井本喬作品集

意識とは何だろうか

 『意識はいつ生まれるか 脳の謎に挑む統合情報理論』(マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニ、2013年、花本和子訳、亜紀書房、2015年)という本を読んだのだが、過去に読んだ同じようなテーマの本を調べてみたら、この本も既に読んでいたことが分かった。6年前(2017年)のことである。すっかり忘れていた。内容も全然覚えていなかった。以前のときのメモを見ると、書名の他はほとんど何も書いていない。あまり興味を持てなかったようだ。

 そのころに読んだ意識に関する本は以下のようなものである。

 ディヴィッド・イーグルマン『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』(2011年、大田直子訳、早川書房、2012年)

 クリストフ・コッホ『意識を巡る冒険』(2012年、土屋尚嗣・小畑史哉訳、岩波書店、2014年)

 スタニラス・ドゥアンヌ『意識と脳 思考はいかにコード化されるか』(2014年、高橋洋訳、紀伊国屋書店、2015年)

 これらの本は無意識的な脳の機能がいかに重要な役割をはたしているかを強調していた。つまり、意識の役割が一般に思われているほど広範なものではなく、その限界を見極めることが意識を理解する鍵になるということなのである。『意識は傍観者である』という邦題は意識が過大評価されていることを表そうとしたものであろう(ただし、訳者解説によれば原題“Incogito”は「匿名」という意味であり、無意識のことを指している)。

 それらの本に強い影響を受けたせいか、意識そのものを扱っているこの本は読み流してしまったと思われる。しかし、意識には不思議なことがある。私たちは意識を失うと行動を停止する。また、眠ると意識がなくなる(ただし、夢は意識が絡んでいる)。つまり、私たちは哲学的ゾンビとは違って、意識なしでは行動できないようなのだ。

 ところで、ある人に意識があるかどうかを確認するのには、当人に聞くしかない。しかし、応答が不可能な人に問いかけても返事は得られない。彼等には本当に意識はないのだろうか。動物についても同じことが言える。

 著者たちは意識の存在を客観的に捕らえようとした。その方法は、経頭蓋磁気刺激法(TMS)と脳波計を組み合わせたTMS脳波計という機器を使うものである。TMSを使って大脳皮質をノックし、それによって発生する電気的反応を脳波計でとらえるのである。著者たちは次のような予測をした。TMSで揺さぶりをかけた脳波の反応は、意識がある人においては脳全体に広がり、複雑であるはずだ。意識のない人の反応は、局所的(統合の消失)であるか、単純(情報の消失)であるか、またはその両方であるはずだ。

 この予測は著者たちの提唱する統合情報理論に基づいている。すなわち、「意識を生みだす基盤はおびただしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である。つまり、ある身体システムが情報を統合できるならそのシステムには意識がある」(訳書126頁)。

 著者たちはまず覚醒時と睡眠時の違いを調べた。結果は予測通りだった。次に、レム睡眠時での反応を調べると、覚醒時と同じだった。被験者を起こして確かめてみると、ノンレム睡眠時では彼らには何の記憶もなかったが、レム睡眠時では夢を見ていたと告げた。さらに、麻酔薬を投与された患者では睡眠時と同じ結果が得られた。こうして、意識の存在が客観的に証明できることが示された。

 では、病気や障害で身体的な応答が得られなくなった人たちについてはどうだろうか。「昏睡はある状態から別の状態へ変化する過渡期を指す言葉」(訳書65頁)であり、何らかの原因で昏睡に陥った患者は、そのまま死んでしまうか、数週間後に目を開く(覚醒する)。ただし、人工呼吸器などを使って昏睡が長く続く場合、脳死と判定されることもある。

 覚醒とは脳幹の機能が回復したことであり、それによって目が開くのだが、必ずしも意識が戻るとは限らない。覚醒しながら意識のない状態が植物状態(反応のない覚醒状態)である。覚醒はしたが重い脳損傷で体が完全に麻痺した患者は、ロックトイン(閉じ込め)症候群と呼ばれている。彼等には意識があり、唯一目の動きによって意思を伝達できる。TMS脳波計を使うと、植物状態の患者は睡眠時と同じ反応を、ロックトイン症候群の患者は覚醒時と同じ反応を示す。植物状態とロックトイン症候群の間には広いグレーゾーンがあり、最小意識状態の患者がそこに属している。TMS脳波計による測定では彼等には意識があることを示す反応が得られた。ただし、実際の診断においては植物状態と最小意識状態を区別することは難しい。「最小意識状態にある多くの患者(約半数)が、意識がないと誤診断され、植物状態の判定を受けているのだ」(訳書215頁)。

