感情の機能
アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序 感情、意識、創造性と文化の起源』(2018年、高橋洋訳、白揚社、2019年)を読んだ。この本は一度読んだことがあった(2019年)のだが、そのことを忘れてしまっていた。
ダマシオには他に訳書だけでも以下のものがある。
『生存する脳 心と脳と身体の神秘』(講談社、2000年)〔『デカルトの誤り:情動・理性・人間の脳』(筑摩書房、2010年)〕
『無意識の脳 自己意識の脳』(講談社、2003年)〔『意識と自己』(講談社、2018年)〕
『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』(ダイアモンド社、2005年)
『自己が心にやってくる 意識ある脳の構築』(早川書房、2013年)
このうち私が読んだのは『生存する脳』と『自己が心にやってくる』である。『生存する脳』については、フィニアス・ゲージの衝撃的な症例の強い印象がある。しかし、ダマシオの考えの具体的な部分についてはほとんど記憶に残っていなかった。
『進化の意外な順序』という題名についてダマシオは以下のように述べている。
本書のタイトル『進化の意外な順序』〔原題はThe Strange Order of Things〕は次の二つの事実に基づく。一つは、早くも一億年前には、数種の昆虫が、人間の社会と比べても文化的と呼べるような行動、実践、道具を発達させていたという事実である。もう一つは、さらに時をさかのぼった数十億年前には、単細胞生物でさえ、人間の社会文化的な行動に概略が一致するような社会的行動を見せていたという事実である。
もちろん以上の事実は、「生命活動を改善できるほど高度な社会的行動などといった複雑な現象は、それに必要とされる洗練性を享受できるほど、複雑さにおいて十分に人間に近づいた、高度に進化した生物の持つ心のみから生じ得る」とする従来の見方とは矛盾する。本書で取り上げた社会的特徴は、生命の歴史の初期の頃にすでに出現し、生物圏(バイオスフィア)において豊かに存在していたのであり、そのために人類の登場を待つ必要がなかった。この順序が奇妙なもの、少なくとも意外なものであることに間違いはなかろう。(訳書288頁)
最初に読んだときは、上記の説明のようには「意外」であるとは思わなかった。「従来の見方」なんて今どきどこにあるというのだろう。「二つの事実」は素直に受け入れられる常識ではないのか。もっともこれは進化論関連の本を読み散らしている、いわば「すれっからし」の見解かもしれないが。
ダマシオは人間の活動における感情の役割を重視している。そして、感情には進化的な機能があると主張している。そのことは知っていたから、この本では感情は知性よりも「後に」(知性を補正するものとして)発生していたと彼が主張しているのだろうと予想していた。知性が感情をコントロールしようとしているのは私たちが日々体験していることなので、野蛮な感情の後に文化的な知性が発達したと推察するのは当然であるから、その逆であるのは意外であるはずだ。ところが、ダマシオは感情→知性という順序は認めていた。そのことも私が意外性を感じられなかった理由になった。
しかし、今回再読してみると、過去の私の理解は粗雑だったようだ。ダマシオは、感知-反応といういわば原初的な知性からの進化として心が発生し、それを基盤として感情、意識、主観、記憶が成立し、やがて「創造的な知性」を生み出した、と言っていたのである。つまり、感情は知性のバージョンアップに重要な役割を果たしているという主張である。
気になったので、『生存する脳』(原題は『デカルトの誤り』)も再読してみた。『進化の意外な順序』で述べられていることの多くは、既に『生存する脳』において展開されていた。私があまり興味を持てなかったのは、ダマシオが心脳問題に脳以外の「身体」を持ち込んでいたからのようだ。話がややこしくなって焦点がぼけてしまうように感じたのだろう。そのころ私が気になっていた学習vs.生得ということについても、ダマシオの折衷的態度が保守的に思えた。つまり、彼のスタンスが気に入らなかったので理解不足になってしまっていたようだ。
