アガサ式登山法
足の他に肋骨も折れているらしい。肺にささってはいないようだが、大きく息をすると痛む。ドジなことをしたものだ。おとなしく登山道を登ればいいものを、つい調子にのって岩場を登ろうとしたのが間違いだった。おまけにしつこい虻にかっとなって手を振り回し、確保がおろそかになってしまった。あの虻の野郎、俺の落ちるのを横目に飛んでいってしまったのか。まるで横光利一の『蝿』だ。せめてあいつを道連れにできなかったことが腹立たしい。
声を上げてみたが、無駄だろう。こんな無名の山にめったに人は来ない。もし来るとしても、次の日曜日まで待たねばならぬ。それだって当てにはならない。下手すりゃ、見つかったときには白骨だ。
日帰りのつもりだから食料はない。昼食は残らず食べてしまった。水筒の水もあまり残っていないが、飲めば少し落ち着くかもしれない。いや、やめておこう。大事にしなければならない。それに、飲むとむせて胸が痛みそうだ。
死ぬとしたら、餓死か。その前に衰弱かショックで心臓が止まるかもしれない。凍死するほど寒くはないのは救いだが。
唯一の望みは、俺が帰らぬことを知って捜索をしてくれることだ。この山に来ていることは誰も知らない。しかし、手がかりは残っているのだ。気がついてくれさえすれば、俺が今日どの山に登っているかは分かるはずなのだが。
花田利彦が無断欠勤し、電話連絡も取れないので、職場の山仲間の佐々木雅之に様子を見に行くように依頼があった。佐々木は五時になるのを待って、急いで花田のアパートに向かった。花田が単独行を好むのを知っていたので、心配だったのである。
花田の部屋は鍵がかかっており、呼んでも返事はない。隣人は花田が出かけるところを見てはいなかった。管理人に事情を言って部屋を開けてもらう。2DKの部屋には大した家具はない。登山用具の置き場所は分かっている。登山靴とデイパックが見当たらない。間違いない、遭難したんだ。とりあえず勤務先関係に連絡を取った後、佐々木は山仲間に電話をした。花田がどこへ行ったか知っている者がいるかもしれない。だが、連絡の取れた者は誰も花田の行き先を知らなかった。彼等に事情を話し、捜索の際の協力を要請する。
もし遭難したのなら、二晩目になる。急がなければならない。何としても行き先を突き止めるのだ。山日記かそのたぐいのものがないか探してみよう。あるいは地図類、ガイドブック類に書き込みはないか。
佐々木がどこから手をつけてよいか迷い、いささか呆然としているとき、連絡を受けた並木俊一と星野紀子が相次いで来た。二人とも山仲間である。加勢が来たことで佐々木も元気が出て来た。勝手知ったる他人の家、星野がコーヒーを沸かす。金を出しあって近くのコンビニに食べ物を買い出しに行く。今夜は徹夜の覚悟だ。
「花田さんは最近、近くの山に凝っていると言っていたわ。有名な山ではないから日曜でも人に会わないことがあるって」
「時間と金をかけずに、自分なりの登山ができると言ってたな」
「そう、ただ登るだけじゃ面白くないから、何か意味づけをして山を選ぶ」
「十二支山の会っていうのがあるな。その年の干支の名がついている山に元旦に登る。この前、櫃が岳という山に登ったら、羊が岳と読み替えて、登山記念の板が頂上に取りつけてあったよ」
「三国山とか三国岳という山はいたるところにあるということも言ってた」
「高い山と同じ名前の低い山のことも言ってた。たとえば白山とか乗鞍岳とか」
「形が似てる山のことも。鹿島槍とよく似た双耳峰の山のことなんか」
「待てよ、それじゃ探しようがない。もっと絞り込まなければ」
動かなければ痛みは耐えられる。驚いたことに少し眠れた。人間はどんな環境にも適応できるのだ。腹は減らないがのどは渇く。水筒はとっくに空だ。いっそのこと雨でも降れば水が得られるのに。
もう捜索は始まっているのだろうか。俺のことを誰かおぼえていればいいのだが。駅の改札係、弁当を買ったコンビニの店員、道を聞いた中年の婦人、可能性のあるのはそれぐらいか。それも聞けば思い出すかもしれない程度で、俺がこんなことになっているなどに気のつきようがない。
何年か前、霊仙山に登ったとき、登り口で行方不明者の消息を尋ねるビラを見かけた。単独行の若者が行先も告げずに家を出たまま帰らなかったので、家族が作って貼ったものらしい。手掛かりは外出時の服装とあまり鮮明な印刷でない写真。行き先としては比良、霊仙、それともう一つ忘れてしまったけど書いてあった。あの行き先はどうやって推測したのか。ビラは日光や雨で痛んでおり、文字も薄れはじめていた。出かけた日付は数カ月前で、ビラを貼りだした時点で既に生きていることを期待はしていなかったろうが、いまだに行方不明のままなのか。あのビラを見たときは他人ごととして気にもとめなかったのだが、同じことが自分に起こるとは。
手帳に何か書いておこうとも思ったが、遺書になってしまう気がしてやめた。まだ早すぎる。恐怖が吹き出すのを何とかして抑えなくては。死ぬことをはっきり意識するなど人間の耐えられることではない。死ぬのなら意識混濁のうちに死にたい。
「あった。『近畿の山ガイド』に日付の書き込みがある。最近どんな山に登っていたかが分かるぞ」
