井本喬作品集

拝啓ホリエモン殿

 啓発的な本に巡り会うというのは、頻繁に起こることではないけれど、めったにないというほどの少なさではない。それは本を供給する側に状況的な意識があって、当然のことながら共鳴する相手を求めているからでもある。最近では、『セイヴィング キャピタリズム』(ラグラム・ラジャン、ルイジ・ジンガレス、2003年、堀内昭義、アブレウ聖子、有岡律子、関村正悟訳、慶應義塾大学出版会、2006年)という本を見つけた。この本がアメリカでどのような評価を受けているかは知らないが、たぶん日本では冷たい扱いをうけるであろう。しかも、発刊のタイミングも悪すぎた。ライブドアや村上ファンドの問題で金融自由化に対する疑念がよみがえってきた時期なのである。

 著者たちはシカゴ学派に属しているらしい。この本での著者たちの主張を一言に要約するとすれば、「資産の支配権を持つ者は、その資産を確かに有効に使用できる者となるようにする」(P412)ということであろうか。自由な金融がそれを可能にする。それを妨げるのは既得権者たちに支配された政府である。「今日、市場経済を基盤とする民主主義の最大の危機は、それが社会主義へ進んでいってしまうことではなく、リスクを削減するという名目の下に競争を制限するリレーションシップ・システムに変貌してしまうことである」(P440)と著者たちは主張する。それゆえ著者たちはベンチャー・キャピタル・ファンドを高く評価する。買収ファンド、ハゲタカ・ファンドも高く評価する。それどころか、ジャンク債の市場を拡大させたマイケル・ミルケンも、全面的にではないが、評価する。

 私はこの本に教えられることが多かった。しかし、そのことを述べたとしても、とても受け入れられるような環境ではなさそうだ。ライブドアや村上ファンドの事件は不法行為が行われていたということなので、基本的には金融自由化の評価とは次元が異なる問題である。とはいえ、「額に汗しない」「モノを作らない」「無から有を生み出す」「錬金術」などの金融に対するマイナスイメージの復活強化に、格好の材料を与えることになった。そこで、むしろ金融スキャンダルのことを書いた本を取り上げようと思う。少し以前の本であるが、『LTCM伝説』(ニコラス・ダンバー、2000年、寺澤芳男監訳、東洋経済新報社、2001年)である。

 LTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)の事件が印象深いのは、ノーベル経済学賞受賞者のロバート・マートンとマイロン・ショールズがその一員であったことにもよる。ロバート・マートンの名前を初めて聞いたとき(ノーベル賞受賞のときだったろう)、著名な社会学者と同姓同名なのは偶然なのかと気になった。後に、経済学者は社会学者の息子だと知った。LTCMの破綻のときは、不肖の息子という言葉が浮かんだ。なぜなら、父マートンは、私の理解した限りでは、リベラルな思想の持ち主であったからだ。

 父マートンは、パーソンズとともに、機能主義を提唱したことで知られている。三十年ほど前に、ある必要から、パーソンズを読み、マートンの『社会理論と社会構造』を読んだことがある。パーソンズの理論は私には決定論的に思え、むしろ彼を批判したホマンズの方に惹かれた。マートンはパーソンズよりも柔軟であった。パーソンズにおいては社会的な逸脱は心理的な異常と同一視されていたが、マートンは逸脱の革新的機能を指摘していた。コンフォーミズムの批判者としてのマートンに私は馴染んだのである。だから、息子マートンが金融で金儲けをしようとしたことが、不思議に思えた。

 マートン、ショールズ、ブラック(前二者がノーベル賞を受賞する以前に死亡した)の理論は、私には全く分からない。だが、分からないなりに解説書などを読んでいるうちに、金融というもののいかがわしさが薄れてきた。金融市場において空手でカネを儲けられる機会があるのは、その市場が効率的でないからであり、そういう機会が利用されることによって、市場は効率化されていく。効率化された市場は全ての人のリスクをカバーすることにおいて有効性を増していく。つまり、誰かが金融市場で濡れ手で粟の機会を見つけることが、人々の暮らしをよくするのである。そういう機会を誰も利用しないのであれば、あるいは結局は他の誰かが利用することになるのであれば、自分が利用することに何の問題があろう。そうすることが自分の考えの正しさを証明することになるならば、なおさらである。少なくとも、マートンはそう考えていたようだ。

 『LTCM伝説』を読んで印象的なのは、優秀な学者が好んで金融の世界に入っていくことだ。知的な優秀性がカネ儲けに生かされること、そして後者が前者を証明すること、つまり、知性の高さと世俗的な成功と結びつくことへの疑念なき信念。世俗的成功にいかがわしさを感じ、それによって失われる(と思われる)ものをこそいとおしもうとする傾向のある人間(私たち?)にとっては、共感しがたいところである。もちろん、彼等が全て成功したわけではない。LTCMは破綻し、マートンもショールズも財産を失った。だからといって、彼等をあざ笑うのは控えた方がいいだろう。彼等の失敗は、高慢さの崩壊であると同時に知性の挫折でもあるからだ。私たちがいまだに世界をうまくコントロールできないことの例示の一つなのだ。

 ライブドアや村上ファンドの事件は、不法行為であったのだから、そもそもの議論の土台が成り立っていない。彼等の言動には何の目新しさはないが、事業の拡大がそれに重みをつけていた。だから、事業が偽りの上に築かれているのが判明すると、それらの重みも失せてしまった。村上氏は逮捕前の記者会見で「金儲けは悪いことですか」と反論していたが、不法なやり方でそれをしていたなら、その言葉はうつろに響くだけだ。

 堀江氏は著書の中に「人の心はカネで買える」と書いているらしい(読んでいないので伝聞になることを許して頂きたい)。こんな言葉が物議を醸すほど世の中うぶではないはずだが、この言葉が妥当する証拠はたくさんあげられる。しかし、反証だっていくらでもある。つまり、この言葉は真実の全部ではない。正しい言い方は「人の心はカネで買える場合がある」であり、これは平凡な事実にすぎない。むしろ不思議なのは、カネでは動かぬ心があるということだ。

 ホリエモンに多くの人びとが支持を与えたのは、彼からカネをもらったからではない。彼がカネを持っていること自体に魅了された人はいたかもしれないが。いずれにせよ、「一文の得もないのに」多くの人びとがあなたを支持した。そのことをあなたはどう思っていたのだろう。

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