 さて、意識がなければ行動はできないが、意識があっても行動ができない場合がある。つまり、意識だけでは行動できないのだけれども、意識がなければ行動ができない。少なくとも、意識なしの行動は私たちにはできないようだ。

 意識が発生しているのは脳においてである。解剖学的には、意識を担っているのは脳の視床-皮質系という部分であり、小脳や基底核は意識に関わっていない。小脳や基底核はいわば黙々と(意識の範囲外で)有用な活動を行っている。これらは哲学的ゾンビの候補である。では、なぜ視床-皮質系には意識が必要であったのか。

 著者たちは視床-皮質系の特質を機能分化とその統合にみている。小脳や基底核は特定の機能に特化し、機能どうしの連絡調整は行わない。だからこそ、意識のできないようなことができるのだ。それらは既定の活動を素早くこなす。視床-皮質系に統合という要素があるのは、選択という課題があるからではないか。幾つもの可能性の中から選び取ったものを一つにまとめる、それが視床-皮質系の機能であり、それを意識という形で実現しているのではないか。私はそう読んだ。

 意識に関してもう一つの本を読んだ。マイケル・グラツィアーノ『意識はなぜ生まれたか その起源から人工意識まで』(2019年、鈴木光太郎訳、白楊社、2022年)である。著者は意識の注意スキーマ理論を提唱している。「注意スキーマとは、注意をモニターする一連の情報、いわゆる内的モデルのことだ」(訳書38頁)。

 ある進化の段階で、生物は「注意」という行動を取る器官を発達させた。多様な世界という環境において、焦点を絞って注目することは生存に有利であったはずだ。ただし、注意そのものは意識を必要としない。

 注意するということは、その他は無視する(注意しない)ということである。しかし、注意していなかったところの利点や、そこからの脅威などを見逃してしまうのは、生存上の有利さを失わせる。かといって、注意を分散させるほどの資源を割り当てるのは高くつきすぎる。そこで、主たる注意(顕在的注意)ほどの鋭敏さはないけれども注意の可能態とでもいうべきものが発達した。それが潜在的注意である。そうなると、注意をコントロールする必要が生じてくる。それが注意スキーマである。

  私の考えでは、意識の注意スキーマ理論には、その論理に次のような必然性がある。第一に、大脳皮質は潜在的注意を用いる。第二に、大脳皮質はその注意を制御する必要がある。第三に、その注意を制御するには、脳は注意につての内的モデルをもたなければならない。第四に、詳細で正確過ぎる内的モデルはよくても無駄でしかなく、悪くするとそのプロセスにとって有害である。そのため、注意のこの内的モデルはメカニカルな詳細を欠いている。その結果(第五に)、注意スキーマは自己を、無定形で非物質的な内的な力、知る能力、体験する能力、反応する能力、移ろう心の焦点をもつ者——基盤となる詳細を欠いた、潜在的注意のエッセンスをもつ者——として描く。以上を踏まえた上で、もし私たちが強力な皮質性の潜在的注意をもった適切に機能する脳を作らなければならないとしたら、内部にある情報にもとづいて、自分には非物質的な意識があると主張するマシンを作ることになるだろう。(訳書67-8頁)

 意識の錯覚説というのがある。私たちが自分に意識があると思うのは、脳が生み出す錯覚であるという主張である。注意スキーマ理論もある種の錯覚説であるが、「錯覚」という言葉は誤解を生むと著者は言う。錯覚という意識体験があるならば、意識はそういうものとしてあることになってしまう。そうではなくて、「脳は不完全な情報にもとづいて、意識をもっていると主張しているのだ」(訳書147頁)。

 ところで、意識というのは人間だけのものだろうか。進化の過程で生じたのならば、他の種にあってもおかしくない。著者は、爬虫類、鳥類、哺乳類は意識と認められるようものを持っているのではないかと予測している。

 では、高度な知能は備えているが意識のない存在(哲学的ゾンビ)は可能であろうか。ロボットや異星人については分からないけれども、少なくとも人間は意識のない存在として存立するのは不可能であると著者は言う。

 注意スキーマ理論については、納得するところはあるけれども、それが全てだろうかという疑問が残る。もちろん、まだ分からないことがたくさんあり、理論の精緻化の過程で修正されることもあるだろうし、あるいは、行き詰って放棄されることだってあるかもしれない。ただ、それがやはり選択に関わっていることが私には興味深かった。意識とは選択という課題があったからこそ生じたのではないかというのが一般的な理解のようである。

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