。「アプリオリな総合判断」を導くために感性と知性についての見解を積み上げてきたのだから、それを使わない手はないのではないか。単に認識するだけで思考に関わらないのであれば、一体何のための認識なのか。
さて、理性は超越論的仮象というものを生ぜしめてしまう。理性は自分の統制的原理を、知性のものである構成的原理と取り違え(「超越論的すり替え」)、概念を経験を越えて適用できるように思ってしまう。もしくは、知性にそう思わせてしまう。これが超越論的仮象である。概念の理念化あるいは理念の概念化とでも言えよう。
この辺りは複雑すぎてよく分からない。そこで、理性と知性の微妙な関係は保留するとして、人間が感性、知性、理性を持った存在であると考えるならば、人間を人間たらしめているのは理性なのだろうか。動物には感性があり、知性もある程度は備えているだろう。しかし、理性はない。だから超越論的仮象とは無縁である。では、ロボットはどうだろうか。ロボットには感性や知性を持たせることは可能だろう。理性については定義の問題なのかもしれない。しかし、生成AIが得るのは既に形成されたデータでしかない。感性から切り離され経験から遊離した生成AIは仮象しか生み出さない。そのようにも解釈できるのかもしれない。
さて、冨田が指摘するように、カントの主張はメタ言説である。カントは自らもそれである理性について語っているのだが、語るカント自身は理性から抜け出で離れた位置に立っているのだ。カントが理性的存在という枠組みの外にいて語っているように、私たちもその枠組みの外にいて聞いているのである。つまり、感性や知性や理性を使う主体として、あるいはそれらに依存する主体として、それらの外にいるのである。カントがそれらの使用に気をつけるように言うのは、私たちがそれらと完全に一体化しているのではなく、何らかの程度においてそれらを操作できる立場にいることを認めているからに他ならない。
ここまで考えてきて、私にはカントの著作が生成AIによる文章のように思えてきた。カントは何らかの語るべきことを言葉の意味に頼って文章化したのであろうが、次第に言葉相互の関係の整合性に捕らわれてしまって、もっともらしい文章を作ろうとしているだけのように見える。カントが全てを分かっているように語るとき、そこにいるのは生成AIではなかろうか。