言葉と文字
「汝自身を知れ」とソクラテスは言ったそうだが、まさにその通り、私たちは自分自身についてほとんど知らない。私たちが私たち自身であることのメカニズムについてさえ、科学の力を借りなければ、何も知らないと同然だ。逆に言えば、そのことについて何も知らなくとも支障なく生活していけるということである。
言葉についてもそうである。私たちはほとんど困難なく言葉を使っているが、言葉がどのような構造を持ち、どのように機能しているかについては、知っている必要はない。学校教育で文法などを学ぶが、文法を意識して話したり書いたりするのはごく特殊な場合だけである。
こういう感想を持ったのは、『日本語の発音はどう変わってきたか 「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅』(釘貫亨、中央公論新社、2023年)を読んだからである。以下の叙述は、この本によって教えられたことをもとにしている。本の内容の説明部分はこの本の文章を使わせてもらっていることをお断わりしておく。
当たり前のようで不思議なことは、人類は当初、文字を持っていなかった。文明の発達は記録を必要とし、言葉を記録するために文字が発明された。文字を使うことは自然なことではないのである。
日本人は独力で文字を獲得したのではなく、隣にあった中国文明のものを借用し、改良して独自の言語表記を完成させた。しかし、言葉は変化する。語彙だけでなく、発音も変化する。以前の発音に基づいて表記された言葉の文字がそのままであれば、変化した発音とは齟齬を生じる。「てふてふ」がなぜ「チョーチョー」と発音されるのかは、歴史的変化をたどらないと分からない。しかも、日本語の文字である「かな」は子音+母音を基本単位とするので、母音や子音の単独変化を示すのが困難である。
さらにややこしくしているのは、日本語が漢字そのものを取り入れて「漢字仮名交じり文」という表記を採用していることである。中国語の発音をそのまま日本語として受け入れることは難しかったので、独自の読み(音読み)がなされた。しかし、中国語の発音も変化する。中国のどの時期の漢字を取り入れたかによって、漢字の読みも変わってくる(呉音、漢音、唐音)。さらに、意味を使った漢字使用によって訓読みというものもなされている。日本語文字の習得が困難なのは当然といえよう。
私たちはこのような歴史的過程を自覚して言葉を使っているのではない。自覚は学問的営為として現れる。
有名なのは、奈良時代のハ行子音はpであり、後にf音に近くなったことや、サ行子音がtsであったことであろう。これは、上田万年や有坂秀世らの研究によって判明した。
また、奈良時代に日本語の母音は八つあったというのも、よく知られた学問的成果であった。奈良時代に使われた万葉仮名を分析することで、五十音図でいうイ列、エ列、オ列の三列に二種類の排他的使用が見出されたことにより、その後使われなくなった三つの母音の存在が推測された。この万葉仮名の排他的使用に最初に気づいたのは本居宣長であるが、橋本進吉が再発見し、有坂秀世と池上禎造が『有坂・池上法則』として発展させた。(ただし、現在では八母音説は否定され、五母音説、六母音説、七母音説などが唱えられているが、定説はないようである。)
母音が減少した原因については、同書に次のように述べられている。
奈良時代は、短い語から長い語へと、文法的単位の中心が移行しつつあった。(中略)語が長くなるというのは、語が多音節化するということである。これは古代日本語における情報総量の増大に対応した現象と考えられる。情報総量が増大すれば、語の数を増やさなければならない。奈良時代という社会変動期に漢文が大きな役割を果たして、漢語が増えたことが推測される。
いっぽう、和語の側では、母音の数の多さによって増大する情報量に対応するか、あるいは機能の低い母音を整理して減らす一方で、既存の語を積み重ねるか派生語を産出するかして多音節化することによって対処するかの岐路に立っていた。古代日本語は、後者の道を進んだ。(54~55頁)
さて、平安時代には仮名が成立し、平仮名によって文章を書く効率が上がり、物語、日記、和歌などが盛んに作られた(この時期の文芸作品はほぼ総平仮名で書かれた)。また、日本語に幾つの音節が存在するのかという疑問から、いろは歌が成立した。いろは四十七文字は平安時代のすべての仮名を含んでいる(「ん」が現れるのは中世以降である)。「ゐ」「ゑ」「を」も「い」「え」「お」と区別して発音されていた。つまり、話し言葉はいろは四十七文字によって余すところなく記録することができたのである。平安王朝時代には、表音文字と話し言葉が一致するという素晴らしい関係が実現していた。しかし、その幸福な時期は長続きしなかった。
