井本喬作品集

言葉の不思議

 本居宣長については名前を知っている程度だったのだが、彼に触れた言語学の本を読んで若干知識が増えた。ただし、それまで宣長についての知識がまるでなかったというのではない。宣長の子の春庭について書かれた『やちまた』(足立巻一、河出書房新社、1974年)という本を読んだことがあった。だが、内容はほぼ忘れていた。気になったので、中公文庫本(2015年)で読み直してみた。

 私は十年ほど前に松阪に行ったことがある。古い街並みがあるらしいので観光に行ったのだ。城跡にある本居宣長記念館も見かけたが、中には入らなかった。宣長に興味はなかった。反感があったのでもなかった。「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」が宣長の作であることも知らなかった。古文や和歌などは私の視野にはなかっただけである。

 『やちまた』をなぜ読んだかも覚えていない。たぶん、図書館の書架で見かけて、題名が謎めいているのと、取り上げられているのが春庭という盲目の学者であることが、読む気を起こさせたのだったろう。読んでみて面白いと思い、内容はほぼ忘れてもその本を読んだことはずっと記憶に残った。

 『やちまた』を再読して、いろいろ思うことがあった。

 この時代のここに取り上げられている階層には離縁ということが頻繁に起きていたようである。嫁ぎ先からの離縁ばかりでなく、養子先からの離縁も多い。養子縁組は多かったのだろう。人々の関心は家督を継ぐということにあり、血縁は考慮されたけれども、場合によっては名目のようなものでも容認されたらしい。そして、再婚も多い。

 宣長と妻のお勝は再婚同士であった。宣長は最初の妻を離縁し、お勝は最初の夫と死別している。春庭は宣長の長男であったけれど、家督は宣長の弟子の稲掛大平に譲った。春庭には弟春村がいたが、津の薬種問屋小西家の養子となっていた。春庭は宣長の学統を継ぎ、後鈴屋社を組織。春庭には有郷という長男がいたが、幼すぎることの懸念から後を継がせず養子に出すつもりだった。春庭は本居大平の長男健正を養嗣子に定めたが、健正が急死すると大平の次男清島を養嗣子に望んだ。大平は諸事情により渋っていたが、その間に清島も病死してしまった。春庭は有郷を養子に出したが、やがて離縁となり、結局彼が春庭の後を継ぐことになる。春庭には飛騨、美濃、能登の三人の妹がいたが、飛騨は一度離縁となって再婚している。

 もう一つ啓発されたのは、この時代において、広い地域に学者、研究者がいて、お互いの存在を知り、交流を試みていることである。宣長・春庭関連で目につく言及だけでも、契沖、文雄、石塚龍麿、賀茂真淵、冨士谷成章、鈴木朖、義門、足代弘訓、田中道麿、鹿持雅澄、富樫広蔭、平田篤胤など。私にとっては、名前は聞いたことはあるがどういう人かは知らず、また名前を聞いたこともない人たちである。他にも多くの学者、研究者の名があげられている。

 彼らの意見交換はどのようにして行われたのか。対話、講義などの対面でのやり取りは当然として、原本の貸与や筆写が細々と続けられてきたのであろう。その状況を変えたのが木版印刷の普及であったようだ。より広い読者を得ることができるようになって、問題意識や理論が共有され、あるいは立場の違いを明確にし、学界と呼べるものが形成されていったのではないか。しかし、そのことが知られることが少ないのは、私だけの事情ではあるまい。

 ことばは人間が社会を構成する基本の条件にもかかわらず、ことばの研究に生涯を費やした人のことはほとんど世人の関心をひかないというのは奇妙なことではあるが、近代以前においては国語学はまったく特殊で、孤独な学問であったからであろう。(下巻384頁)

 言葉に関しては、仏典や漢籍のサンスクリット語や中国語が研究の中心であり、日本語はその翻訳という観点から取り上げられるか、和歌が対象となる程度だった。上代語の研究によってようやく日本語が脚光を浴び始めたのだが、またもや不幸な事情が起こったことは、富樫広蔭のケースとして述べられている。

 そうして政治革命の波が過ぎると、西洋文典が流入して学界の状勢は一変したのである。もし、西洋文典の移入がいま少し遅れていれば、広蔭の語学説は人格に関係なく、日本文法の主流となっていたであろう。が、それどころか、膨大な量の広蔭の研究は大半が散佚してしまったのである。(下巻51頁)

 ただし、学問の結果は私たちに教えられるが、その成立過程(学問史)は教わることが少ないというのは、どの学問、どの時代でも似たようなものであるのではないか。明治以降の国語学についても、大槻文彦、大矢透、山田孝雄、上田万年、橋本進吉、有坂秀世、池上禎造、時枝誠記などの研究者については、上記の契沖以下の人々と同じ程度の知識しか私にはなかった。