『進化の意外な順序』ではダマシオは、ホメオスタシスという概念によって進化の過程の再現を試みている。「何があっても生存し未来に向かおうとする、思考や意思を欠いた欲求を実現するために必要な、連携しながら作用するもろもろのプロセスの集合を、ホメオスタシスと呼ぶ」(訳書48-9頁)。つまり、最初にホメオスタシスありき、ということなのだ。彼はさらに生命の進化における遺伝子の役割はホメオスタシスによって採用されたものであり、最初に遺伝子ありき、ではないと言う。ダマシオは「遺伝によるコード」よりも「ホメオスタシスの規則」や「化学作用」に基づく営為が生物進化の要因であったと主張する。
「生物はアルゴリズムである」という考えは、「生身のものであれ人工的なものであれ、生物の構築に用いられる素材を考慮する必要はない」という誤った概念を根づかせた。つまりアルゴリズムが作用する素材もそれが実行される文脈も関係ないというのだ。「アルゴリズム」という言葉の使用の背景には、素材や文脈は無視しても構わないとする考えが透けてみえる。この言葉は本来、そのような意味を含んでもいなければ、含むべきではないにもかかわらず。(訳書245頁)
ホメオスタシスとしての生物(人間)はまず心を成立させ、さらに感情を獲得した。感情によって生体内の生命活動の状態を心的に表象することが可能になった。ダマシオは感情と情動を区別する。「なお残念なことに、情動を感じる経験にも、同じ用語『情動』が使われている。そのせいで、区別されてしかるべき情動と感情が、まったく同一の現象であるという誤った考えが広まっている」(訳書126頁)。感情は情動そのものではなく、情動に伴う意識的経験である。
感情表出反応の喚起は、意思の介入なしに非意識的、自動的に生じる。私たちが情動の喚起に気づくのは、それを引き起こし得る状況が繰り広げられているときではなく、状況の処理によって感情が引き起こされたときであることが多い。つまり状況の処理によって情動的なできごとに関する意識的な経験が引き起こされるのだ。そして私たちは、感情が生じたあとで、自分が特定のあり方で感じている理由を認識するのである(あるいは、しないこともある)」(訳書159ページ)
なお、「情動の例としては、喜び、悲しみ、怖れ、怒り、羨望、嫉妬、軽蔑、思いやり、賞賛などがあげられる」(訳書126頁)。情動は衝動や動機と同列にされている。
しかし、話はそこで終わらない。評価がなぜなされるかといえば、よりよい状態を求める(あるいは、より悪い状態を避ける)という能動的な行動(あるいは行動の回避)への指標となるからだろう。であるならば、感情による評価は行動に結びつけられなければならない。
衝動・動機・情動は行動を促すような状況への反応であり、機会を逃さないことが重要である。一方、感情は行動の結果を受容している状態である。次に行動が起こされるとき、感情による評価が何らかの役割を果たすことになる。つまり、コントロールされるべきは感情ではなく情動であるのだ。情動のコントロールに知性が関わるならば、感情はそれに貢献していると言える。このことについてはダマシオは詳しく言及はしていないが。
ところで、感情に関しては二つの疑問が生じる。一つは感情の身体的表出について。感情が自己の状態の評価であるならば、身体の外部に表す必要はないはずである。身体に起こったことを知覚することによって自らの状態を把握するには、身体外部への表出という迂回した経路を取らねばならないという必然性はないだろう。感情の身体外部的表出が自己の状態把握としては余分なことであるならば、それには他の機能があるのかもしれない。例えば、他者に自分の状態を知らせて、他者の行動を引き出すということが考えられる。
もう一つは意識についてである。ダマシオの言い方では、感情が喚起されることで初めて情動の存在が分かることになるので、情動は無意識の過程ということになろう。そこで問題になるのは、なぜ感情だけが感じられるのかということである。感情が無意識の過程であっても機能的には問題はないはずである。そのことについてのダマシオの説明は十分に納得的とは言えないのではないか。
ダマシオは、マッピング、イメージ、心、感情、意識、主観性、創造的知性などの概念を使って、言語、社会、文化、宗教にいたるまでの人間の進化について語る。その内容はテーマの関連もあって思弁的な傾向が強いように思われる。全般的な感想として、ダマシオは全てをホメオスタシスの観点から機能的とみなそうとしているが、逸脱ということも考慮にいれる必要があるのではないか。私たちが何かに淫するということは、機能の暴走とみなしうるだろうから。