鎌倉時代から室町時代までの間に、京都語では、「い・ゐ」「え・ゑ」「お・を」の音声がそれぞれ同音に帰していた。これに加えて語中語尾のハ行音のワ行音化というハ行転呼音が絡んで仮名綴りの混乱が平仮名文芸の表記秩序に及んできた。ここに至って平仮名と密接にかかわって歩んできた王朝古典文芸の教養の維持に深刻な危機が生じた。この危機に対処して王朝文芸の標準的書式を整えて後世に伝えたのが、藤原定家であった。(94頁)
定家は、語の認知性向上のために、旧草紙に従って綴りの安定を図り、テクストを漢字仮名交じりに改定した。定家は漢字仮名交じりの読解補助の効果を知り尽くして、テクストの要所に漢字をちりばめた。定家のテクスト改革の根本理由は、読み手への配慮である。定家の目指したのは日常語彙の正確な転記ではなく、古典文芸の書写における雅語の表示であった。
私は定家を歌人として知っていたが、このような業績のある人とは知らなかった。さらに、契沖や本居宣長の以下のような業績も初めて知った。
第三章において、「鎌倉時代ルネサンス」に言及し、重要人物として藤原定家について述べた。だが、わが国には鎌倉時代ルネサンスをしのぐ規模の大きい文芸復興運動が存在する。それは、江戸時代、元禄期を中心とする「近世ルネサンス」である。近世ルネサンスは、江戸時代の経済的繁栄を背景にして、京・大坂を中心に、文芸、美術、演劇をはじめ、様々な分野で新しい潮流が起こった。古典注釈の分野でも中世の秘伝を排除した新しい実証的な方法が立ち上がった。
『万葉集』を古典の地位に押し上げた契沖『万葉代匠記』(1690年成立)と賀茂真淵の万葉注釈、偽書説が付きまとった『古事記』を精緻な注釈によって信頼あるものとして位置づけた本居宣長『古事記伝』(1790~1822年刊)は、いずれも近代的な古典注釈と評価しうる水準に達した。(192頁)
契沖(大坂)、賀茂真淵(浜松)、本居宣長(松阪)は地方都市出身者であった。彼らが規範としたのは、都の住人たちが憧れたみやびな王朝歌文ではなく、荒々しい上代古典であった。彼らの仮名遣い論と古典文法論の蓄積は、明治以後の国語学の母体となった。
五十音図をそう名付けたのは契沖である。しかし、五十音図の字数は「いろは」と同じ四十七字である。契沖は五十音図の中で欠けているヤ行「い」「え」とワ行「う」の仮名にもしかるべき音声があったと考えた。契沖は漢字反切によって説明しようと試みたが、結局うまくいかなかった。
契沖による古代音声再建は、宣長の『字音仮字用格』が継承した。字音の仮名遣いとは漢字の音読みの仮名遣いのことである。十八世紀以後盛んになった木版印刷の大衆的読み物には多くの漢字が使われ、そこには音訓の振り仮名が付された。しかし、そこで使われた音読みには体系的統一がなく、作者や出版元が困り果て、何らかの基準を求めていた。『字音仮字用格』はその需要に応える形で出版された。
ただし、宣長の意図は、彼の規範となっている上代語の音読みの仮名遣いの再建にあった。宣長は、古代の日本人が漢字原音をそのまま受け入れたのではなく、原音を日本語の音に近い形に加工して用いたと考えた。これが日本漢字音である。上代日本漢字音は日本語音体系の中に存在している、という優れた発想に基づいて宣長は古代音声再建に取り組む。音節を子音と母音に分離できない中で、宣長は、既存の仮名を駆使して、上代語のア・ヤ・ワ三行の発音体系を表現した。しかし、宣長のこの見解は注目されることがなかった。近世の仮名遣いにおける関心の重点が綴りの稽古に再び移っており、仮名遣い論の本質である古代音の再建は置き去りにされたのである。
明治政府が採用した公文書書式は漢文訓読を基調にした片仮名文語文であった。明治四年(1871)の文部省設置後、小学校国語では契沖と宣長の歴史的仮名遣いが教授された。
明治政府が歴史的仮名遣いを採用した理由は、契沖と宣長以外に語の綴り方に関する学問的基盤がなかったからである。この二人を反動派の元祖のようにいうのは筋違いである。彼らは、仮名遣いの背後に存在する古代音声を追い求めたにすぎない。(226頁)
この本には他にも興味深い事実がいくつも述べられている。私は日本語を話し、書いているが、発音や文字について疑問をもつことはほとんどない。しかし、ときどき違和感を覚えることがある。何が正しい言葉の使い方なのか迷うことがある。言葉は変化する。ただし、その変化はデタラメではない。何かの理由や法則があるのだ。そして変わらないことにも。それらを知らないにもかかわらず、私たちは言葉遣いを維持し、また変化させている。言葉とは不思議なものだと改めて思う。
さて、「てふてふ」がなぜ「チョーチョー」と読まれるようになったのか。それはまずハ行転呼によって「てふ〔tefu〕」が「てう〔teu〕」と発音されるようになり、さらに母音の連続から生まれた融合音〔eu〕がオ列の長音「オー」に変化した結果である。しかし、半母音〔y〕を介する「teu→tyoo」について、母音連続の〔eu〕から〔yoo〕への過程が分かっていないそうである。