「今年の分を書き出してみましょう」
一月九日 一徳防山
二月十三日 二上山
三月二十日 三峰山
四月十七日 四石山
五月十五日 五台山
六月五日 六甲山
七月十日 七種山
八月十四日 八が峰
「これは簡単だ。その月の数字に合わせ、名前に数字がある山に登っている」
「じゃあ、九のつく山だね」
「そんな山、あったかしら」
「九州なら九重山がある」
「近畿では聞いたことがないわ」
「この本にも九のつく山はない」
「八までは数字があっても、その後が続かないんじゃない」
「十は、弥十郎が岳がある」
「十一、十二はないな。十三峠というのはあるけど」
「さっき言ってた、櫃が岳を羊が岳と読み替えてたように、こじつけたら当てはまるような山はないかしら」
「十一は、士と読み替えて、武奈が岳というのはどうだろう」
「そのものずばり、大峰に、武士が峯というのがある」
「十二月は師走だから、先生に学ぶということで、学能堂山はどうかな。ちょっと無理があるか」
「肝心なのは九月よ。こじつけで何でも十二まで当てはめられるのなら、九を探しましょう」
「九を読み替えてありそうなのは、久・旧・弓・臼・丘・及・宮といったところか」
「苦・区・口・駈・供なんかも。他にもたくさんあるわ」
「でも、そんな字を使った山なんてなさそうだよ」
「久能山は」
「あれは静岡だし、そもそも登山の対象なのかね」
「あったぞ。ガイドブックじゃないけどこの地図に九尾山というのがある。十津川のあたりだ」
「伯母子や護摩壇の近くね。このガイドブックにも地名の記載ぐらいはあるはずね。探してみる」
「こっちの地図には載ってないな。まてよ、丸尾山というのがある。間違いかな」
「丸尾山が正しいわ。ガイドブックの地図にも山名は載っているわ」
「何だ。せっかく見つけたと思ったのに」
「地図には転記ミスというか、字の間違いは結構ある。この地図は、五台山を玉台山にしている」
「でも、無理にこじつけて、丸を九のつもりにすることも考えられる」
「そうだな。しかし、そう決めつけるのは危険だ。何か他に補強する根拠が欲しい」
「国道九号線沿いに該当するような山はないの」
「このガイドブックにあるのは、愛宕山、多紀アルプス、粟鹿山、氷ノ山、蘇武岳といったところかな。どれかを選ぶのは雲をつかむような話だ」
「少し遠いけど、九頭竜川の近くに同じような名前の山はないか」
「支流の石徹白川の上流に丸山というのがある。大日岳と白山の間に」
「九月は長月だから、長のつく山は」
「長老が岳、長命寺山」
「もう一つ決定的ではないな」
「鞍馬山はどうだろう。牛若丸、九郎判官義経ゆかりの山だ」
「鞍馬山で遭難するかな」
どんな山でも遭難するときは遭難する。この山から帰ったら、もう二度と山には行かない。絶対に行くものか。
一体何をしているのだろう。ぐずぐずせずに早く助けに来てくれ。死の受容の過程について読んだことを思い出す。反抗、落ち込み、そして静かな受容。まだ反抗の段階だな。
冗談じゃない、死など受け入れるものか。
いつかは死ぬといっても、まだ早すぎる。順序というものがあるはずだ。もしこんなに早く死ぬということが分かっていたなら、生き方は違っていたろう。しておかねばならぬことがたくさんある。だから助けて下さい、神様。死にたくはない。
「あのときはもう駄目かと思ったよ」
ギブスで固められた左足を見やりながら花田は苦笑した。
「三日目でしたからね。あれ以上遅くなったら危なかったな」
佐々木はにこやかに答えた。
花田俊彦は入院に退屈していた。遭難して山で倒れていたときは、どんなものでもその状態に比べれば天国だと思っていたのに、ベッドの上で何もすることはないという生活が苦痛になってきた。自分ながら勝手なものだとつくづく思う。病院が山のふもとだったので、救助の騒ぎが終って、仲間たちや身内のものが引上げてしまうと、見知ったものは誰もいなくなった。身体の回復とともに話し相手がほしくなる。日曜日に山仲間が来てくれたのは大歓迎だった。
「でも、うまく見つけたでしょう。僕らの推理力もなかなかのものだったな」
並木が誇らしげに言う。
「感謝してるよ。誰が分かったの」
「並木さん。でも、それまでの過程はこの三人皆で考えたんですよ」
星野が手柄の独り占めは許さないと並木に先んじて言う。
「八月までの山を地域別に検討したんです。一徳防山から四石山までは和歌山と伊勢を結んだ線上、近畿の中央を東西に走ってならんでいる。七種山、五台山、八が峰を結んだ線は近畿の南西から北東へと斜に走っている。六甲山は二つの線からは外れてしまっているけれど。この位置関係に意味がありそうなので延長線上を探してみたら、八が峰の向こうに三十三間山を見つけたんです」
佐々木の説明に花田は困惑した顔つきを見せる。
「それだけの理由」
「むろん九月の山としてですよ」
「分からないな。俺は九月の山としては、虚空蔵山を考えていたんだ。九を空に読み替えてね」
「じゃあ、三三が九で、三十三間山にしたんじゃないんですか」
「驚いたな。それで俺を見つけてくれたのか。改めて君たちに、そして、そういう偶然を仕掛けてくれた何ものかに感謝しなくてはいけないな。あの山に登ったのは、あの日が俺の三十三歳の誕生日だったからさ」