 学校では日本語文法を習う。しかし、言葉を使うのに文法の知識を必要とはしない。言葉の重要性は理解していても、言葉自体についての関心が低いのは、そのことが原因かもしれない。ただし、人々は言葉の意味については敏感である。意味こそが伝達の中心であるように思えるからだろう。意味は習得される。だから言葉も習得されるものだと考えてしまいがちである(しかし、意味を意味として理解するというのも不思議なことではあるのだが)。

 文法は正しい言葉遣いのために必要とされる、そういう受け取り方もある。宣長にしても、上代語は日本語の正しい形を留めているという見解のもとに研究をしていた。

 言葉の背後には個々人を越えた法則がある。宣長に代表される研究者たちはそう考えた。『やちまた』の中に、富士谷成章の『あゆひ抄』中の文章が引用されている。

  「天土の言葉はことわりをもちて静かに立てり」(上巻237頁)

 著者の言うように、これは「ことばの法則性、ひいてはロゴスを語った章句」として優れた表現である。

 また、『やちまた』には、「腸」とあだ名された友人の道後温泉での言葉が記されてある。

「文法がふしぎに好きじゃった。いつもこれだけは満点じゃった。妙なもんじゃなあ、文法ちゅうもんは‥‥」
 腸は上体をおこしたが、私は寝そべったままにした。
「文法ちゅうものは、ことばの遊びじゃなかろうかいのう?文法知らいでも物は言えるし、文書も書ける‥‥」(上巻327頁)

 私たちは言葉を使うとき文法を意識していないし、さらに文法に則っていることさえ意識していない。これは習得の賜物だろうか。しかし、学習の効果がこれほど完璧だとは信じ難い。言葉というものが体系を保持しながら私たちの外に存在していて、私たちはその体系を取り込むことで言葉をわがものとするという過程は、母語以外の言語の習得には当てはまるかもしれない。しかし、それだとて、ある種の能力を仮定しなければ無理なように思える。文法が私たち個人を越えているのは確かである。しかし、それは私たちの肉体の外にあるのではない。機能として私たちに備わっているのである。そう考えることにおかしな点はない。学習よりも生得と言う方が適切であると私は思う。

 しかし、言語は変化する。それもまた不思議なことである。宣長の時代は、「江戸語が上方語と対立し融合しながら独自の成立をとげたとき」であり、口語が文語に浸透し始めてもいた。

  また、そんなことばの転換期であったことが、無意識のうちに春庭に『ことばの八衢』を書かせたのであろう。完成された中古語を雅語とし、ことばの流動にともなう混乱から守ろうとして、文法を刻苦して組み上げたともいえる。それは春庭だけではない。この時期に義門をはじめ国語学者がいっぱいあらわれてことばの研究が進展したのも、国語そのものの激動期の別の表現であった。つねに、ことばの激動のときにことばの研究も大きく展開するのである。(上巻432頁)

 言葉は変化する。しかし、それを堕落とみなすだけでは言葉の理解にはならない。変化はデタラメではなく、そこにも法則性が見出されるはずなのだから。

 言葉の乱れというのがいつの時代でも言われるように、言葉は常に変化している。ただし、構造や体系という次元での変化は限られている。言葉は意思伝達の要であり、変化ばかりしていては役に立たない。

 現代でも言葉の乱れが言われることがあるが、新語、流行語が注目されるように、語彙や意味に関するものがほとんどである。教育やメディアによる標準化も言葉の安定にある程度寄与している。方言やジャーゴンは解消されないかもしれないが、大勢に影響はない。

 しかし、変化の予想というか予感のようなものはある。一つはコンピュータの発達によってAIのような技術が言語の解析や使用に介入してきていること。表記が漢字仮名交じり文になる日本語はコンピュータには馴染まないとも思われたが、漢字変換という技術はそれを障害にはしなくなっている。しかし、技術面からの言語改革ということが起こるかもしれない。人間の言語能力をそのままAIに再現させることは困難であり、AIの論理形式に合うように言語体系が再構成されるかもしれないのである。

 二つ目はグローバリゼイションの影響である。世界共通語としての英語の地位が確立されれば、日本語の使用頻度が減り、いずれは消滅してしまうかもしれない。もちろん、英語自体も変化し、世界語に変身するかもしれない。

 いずれにせよ、言葉はそれを使用する人々の存在なくしては存続し得ない。記録としては残るかもしれないが、死んだ言葉として、である。失われた言語は多数ある。日本語を母語とする人々が減少し続け、日本語を使う人が少なくなれば、いずれ日本語も消滅してしまうかもしれない。

 それを阻止しようとするか、それに乗じるかは各人の思い次第だが、少なくとも言葉に興味を持つことが望ましい。

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